第十四話 12月24日

12月24日




 寒い日が続く。今日もそのうちの1つに数えられる。曇りの日々が続き、晴れた空を最後に見たのはいつだろうか。


 イルミネーションの有名な遊園地への集合時間、夕方以降は混むだろうと話になり、少し早い時間から行くこととなった。


 カフェの場所を通って翠さんの家の近くで合流し、数駅で遊園地の最寄駅へ到着した。電車からホームへ降りると男女のペアが驚くほど多かった。


「カップルが多いね」


 僕の思考を翠さんが呟いた。


「私たちもそう見られてるのかな」


 返す言葉もわからず、どうだろうね、と流した。


 駅から遊園地へ向かうゴンドラには、初めて見るくらいの列ができていた。ある意味クリスマス限定だ。


 往復チケットを買って最後尾へ並んでいる間、今後の進路について訊いてみた。


「進路は決まったよ。AOだったから面接と成績だけでいけちゃった」


「そうなんだ! やったね! 今日はお祝いも兼ねて楽しまなきゃだ!」


 どこの大学へ行くかはあえて訊かなかった。




 高校生活の話をしていると、意外にも順番は早く回ってきた。


 ゴンドラ1台に対し、2組が乗り込むようだ。


 ゆっくりとターンをして向き先を変えるゴンドラに、僕は翠さんの手を引いて乗り込んだ。


 乗り初めに大きく揺れていたこの箱は、次第に安定してきた。


 葉の着かぬ木々の山を越えると、野球場で練習をする粒のように小さな選手たちが現れた。


 そしてまた少し経つと、細長い金属の塊がウネウネと異形を成して現れた。


「ねえ見えてきたよ!」


 同じゴンドラに乗る知らぬ女性が指を差して興奮気味に話す。


 僕らの口数は少なかった。声を発しても、お互いにしか聞こえない声量だ。そして景色ばかりを見ては、季節についてや山についてなど、ありきたりな会話をしていた。


 ジェットコースターのレールの真横を通り、10分弱で降車場に到着した。


 券売所に向かう途中、翠さんがニコニコとしながら口を開く。




「じゃあお祝いということで……」


「ということで……?」


「奢り……?」


「うっ、それは……うーん……」


「あはは、冗談だよ。本気にしないで、逆に困っちゃう」


 いつもより陽気な感情が言われずとも伝わる。


 僕自身も遊園地なんて小学生以来だ。子どもっぽいが、楽しみな気持ちは1週間も前からあった。


 園内に入ると、犬のようなマスコットキャラクターが出迎えてくれた。


「イルミネーションまで時間あるし、何か乗る? それともお腹空いてる?」


「実はお昼ご飯食べてないんだよね」




 翠さんはお腹をさすりながら遠くを見渡している。


「じゃあ、何か軽いもの食べようか。この後色々乗るだろうし、吐かれても困るから軽くで」


「吐かないから! 安心して!」


 強気な口調で笑う翠さんに、居心地の良さがあった。


 北風が僕らの頬を少し痛いくらいに冷やした。


 僕らはジェットコースター乗り場の近くにあった売店で焼きそばを食べることとした。人が多く、食べ物を買うのにも時間がかかる。


 先に翠さんには席を取ってもらい、僕は10分弱並んだ末、ようやく二人分の焼きそばとポテトを買うことができた。




 受け取り口で食べ物をもらい振り返ると、人が多く翠さんの居場所がパッと見つからない。


 周りを見渡していると、人の隙間から一瞬だけ翠さんの髪が靡くのが見えた。


「ごめんお待たせ。すごい並んでた」


「ううん、全然待ってないよ。今きたところ」


「すごい嘘じゃん」


 冗談の混ざる会話に、僕らは同時に吹き出して笑う。


 薄汚れた軽い椅子を引いて、僕らは焼きそばの入る容器の蓋を開けた。


 作り置きされていたようで、緩く、値段相応の味だった。そして一箱のポテトを二人で分けた。


 最後のポテトを翠さんに譲って食べ終え、僕らは食事中に話し合った結果、目の前にあるジェットコースターを最初に乗ることになった。


 ゴミ箱に空の容器を捨て、僕らはジェットコースターの列へ並んだ。30分ほど待ったが、特に話が尽きることも無く、あっという間に順番が来た、そんな感覚だった。


 僕らはコースターのちょうど真ん中あたりの席へ案内された。席へ座り、安全バーを降ろすと、翠さんの顔が少し見えづらくなった。




 感情が昂る。いつぶりだろうか、もう覚えていない。こんなに誰かと楽しさを分かち合うのは。


 プルルルと音が鳴り、コースターが発進する。


 冷たい風が僕の頬を刺激した。レールの頂上へゆっくりと大きな機械音を響かせて上り詰める。


 コースターは先の見えないレールを真っ直ぐと進む。


「なんか、遊園地って感じだね!」


「遊園地って感じって言うか、遊園地だよ!」


 突っ込みを入れると翠さんがあははと笑いだす。


 コースターがレールの頂上に到着すると、ようやく続かれるレールが現れた。そして速度を上げて、笑い声を消し飛ばした。




 笑い声を置いてコースターは急降下し、次第に翠さんは高い声を小さく張り上げる。


 僕は両手で目の前のバーに捕まるのが精一杯だ。


 気がつくと数分でコースターは降車場へと戻っていた。


 空気の冷たさが肌に残り、頭の中がフワフワと浮いているようだった。


 コースターの席から体を退けると、楽しかったね、と治らない笑顔で翠さんが言う。


 退場口の階段から降り、僕らは近くにあった乗り物へと向かった。


 こうして僕らは順に周り、17時頃に一番大きなアトラクションの列へ足を運んだ。


もうすっかり夜だ。


 1時間半待ちの紙が列を整理するポールに貼られている。




「長いね……」


 混み具合に若干引きつつも、僕らはここまで来たならと、列へ並んだ。


 1時間半もの間、何か話すことはあるのかと不安ではあったが、この不安は良い意味で無意味なものだった。


 カフェについての話をした。将来の話や、過去の恋愛話などもしているうちに、1時間も経っていたのだ。


 翠さんはカフェに通うみんなの事情を詳しく知っていた。数年も通っていると、やはり自然とお互いのことにも詳しくなるのだろう。しかし翠さんの過去を訊くのには躊躇してしまう。


 訊かない方が悲しませないのか、聴いてあげた方が悲しみを分かってあげられるのか。僕にはわからなかった。




 葛藤していると、すぐに列の先頭へと番がきた。


 目の前で長いコースターが発進していき、3分ほど経つと再び別のコースターが僕らの前へと滑り込んできた。


 スタッフの案内で僕らは先頭の席へ座り、安全バーを下げ降ろした。


「先頭だよ! やったね」


 はしゃぐ翠さんを見て、口角が上がる。


 安全確認が行われ、スタッフの掛け声でコースターは出発した。


 薄らと空を覗かせる雲に手が届くのではと思うほどに、コースターはゆっくりと高度を上げていく。


 2分ほどで頂上に着き、これから加速すると言う直前だった。


「ねえみてみて!」


「どうしたの?」


「イルミネーションがすごく綺麗!」




 地上を見下ろすと、ふんだんに使われた電気が、人の気配をかき消すように輝きを放っている。


「すごい……並んで良かったね!」


 他にない景色を前に、イルミネーションから目を離し、翠さんが僕に笑顔を向けた。


「今日すごく楽しい。たぶん、人生で一番幸せだなって感じてる。ありがとう」


 僕の心に、彩りが戻ったようなそんな感覚だった。


 今まで何かを欲しがる理由も、必要と感じたこともない理由がやっとわかった気がした。


 僕は初めて思ったのだ。生まれて初めて、人の心に寄り添いたいと、心底思ったのだ。僕は物心の付いたばかりの、赤ん坊だ。


 コースターが加速し、知らない人達の叫び声と共に僕の体は後ろへ置いていかれそうになる。


 安全バーを強く握りしめ、左右上下へと揺れる体が飛ばされないよう踏ん張る。


 冷たい風が僕らを襲う。揺れる心臓が死を感じさせ、自分のことで精一杯だ。


 誰かの叫ぶ声が、僕の耳に入り込む。


 気がつくとコースターは高音を響かせ速度を落とし、ゆっくりと出口へと向かっていた。




「さむ!」


 体を震わせ、腕を摩る翠さんの前髪が飛ばされかけていた。


「翠さん、前髪……」


 翠さんは僕に視線を向け、僕らは互いの前髪を見て笑ってしまう。


 立ち上がった前髪を整えると、コースターは停止した。


 安全バーがガコンと勢いよく身体から離れ、僕らは降車場の床に足を付けた。


 ふらふらと覚束ない足取りで頭の中が散らかった部屋のようだ。


「楽しかったね!」


 そう言って翠さんは僕よりも少し前を歩く。この体力はどこから溢れているのだろうか。


「メインも乗ったし、少し見て歩こう」


 ジェットコースターの余韻が抜けない僕は何も言わずに頷いた。


 幻想的に光り輝く遊園地に、退屈しなかった。




 星空のようなトンネルに入ると、翠さんがスマホを取り出した。


 そのまま僕に背を向けた翠さんはスマホの画面を僕らに向けた。


 キョトンとしている僕に向け、スマホはカシャッという音を僕にぶつけた。


「颯君、何も考えてなさそうな顔してるよ」


 写真を撮られるのに不慣れな僕はあまりいい気分ではなかったが、翠さんが嬉しそうなら、まあそれで良いかと流した。


 撮られた僕の写真を見ると、確かにどこを見ているのかわからないし、何にも興味がなさそうな顔をしていて、自分で笑ってしまった。


「確かに、何考えてるのかわからない顔してるね」


 僕らは一呼吸おいて、再び光のトンネルを歩き出す。


 辺りにはカップルしかいない。僕らもきっと周りからそう思われているのだろう。


 翠さんは今、どんな気持ちで僕と歩いているのだろうか。僕の事を、どう思っているのだろか。


 僕は、答えが知りたかった。




 長いトンネルを抜けると、アトラクションの方から叫び声が聞こえた。人が多く、もうどのアトラクションを乗るにも、かなりの時間を要するだろう。


 光り輝く観覧車が見える。あの観覧車に乗って上から見下ろすこの景色は、夜空とはまた違った美しさだろうな。


「翠さん、ごめん。こんなに混んでるなんて思わなくて……アトラクション全然乗れてない……」


 僕の言葉に、不思議そうな顔を僕に見せる。


「どうしてそんなことで謝るの?」


「楽しみ切れてないかなって……」


 ふふっと失笑すると、翠さんはまた口を開く。


「こんなに沢山の人がいるってことは、それだけ魅力的な場所なんだよ? そこを選ぶなんて颯君、センス良いよ。それにゆっくり歩く方が、私達らしいと思うな」


 その言葉に、心が落ち着く。


 やっぱり翠さんは気の利かせ方が上手いと改めて感じた。


 ありがとうと言うと、燥ぐ翠さんの横を、僕はゆっくりと歩幅を合わせて歩き続ける。




 園内を一通り回ると、僕の身体が空腹の音を知らせた。


「そういえば夜ご飯がまだだったね」


 顔を赤らめる僕を見て翠さんがふふっと笑った後に言った。


 混み合っているであろうレストランへ向かい晩御飯とする事にした。


 レストランに到着すると、案の定すごい人混みだ。席を探すのでも一苦労だった。


「ごめん、やっぱり混んでる……」


「颯君、自分が悪いわけじゃないのにすぐ謝るね」


 僕の目を見つめる翠さんの視線が痛かった。


「なんか、予定通り行かないのが自分のせいって感じがしちゃって」


 騒めくレストランの中で翠さんは首を傾げた。


「仕方ないよ、みんなお腹空くもん。席探してみよ?」




 僕らは先に席を探すこととし、レストランの中を徘徊する。


 運のいい事に、ちょうど席から立ち上がったカップルがいた。


 僕らはそそくさと席へ着いた。


「めっちゃラッキーだったね」


 席で一息つく翠さんは鞄の中から財布を取り出した。


「お昼ご飯持ってきてもらっちゃったし、今度は私が買ってくるよ」


「ううん、結構並んでそうだし僕が行ってくるよ」


 僕の腕を掴んで止められ、お互いに譲り合わなかった。


「じゃあ申し訳ないからこれで買ってきて! お昼ご飯代も返し忘れてたし!」


 僕のコートのポケットに千円札を2枚入れ、ポケットをポンポンと叩いた。


 少し困ったが、動く気のなくなった翠さんを置いて僕はレジの列へと並んだ。




 15分ほど並んだ末、僕はオムハヤシとチーズケーキを2つずつ注文した。


 トレイからはみ出す皿を抱えて翠さんの元へ戻った。


「うわ美味しそう! ありがとう! お金足りた?」


「うん、むしろお釣り来たから返すね。」


 実際には二千円では足りていなかったが、僕は持っていた分の小銭を翠さんに渡した。疑いもなく貰ってくれてよかった。


 ハヤシライスのルーの池に、オムライスの島が乗っているような夜ご飯を食べ、merry Xmasと書かれたピンの刺さるチーズケーキで胃袋が満たされた。


「ちょっとお腹いっぱい」


 お腹をさすりながら幸せそうな顔をする翠さんに、僕もいっぱいと答えた。


 スマホで時間を確認すると、21時になろうとしていた。




「そろそろ帰ろうか」


「……そうだね」


 一瞬だけ、翠さんの表情が曇った。


 僕らはレストランから抜け、出口のゲートへと向かう。


「あ、ちょっとトイレに行ってくる」


「うん、待ってるね」


 出口付近にあったトイレから戻ると、翠さんが園内のイルミネーションに、別れを告げるように眺めていた。


 翠さんの元に寄り、隣で同じように眺めた。


 今日という日が、僕の人生の中で美しく残るだろうと思う。


 横でカシャッという音が聞こえた。


 翠さんの手に持つスマホが僕を向いていた。翠さんの笑顔が眩しい。


「良い横顔してたよ」




 からかうように笑う翠さんに、馬鹿にすんなと言い、笑いあう。


「行こうか」


「うん」


 輝きを放ち続ける遊園地を目に焼き付け、僕らは背を向けてゲートを抜けた。


 駅方面に向かうゴンドラは意外にも空いていて、ゴンドラ1台に僕ら二人だけで乗ることができた。


 発車してすぐに、園内のイルミネーションが一望できた。


 悍ましいほどに美しい夜景だった。


「観覧車じゃなくても、上から見られたね」


 子どものように、目が光に夢中になっている翠さんが言う。


 ジェットコースターのレールの横を通り、ゴンドラはそのまま駅方面へ向かった。


 誰もいない空間、今更になって僕は緊張していた。


 見慣れたと思っていた翠さんの横顔を見続けられなかった。


 僕はゴンドラの窓から景色を見下ろした。心拍音が体に響く。


 山の陰に遊園地が隠れ、代わりに街明かりが姿を現す。




 イルミネーションがちらほらと遠くに見えるが、あまり綺麗とは言い難い。


「今日もありがとう」


 背筋を伸ばした翠さんが唐突に言葉を僕にぶつける。


 一息置いて、僕も言葉を返した。


「僕も楽しかった。翠さんと来られてよかった。ありがとう」


 また一呼吸おいて、僕は勇気を出した。


「来年も……一緒に来られたら……いいな……」


 翠さんの眉が瞼を少しだけ持ち上げた。


 厚着した服の中に熱が籠る。


「うん……そうだね」


 それ以上には何も言わず、笑顔を僕に振りまいた。


 ゴンドラが到着した。


 翠さんの手を引いて、ゴンドラを降り、駅へ向かう。


 街並みはすっかりクリスマスカラーで染められていることに、帰り道になって気づいた。




 街灯には金色の電球が括り付けられ、駅前にはきらきらと輝くツリーが存在感を増している。


 電車がホームへ冷たい風を運んで滑り込む。頬が凍りそうだ。


 ドアが開き、思い出を抱えるような気持で電車へ乗り込んだ。


 数駅で翠さんの最寄り駅へと到着し、僕らは下車した。


 駅の改札を抜けると翠さんが口を開く。


「カフェで会ってから、色んな話したり、色んなところ行ったけど、どこが一番印象的だった?」




 僕は腕を組んで悩んだ末、つまらない答えだけど全部だよ、と返した。


 全部は言いすぎだし欲張りだなと笑う翠さんに同じ質問をすると、僕を真似て腕を組む。


「確かに全部かも」


 二人で顔を合わせ、僕らはプッと吹き出して笑う。


 翠さんをアパートの前まで送ろうと、駅のロータリーを抜けて歩くも、いつもよりペースが遅いような気がした。疲れているのだろうか。


 僕らの出会いから、現在までの思い出を二人で話しては笑った。


 緩やかな坂を上れば翠さんの家だ。


「もう今年も終わっちゃうね」


「そうだね、今年1年……半年くらいか。僕自身、自分でもわかるくらい変わった気がする」


「例えば?」


 雲の流れる空を見上げて考えた。


「変わ……ったよ何かが」




 翠さんがまた大げさなほどに笑う。


 僕もつられて笑ってしまう。


 静かな大通りで、僕らの笑い声だけが耳に響く。


 どこからか、クリスマスらしい肉の焼かれた香りが漏れていた。


「クリスマスの匂いがする」


「ね、すごくいい匂い」


「あ、そうだ、忘れそうだった」


 僕はカバンのチャックを開けて可愛くリボンが結ばれたビニールの袋を取り出した。


「これは……?」


「遅くなってごめん。翠さん、いつもはしてないから必要かなと思ったんだけど……」


 手渡された袋から翠さんがマフラーを取り出し、ぼうと佇む。




 街灯の光が届かぬ場所で、顔がはっきりと見えにくい。


「いつもマフラーしてるところ見たことなかったから……」


 首元に手を回し、渡さなければよかったと後悔が頭の中を走る。


 横目で翠さんを見ると、袋からはみ出るマフラーを胸に抱えている。


「ありがとう……嬉しい」


 翠さんの心から溢れたような笑顔を見たようだった。


 道路を走り抜ける車のヘッドライトが僕らをゆっくりと照らしては一瞬で通り過ぎた。


「来年以降にでも使ってよ」


 錆びついたような言葉をかけると、翠さんは自分のマフラーを外し、僕が渡した赤と白のチェックのマフラーを首に巻いた。


「うーん、私にはこっちの方がいいかも。だからこれはもういらないかな」


 翠さんは踵を上げて僕の首元に手を伸ばした。


「どう? あったかい?」


 僕の首に巻かれたマフラーはシャンプーと柔軟剤の香りが染み込んでいた。


「じゃあこれ、お返し」


 翠さんの小さな鞄からもリボンがつけられた袋が出された。


「開けてみて」




 ニコニコと嬉しそうな表情を治めることなく僕の顔を見上げる。


 袋のリボンを解いて手を突っ込むと、毛糸で出来た白い可愛らしい手袋が出てきた。


「いつも寒そうにポケットに手を突っ込んでたから……転ぶと危ないでしょ?」


「ありがとう……」


 僕は袋を鞄に詰め、手袋に指先から手を突っ込んだ。


「急に身体中があったかい」


 ふふっと笑う翠さんは、よかったとだけ言ってマフラーで口元を隠した。


 僕らは再び坂道を歩き始めた。あと数十メートルで翠さんのアパートだ。


 ゆっくりと歩く翠さんにペースを合わせる。


「いいの? これ貰っちゃって」


 僕は首に巻いたマフラーを摘んで訊いた。


「うん、貰ってほしい」




 赤と黒のチェックのマフラーが僕の首元を暖める。


「大切にするね」


 照れ臭そうに前を向きながら言葉をかけられる。


「うん、僕も大切にする。二つも貰っちゃったし」


 僕はこの時間が自分でも認めるほどに好きだった。ゆっくりと静かな夜を翠さんの隣を歩くこの時間が。


 まるで月が満ちていくように、落ち着いた心の片隅に空いた穴が塞がるようだった。


「今日は空が遠いね」


 見上げると、雲も、ほとんど欠けてしまっている月も遠く感じる。


「本当だ。また夏になれば、もっと綺麗に見られるんだろうな」


「うん。夏が来るたびにきっと、颯君のこと思い出しては笑っちゃうと思う」


「バカにしてる……?」


「うーん、ちょっとだけ?」




 はぁー、と息を漏らすと笑い声を零す翠さんに、またもつられて笑ってしまった。


 半年過ぎを思い返すと、こうして同じことで、同じように笑い出すこともとても多かった。


 僕は、幸せなのかもしれないと人生で初めて思ったのだ。


 アパートの前に到着した。


 翠さんはどうしたのか、アパートを見たまま呆然と立ち尽くす。


「今日も楽しかったよ、ありがとう」


 僕の目をまっすぐと見つめ、白い息を吐きながら笑った顔でそう言った。


「僕も楽しかった。また連絡するね」


「うん」


 数秒だけ目を逸らされ、違和感があった。


「マフラーありがとう、じゃあね」


 手のひらを見せて、別れを告げられ、こちらこそありがとう、またね、それだけ言って翠さんの背中を見送った。鼻を啜る音が聞こえた。寒かったのだろうか。


 僕は暖まる首元と手を冷やさぬよう、カフェの前を通って帰宅した。

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