第3話

「おい。マリン?」

「えっ」

「どうしたんだボーっとして」

「あぁ、うん。別になんでも。ちょっと昔のこと思い出したというか」

 桜庭家繁栄の引き換えに俺の左手小指を差し出すと答えたが、マリンはどこか不服というか、思うところがある素振りを見せた。

 そもそもこの“盟約”の具体的な仕組み自体自分は把握しているわけではないしそれを正しく理解しているのはマリン当人だけなのだろうが、果たしてこの取引は本当に価値のあることなのだろうか。

 死神なんて存在に魂を売ったご先祖様の考えなんて今の自分には及びもしないが、そうまでして桜庭の家を残す意味がどこにある?

「んじゃ、セージが差し出すのはそれね。りょーかい」

「なぁ、マリン」

「え?」

「やっぱり差し出すもの、変えてもいいか」

「なに、結局変えるの。で、どこ?」

「睾丸」

「は?」

「睾丸。金的。タマ。学術的に言うと精巣?」

「いや、あんたそれ………」

 マリンは面食らったと言うように無の表情をしている。どういうことを意味しているかは彼女も理解しているようだった。

 次の世代に命を残す機能を奪ってほしい。

 そういうことだ。

「自分が何言ってるか分かってるわけ?」

「もう二十歳だ。それくらい分かる」

「いや、いくらなんでもそれは受け取れな―――」

「やれよ、早く」

 有無を言わさず俺はそう彼女に詰め寄った。勢いで彼女の右肩を掴んでしまったが、間近に迫るマリンの表情には明らかな困惑と小さな恐怖心が見て取れる。思えば彼女とも今日で二十年の付き合いになるが、こんな風に彼女を詰問するのなんて初めてかもしれないな。

「ほら、死神らしく持っていけよ。いつか生まれるかもしれない命」

「い、いや、セージちょっと落ち着きなって」

「落ち着いてる。だから持ってけよ」

「持ってかないし。そんなことしたらこの家はアンタを最後に血が途絶えちゃうじゃん」

「いいよそれで」

「アンタね―――」

「死神と契約してまで俺は幸福に生きたいとは思わない」

「………」

 別に彼女に対して敵意を持っているとかそういうわけではなかったのだが、そう受け取られても仕方のない発言だったと気付いた時には手遅れだった。言葉は時として凶器になる。

「もう、俺の代で終わらせたいんだよ。こんなくだらねぇこと………」

 これではまるで繁殖に一生懸命な虫と同じじゃないか。俺が生きる目的は御家のためじゃないだろう。俺は俺のやりたいように生きたい。

 だからこんなこと、俺の代で終わらせてやる。

「———セージ」

「なん―――っ!?」

 マリンの声に反応した瞬間、左頬に鋭い痛みが走った。直後に「パンッ」という小気味いい音が部屋に響き、そこで漸く俺は彼女に頬を叩かれたのだと知る。

「なに、するんだよ」

「………別にアンタにムカついてビンタしたわけじゃないから」

 相対するマリンはやり場のない感情の置き場を探すように視線を背ける。けれどその表情は確かな“怒り”を感じさせた。彼女は怒っている。何にだ?

「いや、どう見ても怒ってるだろ」

「怒ってないし。ただ………」

「ただ?」

「アンタが、先人ひとの気持ちも知らないで好き放題言うから」

「誰の気持ちだよ。親父か?ご先祖様か?」

「あとあたしも」

「そりゃあ死神のお前からすれば面白い話じゃないのは分かるけど、俺は—――」

「ああもう、うっさい!!」

 マリンは一際大きい声でそう叫んだ。駄々をこねる子供のように。いや普段から注文の多い我儘なやつだけど、これはいつものそんな可愛らしいものじゃない。断固として譲れない、とでも言うような彼女の決意が滲んでいるように見えた。

「本当に、何も分かってないんだからアンタ」

「じゃあ教えてくれよ、俺が何を分かってないのか」

「あたしは、風也あいつは、アンタの不幸なんて望んでないってこと」

「不幸?子種を無くすことが?それが俺にとっては幸福なことだとしてもか?」

「この家を終わらせることが、アンタにとって本当に幸福なことならそうすればいい。跡継ぎでもない、人間でもないあたしがセージにそんなの“命令”することはできないよ?」

 だけど、と彼女は言った。

「自分で生き方を捨てるような真似、しないでよ」

「捨てた方がいいものだって世の中にはあるだろ!!」

「アンタのそれはそうしない方がいいものだってことくらい分かるでしょ!?」

「どうしてお前は—――!」

 俺は怒りに任せてマリンへ反論をぶちまけようとした。しかし唐突に彼女は俺の右手を取ると—――。

「これだけ“返して”もらうから」

「え―――」

 マリンは俺の右手小指に自分の小指を絡めると、そのまま勢いよく振りぬいた。

 まるでワインのコルク栓を抜いたかのように、俺の小指が宙を舞う。

「っ、ぬあああぁっ!?」

 痛い。今まで感じたことのない激痛に呼吸が乱れる。全身の毛穴から脂汗が吹き出そうだ。俺は手負いの獣のようにその場でしゃがみ込み、自分を見下ろす死神を睨みつけた。

「お前、いきなりはないだろうさすがに……しかも超痛ぇし………」

「本当は痛みを感じさせないようにすることもできたけどね。罰当たりなこと言ったお仕置き」

「俺の意見無視してんじゃねぇよ………っ」

「なんでアンタの意見をあたしが聞く必要あるわけ?“死神”のあたしが」

 そう意地悪く笑うマリンの表情は、過去最高に邪悪なものだった。いつもの黒いパーカーの色合いも相まって、今日ほどこいつが死神らしく見えた日はない。

「小指にしたって、利き手の右の指持っていくなよな………。というか左手ってさっき言ったじゃねぇか俺」

「あぁ、それはね」

 マリンは思い出したように声をあげると依然床に蹲る俺に視線を合わせるようにしゃがみ込み、無傷の俺の左手を取るとその小指に鈍く光るものを嵌めた。

「お、ぴったりだし」

「………?指輪?」

 それは小ぶりで飾り気のない指輪だった。普段アクセサリーを付けることはあまりないが、見たところそこまで値が張るような品にも見えない。百均に売っていると言われても信じてしまうような、本当にどこにでもありそうな代物だった。

「しばらくそれ付けときな」

「いや要らないよ指輪なんて―――っ!?」

 未だ痛む右手の指で指輪を外そうとしたが、外れない。サイズがきついとかそういうわけではない。だがそれは意思を持っているかのように小指の第二関節から先へ進んでくれなかった。

「それ、当分外れないようにしたから」

「はぁ?なんなんだよホント………?」

「あたしなりの気遣い」

「は?」

 気遣い?どういう意味だ?

 マリンはよっこいしょと声を出して立ち上がると、そのまま一瞥もくれずに歩き去る。

 部屋の戸に手をかけたところで、彼女は一度だけ振り返った。

「セージさ、手の小指は何のためにあるのか分からないって言ったよね」

「あぁ………?そうだけど、それがどうしたっていうんだよ」

 マリンは何かを思い出すように微笑を浮かべてから、言った。

「小指が無いと、指切りげんまん、できなくない?」

「さっきリアルに指切ったやつが何言ってんだよマジで」

「まーね。じゃ、さっさと右手の傷診てもらえば~」

 バイバイと軽い調子で手を振り彼女は部屋を出ていく。

 ふと吹き飛んだ右の小指が落ちていないかと辺りを見回したが、無かった。事前に聞いていた通り、マリンに“美味しく”戴かれたのだろう。

 一人残された俺は眼前で両の手を開き、小指の無くなった右手と、小指に指輪が嵌められた左手を交互に見た。

 ———これで俺との“盟約”も履行されたわけか。

 ———「人の気持ちも知らないで」って、なんだよ。

 ———知るわけないだろ、他人の気持ちなんて。

 ———お前も結果俺の気持ち無視してんじゃねーか。

 ———でもどうしたって、この家は俺の代で終わらせてやる。

 ———こんなこと、自分の子供には絶対に………。

 俺は今日、失うことを望んでいたわけではない右手の小指を失った。

 代わりに、失うことを望んでいたものは失われなかった。

 今日という日は、桜庭家の少なくとも当代での繁栄が守られた吉日になった。

 今日という日は、桜庭清司が何も変えられなかった凶日になった。

 

 それからしばらく経った頃に、俺はつける場所によって指輪に意味があるということを偶然知る。

 左手小指の指輪の意味は、【変化とチャンス、恋を引き寄せる】。

 どういう気遣いだ。

 我が家専属の死神が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からない。

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Calling 棗颯介 @rainaon

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