第十二話 10月1日

10月1日




 あの日以来、カフェにて翠さんとはたまに会っていた。


 他のみんなも、顔を見せにきてくれる。


 日の出の時間も徐々に遅くなり始め、カーテンを開けると空が明るくなり始めていた。


 朝の散歩の後に支度を済ませ、再び外へ出ると先ほどよりも雲がはっきりと見えた。


「今日はくもりか……」


 曇りの日には、カフェの方でも空が見えない。傘を必要としない日の代償なのだろうが、寂しさがある。


 雨が降り出しそうな曇天に見下され、僕はカフェに向かっていた。


 今日から暦が冬に入ったのだ。


 鳥居の前で一礼し、僕はカフェの場所へと潜り入った。


 カフェ前のテラス席に、プチとウィンが座っているのが逆光のシルエットで伝わった。


 柔らかな風が、草が擦れ合う音を運んで、僕の頬を包むように触れた。風上に目を向けると、新緑が生き生きと存在感を出している。


 風がザワザワと枝先を揺らし音を立てる。とても優しい風だった。




「何してんだよー、早くこっち来い」


 テラス席からウィンが僕を呼んだ。


 どうしてか、いつもこの木に心を奪われてしまう。


 ゆっくりと近づくと、マスターも店から出迎えてくれた。


「で、最近はどうなの? 翠とは」


 マスターよりも先にプチが先に口を開いた。プチとは約2ヶ月ぶりだった。


「え? 翠さん? どうって……?」


 はぁーと大きく溜息をついて手のひらをテーブルにかけた。


「こりゃダメかもだよ、マスター」


「私としては最善を尽くしています。あとは彼の心の問題です」


 呆然と会話を聞いている僕に、ウィンがとりあえず座れと言って席に手を伸ばす。




 僕はいつもと同じように、プチの右隣に座った。


「何の……話ですか……?」


 戸惑いながらも訊くと、濁すように話題を変えられた。


「お気になさらなくて大丈夫です。それよりも貴方の鉢に、また花が咲いていますよ」


 席を外して鉢を見に行くと、確かに再び花が咲いている。時計で例えるならば6時の位置だった。


 とても綺麗な濃いピンク色をしている。ツツジの色に似ていた。


 10輪ほど咲き誇り、花が増えるたびに鉢の中の土が見えなくなっている。


「これは、何という花ですか?」


 マスターはその場でテーブルにカップを置きながら答えた。


「ペラルゴニューム、といいます。まさに貴方にピッタリの花だと思いますよ」


 へー、と声を漏らし、触れてみた。


 脆く柔らかな感触が指先を走った。枯れないでほしいと純粋にそう思った。




 これまでに咲いたカランコエ、クロッカス、そして新しく咲いたペラルゴニュームが喜ぶようにその姿を表現する。


「さあ、コーヒーの時間にしましょうか」


 マスターがテーブルに置いたマグカップを正面に、僕は席へ戻った。


「これは……?」


「ウィンは『優しさのカフェモカ』、プチとあなたには『想い出のカフェラテ』を」


 マスターはマグカップに肉球のある手を差し伸ばし、説明してくれた。


「マスター、どうして私にこれを?」


 プチが不思議そうに目尻を垂らしている。このカフェラテに意味があるのだろうか。


「思い出は過去のものです。しかし過去の出来事こそが力となり、成長し、想いとなるのです。きっとこのカフェラテはあなた方の背を押してくれるでしょう」


 そう言ってマスターはコトッと音を立てて僕らの前にスプーンを置いた。


「さあ、冷める前にかき混ぜてください」




 マスターはウィンの元へ行き何やら話をしている。僕は言われたがままにスプーンで泡をかき混ぜた。


 スプーンで5周ほどかき混ぜると、そこの方から何かが浮きてできた。コーヒーだろうか。その正体はわからなかった。


 かき混ぜ続けると、何か画の様な模様になり始めるのがだんだんとわかり始めた。


「え……」


 僕と翠さんが、一緒に買い物に行った時の姿が現れた。


「これは……」


 僕はそのままかき混ぜ続けた。


 次に現れたのは、花火大会に行った時の画だ。そしてカフェでの出来事、出会いと、順に過去に遡っていった。


 出会いの画を混ぜた後には、人影が浮き出てきた。誰だろうか。はっきりとはわからなかった。


 しかしきっと僕の思い出の中の何かなのだろう。それしかわからない。


 それをかき混ぜたが、もう何も映し出されなかった。


 プチを横目で見ると、とても寂しそうな顔をしている。とても悲しそうで、嬉しそうで、苦しんでいる様にも見えた。




 カップに口をつけ、一口喉へ流し込んだ。


「……おいしい」


 僕はそのままもう一口喉へ流した。


 上品なミルクとほんのりと苦味のあるエスプレッソがよく混ざり、体の中から歓迎しているのがわかる。


 飲むほどに美味しさが深く味覚へ伝わった。僕はすぐに思い出の滲むコーヒーを飲み干し、大きく深呼吸をした。


 プチはカップを口に運ぶ回数の割に、減る量が少なかった。


 僕のカップをマスターがニコッと笑って、さげてくれた。


 マスターが店内へ戻るとほぼ同時に僕の肩を勢いよく誰かが叩いた。




 突然の出来事にうわぁ! と体をビクッと震わせて声を出してしまった。振り返るとお腹を抱えて笑う翠さんの姿があった。


「今日もいい反応ですねぇー」


 イタズラな笑みを浮かべる翠さんに、羞恥心と悔しさが残る。


「にしてもここはいつも暖かくて過ごしやすいね」


 椅子の足を引きずり、隣に腰を下ろす。


 店内からマスターが戻ってくると、翠さんがニコニコ笑っている。


「マスター、いつもの」


「いつもの?」


 クスッと笑うマスターは、当店にいつものなんてありませんよと言い、翠さんの前にカップを置いた。


「一回こういうセリフ使ってみたいんだよね」


「あー、少しわかる気もする」


「ところでマスター、今日は何をご馳走してくれるの?」


「気が早いですね、お持ちいたしますのでこちらをお飲みになってお待ちください」




 翠さんの前に置かれたカップにはアイスコーヒーだろうか、僕らのものとは違う飲み物が入っていた。


 一緒に置かれていたミルクとガムシロップを少量入れ、マドラーでかき混ぜる。


 顔の前でカップを回して混ざるコーヒーを想い入れるような瞳で見つめ、一口喉の奥へ流し込む。


 とても寂しそうな表情だった。僕らが出会ったころのような、悲しみの感情が僕の胸の奥へと伝わる。


 僕は何も訊くことはしなかった。この僕にはわからない感情は、僕自身が考え、気づいてあげなければならないと感じたのだ。


 翠さんがコーヒーを飲み終えるまで、僕はプチにこの場所やカフェについて色々と質問をした。


 どうしてこの場所を知ったのか、誰が創ったのか、どこにあるのか、純粋な疑問をぶつけた。しかし、プチは自分のこと以外はわからないと答えた。マスターは深いことまでは教えてくれないそうだ。




 コーヒーを飲み終えた翠さんが空のカップをテーブルに置き、両手で包むように大事そうに触れている。


 マスターが店からトレイを両手に出てくると、人数分の黒い皿が用意され、皿の上にも何か乗っている。


 それぞれに黒い皿とナイフ、フォークを配り終えると、マスターはトレイを脇に抱えて説明をしてくれた。


「本日は満月ですが、見事に雲に隠されてしまっています。ですので、皆様に『新月のチョコレートマシュマロ』をご提供させていただきます。皆様の世界の新月のお力をほんの少しだけお借りしました」


 真っ黒なブラックチョコレートの色をしたまん丸のマシュマロが皿に二つ、寄り添うように乗せられ、上から金箔を掛けられ、店から溢れるオレンジ色の優しい光によって輝いて見えた。


 黒い皿の上に乗せられ、背景に溶け込むように置かれているが、確かにそこに存在している姿がまさに夜空に隠れる新月だ。


「どうして二つあるのですか?」


 月は一つだ。二つ飾られていることが違和感だった。


「確かに。月は一つよ、マスター」




 集まる視線に、マスターは濁った空を見上げて説明してくれた。


「月の満ち欠けの周期はおよそ29日から30日。10月1日の今日、新月ということは……」


「今月、二度新月が来る。ってことね」


 マスターの話を拾い、翠さんが言葉を繋いでくれた。


「ご名答です。さすがですね」


 僕らのマシュマロをざっと目を通し、マスターが再び話す。


「片方は本日の皆様の世界の新月、もう片方は、約30日後の新月となります。ぜひ今月の月本来の味をお召し上がりください」


「ねえマスター、プチとかウィンは動物だけど、チョコなんて食べて大丈夫なの?」


 翠さんの気遣いに僕もハッとさせられた。


 マスターはニコリと笑い、ご安心を、とだけ言った。


「失礼ね、動物だなんて。ここにいるみんなそうじゃない」


 顎をくいっと上げ、不満そうに話すプチにウィンも便乗し、少し戸惑いながらも翠さんは謝った。




「そんなことよりもう食っていいか?」


 お預けをさせられている気分であろうウィンが少しイラついていそうな表情を見せた。


「ごめんごめん、食べていいよ、ウィン」


 翠さんがそう言うとウィンは二口で食べきってしまった。


「おお、うはいぜこへは」


 もごもごと話し、何を言っているかわからなかったが、僕たちも食べようとフォークとナイフに手を伸ばした。


 直径5cmほどだろうか、市販のものよりも大きめのマシュマロだ。


 僕はフォークを刺し、ナイフで切り込みを入れていく。


 新月のマシュマロを欠けさせると、内側からチョコが溢れてきた。まるで蓄えられていた月のエネルギーが放出されたようだった。


 皿の上で広がるチョコレートをフォークに刺したマシュマロにたっぷりと付け、口の中へと運んだ。


 口の中でチョコレートの甘さが広がった。ミルクと空気が絶妙に絡まり合い、チョコ本来の甘みが味覚を刺激する。




 月自身が放つエネルギーが、僕の身体の中へと力を付けてくれているのがわかった。


 ブラックチョコレートとは思えない控えめな苦さと、エネルギッシュさに身体が震えた。


「すごい……」


 翠さんも思わず声を漏らす。


 僕らは黙々とマシュマロを一口ずつ身体の中へと受け入れた。


 二つの新月マシュマロを食べ終えると、体が軽くなったような気がした。


「いかがでしたか? 新月のお味は」


 マスターはみんなの皿を片付けながら訊く。


「本当においしかったです……。なんていうか、自然と力が湧いてきます」


「はい、新月は満月や半月などと違って、唯一太陽の光を浴びない時間です。月本来の姿というのを見せてくれるのです」


 皿を店の中へと片付けに行き、マスターが次に持ってきたのは空のグラスだった。


「味の濃いものを食べましたら喉が渇きます。どうぞ喉に潤いを」


「これは……入道雲のレモン水?」




「いいえ。もう冬ですから」


 マスターがグラスを配り終えると、もくもくと雲が現れた。


 雲は今日の空模様を凝縮したような濁った色をしている。


 10秒ほど経つと、雲から何かが降り始めるのがわかった。


「これは……雪?」


 プチがグラスをにらむように見つめ、ポツリと呟く。


「こちら、『春日和の雪崩水』でございます」


 雪は自然と積もっていき、グラスの半分ほどの高さまで積もって雲は晴れた。


「マスター、これじゃあどちらかというとかき氷じゃない?」


 翠さんの言うとおり、僕もこれを飲むのは違和感だった。


「大丈夫ですよ。春日和にしてありますから」


 マスターの言っていることを理解しきれていなかったが、僕らは半信半疑でグラスを口にして雪を口元へ傾けた。




 するとグラスの中の雪は雪崩のように形を崩し、口元へ入る直前に一気に溶け、水となった。


 喉へ入り込む水は、なんとも新鮮で冷えており、市販の天然水よりも美味しかった。


 ゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、体の隅々にまで水が広がるように体の体温が下がるのがわかった。


「本当にマスターはすごい……」


 翠さんの発言に、僕ら三人は同意見だった。


 しばらくして、プチとウィンが帰宅した。マスターも一度外すと言って店の中へ入ってしまった。


 残された僕と翠さんに、翠さんが暗い顔を隠さず僕に話を打ち明けた。


「私、しばらくここには来られないの」


 僕は驚きをそのまま言葉にして翠さんにぶつけ、理由を訊いた。


 進路関係の事で忙しくなる、それだけ言ってあとは話さなかった。僕もそれ以上は訊かなかった。


「けれど、年末は一旦落ち着くから、その辺りで予定が会えば、どこか行かない?」


 僕は二つ返事で了承した。




 少しの間寂しくなるが、進路となると仕方のないことだ。きっと進路が決まればまたたくさんどこかへ行けるだろうと考えていた。


「……じゃあ私もそろそろ行くね。連絡はできるから、寂しくなったらいつでも連絡してね」


 寂しさをかき消すように冗談を言い放ち、翠さんはこの場を去る。


 僕はどうしてか、重い身体が椅子から離れない。


 小さな背中と、揺れる焦げ茶色を帯びた長い後ろ髪を僕の目に焼き付け、家の方へ繋がる暗闇へと姿を消した。


「おや、お一人になられてしまったのですか」


 トレイに水の入ったグラスと、ピッチャーを乗せた声主のマスターが当たりを見渡す。


「では、少しお話をしましょうか」


 僕が何かを言う前にマスターは翠さんが座っていた席の正面、僕の斜め向かいへとどこからか椅子を引っ張り出して腰を下ろした。


「少し他の方の話をしましょうか」


 そう言うと、マスターは続けてこの場所を知るみんなの話を始めた。


「ラテとモカの話は知っていますね。ではウィンのご家族のお話からしましょう」




 僕は黙って頷く。


「彼の父は、彼が産まれる前からいなかったとお話しされています。そして母は、雨の日に食べ物を探しているうちに、車というものに轢かれて亡くなられたそうです」


 返す言葉が見当たらない。ただ聴くことしかできなかった。


「そしてダッチ、彼は友人を亡くしたそうです。雨の降り続く日の山にて……」


「ちょっと待って!」


 僕は声を張り上げた。


「どうしてそんなことを僕に話すの!?」


 立て続けにされる悲しい話に耐えきれず、怒りさえも湧いていた。


「ここに来られる人達は、皆さん何かしら心に大きな傷を負っているのです。あなたも知る必要がある」




「心の傷がどうとかわからないけど、どうして僕がその話を……」


 マスターは僕の言葉を遮った。


「他人の感情を理解できる貴方だから話しているのです」


「どうして知っているの……?」


 見ていればわかります、とマスターは笑顔を傾けた。


「貴方は人の心に寄り添うことができる。これは才能でも努力でもなく、使命に近いでしょう。だからこそ知ってほしいのです」


 何も言い返す言葉が浮かばなかった。反発するべきではないと本能が叫んでいたのだ。


「プチは知っての通り、育ててもらったお爺さんに心残りがある……」




 マスターは何か言いたげな顔をして言葉を止めた。


「じゃあ……翠さんは……?」


「彼女のことは、貴方が自ら知るべきです。貴方でないと」


「どうして?」


 マスターはおもむろに立ち上がり、鉢が飾られている棚へ足を運ぶ。


「貴方が彼女をもっと知りたいと思うようになれば、答えがきっと見つかります」


 誰かの鉢に咲く花に顔を近づけ、マスターはそれ以上話さなかった。


「僕は別に心が傷ついているとか、そんなことはないと思うんだけど……」




 マスターはスッとしゃがみ込んでいた体を伸ばし、ゆっくりと振り向いた。


「では、貴方は今何が欲しいですか? 何を持って、幸せと感じますか?」


 僕は自分の人生を思い返した。幼稚園頃の記憶はない。ただ記憶に残る思い出の自分は、いつも何も欲しがったことはなかった。


 答えが見当たらず、言い返すことができない。


「その答えを見つけ、自分の心に正直になったとき、貴方はもうこの場にいる必要はないのです」


「僕の欲しいものですか……?」


 マスターは首を横に振った。


「貴方の心を満たすものです」

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