第七話 7月29日

7月29日




 平日、7月下旬の日差しが眩しい金曜日だった。


 朝のニュースで梅雨明けが発表された。


 近所のマンションの植木に咲くツツジも枯れ、アジサイも枯れ始めるほど今年の梅雨明けは例年よりも遅かった。


 あれから翠さんとは連絡をとっていなかった。


 最後に送ったおやすみの文字の横に着く既読の文字。この二文字が、僕の気持ちを歪ませる。


 夏休みに入り、平日と休日も関係なくなり、ぼうとして過ごす日が増えた。


 トーク画面を見直すと、梅雨明けの日の朝、とだけ指定され、何時に向かえば良いのかわからなかった。




 僕は暇なだけあって、目が覚める時間も早くなっていた。朝の散歩を終わらせた後でもまだ5時半を回ったばかりだ。


 もしかするともう既に翠さんは向かっているかもしれないと、僅かに期待が膨らみ、僕は支度をして、紙袋を片手に家を出た。


 これは約束だから。そう自分に言い聞かせ、足早に神社の入り口まで向かった。


 僕はそのまま足早に石段を駆け上がる。


 階段を上りきると少し息が切れていた。1年前はこのくらいじゃ息は上がらなかったのにと、体力の衰えと時間の流れを惜しんだ。


 僕はいつものように鳥居の前で一礼をし、カフェの入り口へと向かった。


 鼓動が強く、僕を震わせる。息切れのせいなのか、はたまた緊張なのか。曖昧なまま僕は入り口を潜った。




 時間が早すぎたせいか、カフェの世界では日が沈んだばかりのような時間だ。空が暗すぎず、明るいとは言い難い。


 そしてこちらでは案の定、雨が地面に水溜りを作っていた。


 店の中に人影が見えた。今日は雨だから店の中にいるのだろう。


 カフェまでできるだけ濡れないよう、足を急がせる。。


 店の前にはオーニングテントがある。ここまで来ればもう大丈夫だ。


 店の入り口の窓から中を覗く。翠さんはまだいないようだ。


 そしてモカとラテ、更にもう一人、一匹というべきだろうか。誰か座っている。




 店の扉をノックすると、ガチャッと音を立てて扉が押された。


「こんばんは。お久しぶりですね」


 マスターが僕を見るなり、トレイを片手に挨拶をしてくれた。


「こんばんは。中、いいですか?」


 僕が店の中に目を向けると、マスターは笑顔でもちろん、と答えてくれた。


 店内の席は外とは違い、大きな丸テーブル一つ、そしてテーブルの真ん中には天井まで背が届く植木、それを囲うように席がいくつかある、といった内装だ。


 入り口から反対側にモカとラテが座り、ちょうど顔が見えない位置に誰かが座っている。


 椅子の足を引きずって席に着くと、ラテの横に誰かが座っている。


 お隣いいですか? そう言いかけて、逆に話しかけられた。


「よう、初めましてだな。ここへは何回目だ?」




 ハスキーで高い声のアナグマだった。悪戯が好きそうだなと、偏見を思ってしまった。


「カフェには2回目です。初めまして、颯と言います」


「颯か、よろしくな」


 そう言うと笑顔で僕に小さな手を差し伸べる。


 僕はその手に誘われ、握手をした。なんだかヌルッとした感触だった。


 違和感があり、手の平を見ると、ミミズがうねうねと藻掻いていた。


「うわぁっ!」


 驚きで床にミミズを落とし、後退った。




 アナグマは顔とお腹を抑えてイタズラに笑っていた。


 笑いが収まると、もったいないと言って拾い上げたミミズをそのままちゅるりと飲み込んだ。


「こら、やめなさい。礼儀がなっていませんよ。どうして颯さんが嫌がる事をする者が多いのやら…」


 ラテが頭を抱えながらアナグマを注意した。


「悪い悪い、今日お前が来るのを知ってたからさ、挨拶代わりだよ」


 一層に警戒心が増し、少しだけ距離を取った。


「そ、そうなんだ。誰から聞いたの?」


「おう、今日は居ないが、ダッチとプチだ」


 モカに目を向ける、何も言わずに自分のマグカップを見つめていた。


「そうなんだ。二人はきてないのか。けどモカも元気そうで良かったよ」




 アナグマは少し驚いた顔をして振り返った。


「……モカ、お前、普通に話したのか? 人間嫌いなモカが?」


 随分と真面目な口調だった。


 モカにとって、僕と話したことは、相当な事だったのだと改めて考えさせられた。


 モカはこちらをちらっとだけ見て、またマグカップに視線を戻した。


 ふーん、まあいいやとりあえず座れよ、とウィンは再び僕に身体を向けた。


 僕はリュックを椅子の背もたれにひっかけ、紙袋を椅子の下に隠すように置いた。


 ガガガと音を立てて椅子を引き、腰をかけた。


「俺はウィン。マスターに名前を貰った。人間の世界では勝者って意味なんだろ?」


 胸を張って自慢気に話すアナグマに、意外にも可愛らしさを感じた。




「あーうん、そういう意味もあるよ。かっこいいね」


 ウィンはニヤニヤとして嬉しそうだった。


 ガチャッ、とカフェのドアが開いた音がした。


「あ、もう来てた。ごめんね、遅くなっちゃった」


 丁度会話が切れたタイミングで翠さんが到着した。特徴的な優しい声から振り向かずとも翠さんだとわかった。


 翠さんが店内に入って、両手を膝の上に乗せ、中腰で俯いて息を切らしている。


 言わずとも急いできたのだと理解できた。


 僕は翠さんから目を逸らしてしまった。


「遅いぞ!」


「ごめんごめん、急いだんだけどさ」




 翠さんが呼吸を整えると僕の右隣へと座った。


「制服なんだね」


 僕は横目でワイシャツをパタパタと仰ぐ翠さんに話しかけた。


 ポニーテールがユラユラと揺れている。


「うん、この後学校に用があって」


 翠さんは本当に汗をも吹き飛ばすんじゃないかと思うような笑顔を作った。


「颯君は今日も早いね。楽しみで早くから来たの?」


「うん、ちょっとだけね」


「ふーん、私に会えるから?」


 大きな目を細めてからかうようにニヤついている。


「……そんなんじゃないから」




 翠さんの熱が伝わったのか、僕も少しだけ暑くなった。


「そういえばさ、翠さんの髪って染めてる?」


 唐突な質問に翠さんはポカンと何も言わずに首を傾げる。


「いや、高校生なのに結構茶色がかってるから、校則とか大丈夫なのかなーって思って」


 翠さんは天井を見上げて顎に人差し指を乗せながら少し考えると、校則かぁ、と呟いた。


「髪の毛は元々このくらいの色だけど、若干染めたかな。けど言わないとわからないくらい。校則は……うーんあんまり気にしたことないかな」


 さっきとは打って変わって真剣な顔つきで答える。


「え? 校則とかわからないの? 髪染めちゃダメとか、化粧濃すぎるとダメとか……」


「うーん、私の学校、あんまりそんな感じのないんだよね……」


 驚きが表情にまで現れてしまったのが自分でもわかった。そしてそれを見た翠さんはプッと吹き出し、あははと口元を隠して笑った。


「僕の学校、校則凄く厳しいよ……? 高校生楽しみ切れないって感じで」


「そうなんだ、私の学校、基本放っておかれるんだよね」


「その制服あんまり見ないけど……どこの学校?」




 僕はスカートの黒チェックの柄を見て、訊いてみた。


「んー、内緒」


 翠さんは目を逸らしながらピンと立てた人差し指を唇に付ける。


「そっか、僕はS高ってところ。中学までまともに勉強なんてしてなかったから、偏差値もすごく低くて今じゃ後悔してる」


 この話をするとみんなどこか馬鹿にしたような顔つきになるのに、翠さんは優しい目で頷きながら僕の話を聴いてくれた。


「そうなんだ。勉強なんて、できすぎても大変だよ」


 どこか寂しげな表情をしたが、その瞳は優しいままだった。


 この人には、何でも話しても大丈夫かもしれないと心が揺らいだ。


「私M高なんだ」




 突然、人が変わったように学校を教えてくれた。


「さっき、内緒って……」


 僕が驚きつつ訊くと、翠さんが続ける。


「うん、颯君が話してくれたから、私も話すべきかなって」


「……ちょ、ちょっとまってね」


 僕はカバンからスマホを取り出した。


 検索エンジンでM高校を調べると、偏差値が72と出ていた。


「え!? 翠さん、引くほど勉強できるの……すご……」


 僕が驚くと、一瞬だけ翠さんの顔が曇った気がした。


 そんなことないよ、というと翠さんは僕から顔を少しだけ逸らした。


「……ごめんね」


  僕が謝ると翠さんはびっくりしたのか、目を見開いて僕に再び顔を向けた。


「どうして謝るの?」


 翠さんは疑問をそのまま僕にぶつける。


「だって、翠さん今、嫌な気持ちにならなかった?」




 肩の力を抜く翠さんは一呼吸置くと、こちらこそごめんね、と謝った。


「どうして翠さんが謝るの?」


 翠さんは初めて、僕に悲しげな表情を見せた。


「学歴だとか、偏差値だとか、そういったのが嫌いなの。確かに高いと褒められるかもしれないけど、低いと悪いように見てくる人もいるでしょう? だからそんな数字だけで人の判断基準にされてしまうのが嫌なの」


 僕は翠さんの優しさにまた触れた気がした。


「翠さん、優しいね」


 そんなことないよ、翠さんはそれだけ言った。


「けどすごいね。勉強できるのに、勉強苦手な人のことも考えることができて」


「ううん、私も元々は勉強は苦手だし嫌いだったの」


「え? じゃあどうしてそこまでできるように?」


 眉を上げて問う僕に、翠さんは寂しげな表情を隠さず、俯く。




「…………ごめんね、ちょっと席外すね」


 一度店の外へ出る翠さんの後ろ姿を僕は見送った。僕は翠さんの気持ちに気づく前に、好奇心が勝ってしまった。


「お前、女心のわかんねぇやつだな」


 ウィンがテーブルに頬杖をついて僕に口角を上げて細めた目で視線を送る。


「ごめん、正直言ってどうして翠さんが悲しんでるのかがわからなかった。悲しんでいるなとはわかったんだけど……僕何かしたかな……」


 罪悪感で潰れそうだった。


「わからないならわかろうとしてやれ。アイツの気持ちはアイツにしかわからん。答えを知るには答えを持ってるやつに訊くしかないんだよ。それにアイツがその勉強? ってのを頑張った理由は……」


「ウィン!」




 ウィンの話を切るようにモカが声をあげた。


 ウィンは慌てるようにマグカップに口をつけ、ゴクゴクと喉から音を立てた。


 今更になって美月が言っていた言葉を思い出した。


 僕はゆっくりと立ち上がり、店の扉を開けた。


 店から半歩出ると、翠さんが見当たらない。


 キョロキョロと顔を右へ左へと向けていると、扉のすぐ横に座り込んでいた。


 そこにいたのか、と言い僕は入り口と挟むように翠さんの横に座った。


「ごめんね」




 一言言うと、翠さんは何も言わずに俯いたまま首を振る。長い髪の毛で表情が見えなかった。


 雨音が水溜まりに波紋を作り続け、とても静かに感じた。


「……翠さんが悲しんでるのは知ってたんだ。初めて会った日から、ずっと悲しんでる」


 翠さんは動かないままだ。髪の隙間から僅かに耳が現れている。


 雨水が街灯の柔らかなオレンジ色を反射させている。


「僕は鈍感で、翠さんが悲しむ理由もわからないけど、僕にできることがあれば力になりたい」


 僕がこんなことを言うなんて、自分でも驚いた。


「だから、話して欲しい」


「…………ない」


 雨が止んだ。翠さんの声は僕に届かない。


「……え?」




 僕が聞き返すと、翠さんは顔をあげ、無理に作ったであろう笑顔を見せて、まだ言えない、とだけ言った。


 目尻に溜まった涙が僕の頭に翠さんの表情が刻まれた。


 髪の隙間から見せる耳は、先程よりも赤みを増していた。


 雨雲の隙間から差し込む光が、翠さんの涙を輝かせた。


「あ、見て!」


 翠さんの表情に釘付けになっていた僕は自分を憎んだと共に、何かが僕の心のどこかを埋めた気がした。


「ねえ、見てってば!」


 勢いよく肘を曲げ伸ばしする翠さんが指す方にようやく目を向けた。


 この場所の中心にある大木に夕日が十分すぎるほど差し込み、季節外れの桜色がキラキラと輝きを放ち、枝先からは色の反転した虹が空に向けて架けられている。




 言葉を失い、瞬きも忘れるほどの美しさと圧倒されるような存在感で、感動のその先を体験した。


 気がつくと翠さんが歩み寄っている。


 僕も勢いよく立ち上がり、小走りで近寄った。


 近づくにつれ、僕の心が木に奪われていくのがわかった。


 柵の前まで行くと、風に煽られ枝から溢れた葉が、ユラユラと踊りながら僕と翠さんの足元で動きを止める。


 手のひらよりも一回り小さく、本来黄葉であるはずの落ち葉は柔らかな桜色をしており、初めて観る光景に、魂すらも奪われたように見惚れてしまった。


「綺麗ね……」


 言葉をかける翠さんに、僕はその鮮やかな桜色の葉を見上げながら口を開いた。


「うん……初めてこんな綺麗な木を見た」


 適切な言葉が見つからなかった。




 春風のような生温い優しい風が僕らをイタズラに擽る。


「晴れましたか。外ではゲリラ豪雨でしょうね。そしてまた今年も随分と美しい色になりましたね」


 振り向くとマスターが背中に手を回して立っている。


「……これは桜ですか?」


 桜色の落ち葉を拾い上げ、僕がマスターに問うと、マスターは枝先を見上げて答える。


「いいえ、これは枯葉です。あなた方の世界では現在7月だと思います。7月といえば夏と感じられる方が多いと思いますが、我々の世界の暦上ではもう秋なのです」


「だからこれは枯葉。けれど色が季節の反対側となるから春色のこの色。ということですか?」


「その通りです」


 黙ったままの翠さんを見ると、綺麗な横顔と、風に揺られる桜色の枯れ葉でとても様になっている。


 翠さんは、まるでおとぎ話の中の人のようだ。


 翠さんに見惚れる僕に、本人は気づいていない。うまく目を逸らすことができなかった。




「ねぇ、次はいつ会える?」


 どうしてこの言葉が出てきたのか僕にもわからなかったが、驚きはしなかった。


 翠さんはゆっくりと顔だけを僕に向ける。酷く驚いた様子だった。


 そしてプッと吹き出し、クスクスと笑い始める。


 葉っぱ着いてるよ、というと翠さんは自分の頭に指を指す。


 僕が自分の頭に手を乗せると、まるで木が僕に話しかけたように葉が乗っていた。


「そうねぇ、梅雨が明けたから、次は……」


 僕は今まで疑問に思っていたことを伝えた。


「どうしていつも季節の変わり目とかなの?」


 木の葉の隙間から覗かせる夕日を見つめながら、翠さんは間を開けて答える。


「……初めてってさ、新鮮でしょ? 初めての遊園地、初めての高校生活、初めての季節。季節の変わり目にしているのは、今年の初めての季節を、一緒に過ごしたいなぁーって思ったから」




 迷いのない、心からの言葉だと感じ、心臓が存在感を膨らませていた。


「今日の夜、また会えない?」


 僕は勇気を出した。


 驚いた顔をした翠さんは、少し考えた後に、了承してくれた。


「うん、まあ大丈夫だけど……。とりあえずはお店の中に戻ろっか」


 笑顔を僕に傾けた後、僕らは店内へと戻った。


「お、どうだ? 泣き止んだか?」


 一言目にデリカシーのない言葉をウィンが僕らに掛けた。


「え? 泣いてないけど? ね、颯君」


 キョトンとして平気で嘘をつく翠さんが僕には少し面白かった。


「うん、外に出たら綺麗な夕日が出てきてたから、それを見てただけみたい……」


 なーんだ、と残念がりながらラテ達と話の続きをしているウィンを見て、僕らは目を合わせてコソコソと笑った。


「では、そろそろお食事を持って参りますね」




 手をパンッと叩き、マスターが空気を変えた。


 僕らが席に座り、5分ほど待つとマスターはトレイに人数分のジュースを持って厨房から帰ってきた。


 グラスをテーブルの上に置き終えると、両手をお腹に添えた。


「こちら、『半月とマジックアワーのメロンソーダ』になります」


 透明なアロマフロートには夕日に染められたような強調性のある赤と、優しげなオレンジ色、そして底に沈んだ空色が混ざらずに分裂している。


 液体の上には半月のような形のバニラアイスに金箔が掛けられており、キラキラと月明かりのような光を放っている。さらにその横には、まるで沈みかけた太陽のようにチェリーが乗せられている。


 メロンソーダは、まさに夏の夕方の空模様だった。


「マスター、今日もすごいね」


 ニコニコと翠さんが、オモチャを買ってもらった子どものように喜んでいる。


「食べるのがもったいないくらい綺麗です」




 そういうとマスターは、どうぞ召し上がってくださいと言い、厨房へ戻った。


 ふと椅子の下の紙袋に気づいた。


 そうだ、まだ渡してなかったと思い出した。


「颯君、それは?」


 腰を折り曲げて取り出した紙袋に、翠さんはジロジロと見つめる。


「これは、マスターに渡そうと思って。お金も渡さないのは申し訳ないから、せめてものお礼と思って」


 素敵ね、と言ってくれる翠とは反対に、ウィンが口を開いた。


「そんなもんいいのに。ただならただでもらうべきだぜ」


 ウィンの方に目を向けると、目を見開いて驚いてしまった。


「え!? もう飲んだの!?」


 グラスの中には僅かに液体が残っているだけで、空になっていた。


 口の中からチェリーの柄を取り出し、グラスの中にポイっと入れるウィンを見て翠さんがクスクスと笑う。


「せっかくマスターが作ってくださったのに、味わって食べましょうよ」




 ラテがウィンに注意をしていると、モカが口を開いた。


「なかなか美味かったぜ」


 僕らがモカに目を向けると、モカのグラスは、一滴も残さず空だった。


 それを見て翠さんがあははと吹き出す。釣られるように僕も笑ってしまった。


 翠さんの笑いが収まると、私たちも飲みましょう、と言い、ストローに口をつけ、一口吸い込んだ。


 口の中から全身に冷たさが広がり、身体中がメロンソーダを歓迎した。


「美味しい!!」


 僕らは目を合わせて同時に同じ言葉を使った。


 見た目の色とは想像をつけさせない、甘いメロンソーダだった。


 半分ほど飲み終えると、翠さんがチェリーを口にする。


「あ、これタネないよ」




 モゴモゴと話す翠さんのグラスに目を奪われた。


「見て!」


 夕焼け色だったメロンソーダは、赤とオレンジ色が消え、夜空のような深い青色へと姿を変えている。


「僕のはまだオレンジなのに……」


 突如色を変えたメロンソーダに僕らが不思議に見ていると、マスターが戻ってきた。


「太陽が沈むと夜になる。これは当たり前ですよね。このメロンソーダにとって、チェリーは太陽なのです。つまり、メロンソーダは夜になったということです」


 芸術のような飲み物に、僕は感動していた。


 そして翠さんのメロンソーダは溶けかけたバニラアイスが半月となって空に沈んでいき、綺麗な夜空のようになっている。


 僕もチェリーを食べると、夜空色になった。しかし、バニラアイスも食べ進めていた僕の方は、綺麗な半月の夜空とはならなかった。


「先に言うべきでしたね」


 そういうとマスターはまた人数分の皿を配り始めた。


 置かれた皿の上を見ると、翠さんはうわぁと感動したような声を漏らした。




「こちら『季節の朝食』になります」


 中央にばつ印に切り込まれたトーストが置かれている。


 そして4部分に分かれた各位置には、色がつけられていた。


 ピンク、緑、黄、白。まるで春夏秋冬を表されている。


「ピンクはさくら、緑はスイカ、黄はタマゴ、白は砂糖を主な原材料としており、一年を味わっていただけると思われます。」


 僕と翠さんとラテがトーストに目を惹かれていると、モカとウィンはすでに食べ始めていた。


 いただきます、と僕らは手を合わせ、トーストを口に運ぶ。僕は冬の部分から頂いた。


 サクサクと焼きたての音を立てながら口の中へトーストが入り込むと、温かみがあるはずなのに、どこか体がひんやりとした気がした。


 中学生の頃、僕の家の近くでは滅多に降らないほどの大雪で、近所の友達と雪合戦をしたのを思い出した。




 懐かしく思い、肩の力が抜けた。


 翠さんは春の部分から食べ始めていたようだ。


 きっとニコニコと笑顔で食べているのだろうと思い、ちらっと横目です翠さんを見てみた。


 しかし僕の期待とは逆だった。また翠さんが悲しんでいると感じたのだ。


 今はそっとしておこうと思い、僕はラテに声をかけた。


「なんか、美味しい上に、体全身で食べてるみたいだね」


 ラテはトーストを飲み込んだ後にゴホンと咳払いをして口を開く。


「ええ、ほんとに……。思い出の蘇るような味です……」


 ラテの表情も、どこか苦しそうだった。


 冬を食べ終え、秋の部分に差し掛かる……。


 最後の一口を食べ終えると、まるで今までの人生を遡ったような気持ちだった。


 再び横目で翠さんをチラッと見ると、幸せそうな表情をしていた。


 とりあえず良かったと思ったが、僕は春の部分だけ、何も頭に浮かばなかった。




 秋には小学生の頃の遠足、夏にはカブトムシの思い出が蘇ったが、春だけは何も感じられなかった。理由は、わからなかった。


 メロンソーダを飲み終えると同時にトーストを食べ終えると、マスターが再び厨房から姿を見せる。


「いかがでしたか? 時間の旅は」


「時間の旅?」


 僕らは首を傾げた。


「ええ、今あなた方が食べたトーストは、食べた季節に沿っての思い出や理想を体験させてくれます。きっと何か刺激になったかと思います」


 翠さんは黙ったままだ。


「よくわからんけど美味かったぜ」


「まあ悪くなかった」


 すぐに食べ終えたウィンとモカは、特に何も感じていないように見えた。




 春の時に何も感じなかった、そう言いかけて、言葉を喉の奥にしまった。


「さて、そろそろ行かせていただきます。随分と時間が経ってしまいました」


 ラテがゆっくりと立ち上がり、モカ、ラテと続いて店の外へ出て行った。


「あ、そうだ」


 テーブルの上に置いたままの紙袋をガサゴソと漁り、僕はマスターに可愛らしくラッピングされたハーバリウムを、お礼ですと言ってプレゼントした。


「これは素敵なプレゼントを。ありがとうございます」


 マスターは微笑んで喜んでくれた。


「あ、そうそう」


 今度はカバンの中を漁り、僕は愛花にはバレないようこっそり買ったものを取り出した。


「これは……翠さんの分……」


 呆然とする翠さんの前に小さな小包を差し出した。




「僕……センスないけど……もしよかったら……」


 僕の言葉に翠さんが言葉を重ねる。


「嬉しい! ありがとう!」


 初めて見る雲一つない満面の笑みを、僕は直視できなかった。


 開けていい? と訊かれた僕は、コクンと頷いた。


 包まれたラッピングを丁寧に剥がすと、雪だるまのようなキャラクターのキーホルダーが入った箱が出てきた。


「ごめん、そんなものしか買えなかったけど……」


 そう言うと翠さんは顔の前で箱をまじまじと見つめた。


 普通いらないよな、と心の声が僕を責めた。お金がなかったとはいえ、あげない方がマシだったかもしれないと、自己中傷的になった。


 すると翠さんの頬が緩み、大事そうに手のひらで箱を包んだ。


「嬉しい……ありがと……」




 ニッと白い歯を見せて笑う翠さんを見て、僕は全てが報われたような、そんな気持ちだった。


「帰ったらなんのポーズが出たか写真送るね」


 そう言われて僕はハッと思い出した。


「そうだ、メッセージなんだけど……」


「別に返しにくいとか嫌とかは思ってないよ?」


 心を見透かすように答えを返された。


「え! なんでわかったの!? てかそうなの?」


 戸惑う僕に翠さんはフフッと笑う。


「うん、こっちこそやりづらいかなーと思って何も送らなかったんだ」


 よかったー、と声を漏らす僕に翠さんが僕の顔を覗き込んで、なにがよかったの? と揚げ足を取られた。




「……マスター、そういえば僕らの世界は今気温が高い時期なのに、どうしてこっちも暑さが残るの?」


 翠さんに耐えきれず僕は話を逸らした。


 ふふっと口元に手を添えてマスターが笑った。


「そうですねぇ、この場所の原動力はあなた方にあります。心が温かいあなた方だからこそ、気温は変わらずにいつも温かいのです。他にもいろいろありますが、長くなるのでやめておきましょう」


 難を逃れた僕は少しホッとした。


 ガチャッと店のドアが開き、モカが顔を覗かせた。


「俺らはもう行くぞ」


 店の窓からウィンとラテも顔を覗かせていた。




 僕らは手を振って別れを告げた。


「僕らも行こうか」


 マスターにごちそうさま、と頭を下げて店を出た。


 ふと気になってカウンター横に足を運んでガラスの鉢に顔を覗かせた。


「あ……咲いてる……」


 僕のまん丸の鉢に新たな花が咲いていた。


「お、咲いてるねぇ」


 翠さんも横から鉢を覗く。


 紫、白、黄の三色が美しく存在感を表している。


「私のも咲いてるよ」


 右隣の鉢を見ると、花が2種類咲いていた。


「これ、翠さんの鉢?」


「そうだよ。こっちがモカで、これがプチで……」




 誰がどの鉢のものかを教えてくれ、一人一人形が違うのだと気づいた。翠さんのものはまるで半月のような半円だ。


 僕の鉢に目を戻すと、時計の9時の位置に咲き誇っていた。


「なんの花だろうね」


「そちらはクロッカスですね。翠さんの方は、胡蝶蘭とポピーです。お二人にお似合いの花です」


「マスター、この花はどうした意味で咲くの?」


 翠さんも花が咲く理由などはわからなかったらしい。


「いずれわかりますよ」


 マスターはそれ以上に理由は言わなかった。


 僕らはまたねと互いに告げ、再び雨の降り始めたこの場所から、小走りでそれぞれの出口へと分かれた。


 その日、夕飯も食べ終え、お風呂から上がり部屋に戻ると翠さんからメッセージが来ていた。

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