感情の変化

 最近、教室の空気が変わった。そのせいか、クラスメイト達からの嫌がらせや目の前で悪口などを言われることがなくなり、これまでよりも教室で過ごしやすくなっている。席を離れる度に、鍵付きのロッカーへ教科書や筆箱などを入れる必要もない。

 教室の空気を変え、過ごしやすくなったのは、これからやってくるであろう人物が関係している。瑠衣は、箒で床を掃きつつ、壁にかかっている時計を見た。来るとすれば、もうすぐだろうか。


「瑠衣ちゃん、そわそわしてるねぇ」

「し、してるかな!?」

「してるしてる。時計見るの何度目だよ。ずっと同じとこ掃いてるし」


 そんなに時計を見ていたつもりはなかったのだが、陽介が言うには何度も時計を確認しているようだ。顔を赤らめて視線を宙に彷徨わせる瑠衣に、廉と陽介はくすくすと楽しそうに笑っている。

 きっかけは、廉が想像したことで入れ替わってしまったあの騒動のときだ。瑠衣自身、この感情がよくわかっていない。嬉しいような、気恥ずかしいような。会えば緊張するようにもなってしまった。

 以前までの自分はどうやって過ごしていたのだろうか、どこかおかしいのだろうか。悩むたびに胸が締め付けられ、そして、会いたくなる。今も、いつ来てくれるのだろうかと、待ち焦がれて──。

「……ちゃん、瑠衣ちゃん!」


 廉の声で、自分がぼんやりとしていたことに気付く。慌てて廉の方を見ると、彼は教室の出入り口付近を指差していた。

 ──鼓動が早くなるのが、わかる。


「穂波、帰るぞ」


 そこには、遥の姿があった。

 思わず緩みそうになる口元に力を入れながら、瑠衣は箒を持ったまま急いで遥の元へと向かう。


「あ、の、お疲れさまです、一色先輩。今日は、わたし掃除当番があって」


 遥と目が合うと、すぐに目線をどこかに向け、また彼を見て、を繰り返してしまうのは、ここ最近ずっとだ。目を合わせなければ変に思われると意識をしても、合った瞬間に逸らしてしまう。あの力強く真っ直ぐな目に見られるのが、恥ずかしくてたまらないのだ。


「みたいだな。じゃあ廊下で待ってる」

「ひぇ……あ、ありがとうございます。すぐ、終わらせるので!」


 遥は廊下に出て、窓側の壁にもたれ掛かった。早く掃除を終わらさなければ、とまだ掃除をしていない部分の床を箒で掃く。同じ掃除当番の生徒達から押しつけられ一人で掃除したこともあったが、今はもうそんなことはない。これも、遥のお陰だ。掃除当番の生徒達からは痛いほど視線を感じるが、気にしないようにしている。


「じゃあね、瑠衣ちゃん。顔、にやけてるよぉ」

「そっ、そんなことっ、なっ」

「はいはい。じゃあな。また明日」


 廉と陽介は瑠衣に手を振って教室を出る。廊下で待っている遥に挨拶をしているのだろう、声が聞こえた。

 あの入れ替わり騒動の一件以来、遥は放課後になるとこうして瑠衣を迎えに来るようになった。遥が瑠衣の姿でいるときに散々な行動を取ったことへのフォローらしいが、それがどうしてこのような形になったのかは瑠衣もさっぱりわからない。

 初めて迎えに来てくれた日は、教室中大騒ぎだったのを覚えている。瑠衣も遥から何も聞かされておらず、ぽかんと口を開けたまま自席から彼を見ていた。


「そこまでする価値、こいつにあります!?」


 遥が瑠衣を迎えに来たというのが許せないクラスメイトが、彼に近付き、大きな声でそう言った。この教室にいる誰にでも、瑠衣にでも、聞こえるように。

 あの遥が、能力を持っていない、この世界では価値を持たない瑠衣を迎えに来る。そんなことをする必要も価値もないのだと、ほとんどの生徒が同じことを思っただろう。それを、クラスメイトの一人が代弁したようなものだ。

 これを皮切りに、口々に不満が飛び交う。組むべき相手が他にいるはず、遥の優しさに甘えているだけ、足手纏いにしかなっていない、など。聞いていて瑠衣は耳が痛くなるが、遥は特に反応せずにこちらへと歩いてきた。


「一色先輩、私達の話聞いてくださいよ!?」


 自分達の言うことには耳を貸さず、瑠衣の元へ行こうとする遥に痺れを切らしたのか、別のクラスメイトが彼の腕を引っ張った。すかさずその腕を払う遥に、教室中が静まりかえる。眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠さない。


「俺のすることに口を出せるほど、お前らに価値があるのか」


 あのあと、瑠衣は半ば強制的に遥と共に教室を出たため、廉と陽介に事の顛末を聞いたが、誰も一言も発さず、凍り付いていたとのこと。誰もが強いと認める遥の言葉は、やはり影響が大きい。

 その後も、遥は毎日こうして迎えに来てくれる。クラスメイト達が不満を言ったのは、最初の日のみ。そこから少しずつ、少しずつ、瑠衣の環境が変わり始め、今に至る。クラスメイト達はあまり納得していない様子だが、遥にあのようなことを言われ、うかつなことは言えないとなっているようだ。


「……終わった!」


 同じ掃除当番だった生徒達は、既に帰り始めていた。誰も瑠衣に声をかけることも、手伝うこともしない。押しつけられることがなくなっただけでも良いことだと、瑠衣は考えている。

 掃除用品をロッカーに入れ、瑠衣は自席に置いていた鞄を肩に掛けて教室を出た。すぐ目の前の壁でもたれ掛かっていた遥は、読んでいた文庫本を鞄に入れ、瑠衣を見て小さく笑みを浮かべる。こうして、遥が笑みを浮かべてくれるようになったのも、今や珍しいことではない。


「お疲れ」

「すみません、お待たせしてしまって」


 いや、と遥は首を軽く横に振り、二人は廊下を歩き出す。今日は少し寝坊した、授業中に面白い話を聞いた、など、他愛ない話をしながら、ゆっくりと。

 ふと、遥が「そうだ」と思い出したかのように呟いた。


「遠峯から、新しくクレープ屋が開店したって話を聞いた」

「クレープ屋さんですか!?」


 甘い食べ物が好きな瑠衣は、クレープという言葉を聞いてテンションが上がる。どこにあるのだろう、行ってみたい、と目を輝かせる瑠衣に、遥は目を丸くしたあと、くすくすと笑った。


「すごい反応だな。場所も教えてくれたんだが、せっかくだ。行ってみるか」

「えっ、い、いいんですか!?」


 遥から誘ってくれるとは思わず、嬉しさのあまり声が大きくなってしまった。慌てて口を両手で押さえる。

 遥と一緒に帰るようになったとはいえ、どこかへ寄ったりすることは特になかった。フォローだと遥が言っていたので、これ以上望むわけにはいかないと思っていたが、こうして一緒にどこかへ行けるとは。


 ──嬉しいな。この世界に来て初めて、誰かと一緒にどこかへ行けるんだ。それも、一色先輩と。


 この世界にもクレープがあるのか、とそれが瑠衣が知っているクレープなのかはわからないが、遥とどこかへ行けるのが嬉しくて、つい顔を綻ばせる瑠衣だった。





 新しく開店したばかりだからか、クレープ屋は大繁盛。ずらりと人が並んでいる。外に置いてある看板を見ている限りでは、瑠衣が知っているクレープのようだ。


「す、すごい人ですね」

「そうだな。とりあえず並ぶか」

「はい! ……って、え!? 一色先輩も並んでくれるんですか!? あの一色先輩が!?」


 こういった行列に並んでいる遥が想像できない。ここに着くまでも、並んでいたら瑠衣が一人で並んで買い、遥にはどこかで時間を潰してもらおうと考えていたくらいだ。それだけ、遥が並ぶとは思っていなかった。

 クレープ屋を見ていると、手際よく客を捌いているように思えるが、それでも遥と瑠衣がクレープを買えるようになるまでは三十分以上はかかるだろう。そんな待ち時間もおいしくなるスパイスのようなものだと瑠衣は思っているが、遥は本当に並ぶのだろうか。待てるのだろうか。


「そんなに驚くことか? 並ばないと買えないだろ」

「だ、だって、行列とか嫌いそうじゃないですか。『並んでまで食べるものじゃない……』とか言いそうでふ」


 声真似をしたところで、遥に両頬を引っ張られた。


「ふぁにふるんれふは!」


 何するんですか、と抗議をすると、遥は瑠衣の両頬を引っ張りながら肩を揺らして笑っている。


「いや、よく喋る口だなと思って」


 そこでぱっと遥が手を離したため、瑠衣は涙目になりながら先程まで引っ張られていた頬を手で押さえた。


「いたた……。ちなみにですが、クレープは甘いですよ?」

「それくらいは知ってる! 別に、苦手な食べ物じゃない。どちらかと言えば、甘いものはよく食べる方だ」

「それはとても意外でした……」

「おい、翻訳がおかしい文章みたいになってるぞ」


 遥と瑠衣は列の最後に並び、順番を待つ。どんなときに甘いものを食べているのかを訊いてみたところ、遥は疲れているときなどによく食べるそうだ。そうすることで、疲れが和らぐ気がするらしい。

 食べたいときに食べている自分とは違うな、と思っていると、瑠衣の前や後ろを並んでいる者達からやけに視線を感じることに気がついた。──いや、これは瑠衣を見ているのではない。瑠衣の隣にいる遥を見ているのだ。

 ちらりと横に立っている遥に目をやると、彼は気にしていないようでぼんやりと前を見ている。その表情もまた様になっているのだから、周りにいる女性陣は彼を見るのは当然なのかもしれない。瑠衣が見ていることに気が付いたのか、遥はこちらを見て「どうしたのか」と少し首を傾げる。何でもないと首を横に振り、瑠衣は顔を俯けて両手を握りしめる。

 何故か、胸のあたりがもやもやとしていた。





 ──数十分後。無事クレープを購入できた遥と瑠衣。店から離れたところへ移動し、瑠衣は「いただきます」と早速クレープにかぶりついた。

 口いっぱいに広がるクリームの甘い味。フルーツとチョコレートもそこに混ざり、幸せの味を噛みしめる。


「ふあぁ……おいしい! やっぱり、クレープといえば、生クリームとイチゴとバナナとチョコレートです!」

「確かにおいしそうだな」


 久々に食べたクレープに、テンションがおかしくなっていたのかもしれない。瑠衣は遥の目の前に自身のクレープを前に出した。


「一口食べますか? なーんちゃっ」

「じゃあ貰う」

「て?」


 遥は少し背を丸くして、差し出された瑠衣のクレープを一口食べる。

 その瞬間、顔に熱が集中し、瑠衣の顔は真っ赤になった。ぱくぱくと、口を開いて何かを発しようとはするものの、声が出ない。


「ん、おいしいな。ほら、俺のも」


 今度は遥のクレープを目の前に差し出され、息を呑む。自分からしてしまったとはいえ、まさかこんな展開になるとは。


「食べないのか?」

「い、いえ! いっ、いただきます!」


 瑠衣が遥にクレープを差し出したから、彼も同じようにしてくれているだけ。何も変に意識することではない。そう言い聞かせ、瑠衣はぐっと目を瞑り遥のクレープを一口食べた。

 カスタードの甘さとイチゴの甘酸っぱさがちょうど良く、クリームとはまた違ったおいしさが口の中いっぱいに広がる。目を開け、瑠衣は口元をクレープを持っている手とは逆の手で押さえた。


「おいしい!」


 クリームも良いが、カスタードも良い。クレープは組み合わせが自由で、楽しくおいしい食べ物だと、口元が緩む。

 さっきまでの瑠衣はどこへやら。そんな瑠衣に、遥は自身の口元の右端をとんとん、と叩いた。


「穂波、口元にクリームがついてる」

「うぇ!? 嘘、ど、どこですか!」


 瑠衣はクレープを食べるのを止め、遥を見ながら必死にクリームがついていると言われた箇所を探す。


「嘘」

「ちょ、ちょっと! 一色先輩! からかわないでください!」

「はははははっ! 馬鹿だな」


 顔を赤くして怒る瑠衣に、遥は肩を揺らして笑っていた。こんな冗談を言う人だったのかと思いつつ、やはり騙されたことは悔しい。仕返しをしてやろうとしばらくしてから遥にも同じようにしてみたが、すぐに嘘だと見抜かれてしまい、更に悔しい思いをする瑠衣だった。


「──今日はありがとうございました」


 クレープを食べ終え、いつもの分かれ道までやってきた二人。今日はいつもより時間が遅いため、街灯が灯り、少し暗くなりつつある道を照らし始める。

 とても楽しかったからだろうか、ここで別れることに後ろ髪を引かれるが、じゃあ、と瑠衣は軽く頭を下げた。


「家まで送る。暗くなってしまったしな」


 その言葉を聞いて瑠衣が顔を上げると、遥は少し驚きつつ、どこか嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「何か嬉しそうな顔をしてるな」

「え!?」

「ほら、行くぞ」

「……っ、はい!」


 嬉しいに、決まっている。こうして一緒に過ごせる時間が、少し延びたのだから。

 遥が瑠衣の歩く速度に合わせて、隣を歩く。こちらを向いて、話して、笑いかけてくれる。

 まだ、自宅に着かないでほしい。まだ、一緒にいたい。

 そんなことを思いながら、瑠衣はいつもの帰り道を遥と共に歩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る