処女中枢讃歌、懸想に集く 二

 放浪人が提案をしてから、何度風が唸っただろう。

痺れを切らした彼が、眉間に皺を寄せた。


「・・・それで、いつまで感傷に浸っているつもりなのだ?老鶯よ。

僕は今おまえに『良い案』を話した。その返答はいつくれる?」


今放浪人の目に映っている売女ばいたは、

子を抱き抱えたまま目を虚にしていた。

空虚、まさにからである。

その目に差すのは光ではなく魔のような。


「・・・・・・・・・」

「やはり所詮は少女おとめ、まだ幼い百合は染まりやすい色だものな。仕方あるまい」


放浪人は彼女の身包みに手をかけ、

勢いよく千切って蹴飛ばした。

彼女の軽い体は微風そよかぜのように、

薄く飛んで勢いよく泥に堕ちた。

生娘の泣き声と、

今彼女の手から離れて放浪人の腕の内で泣き喚く赤子が、彼には等しく見えた。


「もう一度、僕は老鶯、芽妹華天つめはなのあまに提案をしよう。僕がこの赤子を引き取る。するとおまえは食い扶持に困らない。どうだろう。」


泥を啜りながら、ヒルのように地を這って放浪者にじりじりと寄る生娘には、そのような言葉など聞こえているはずもなかった。


「提案にならぬな。興醒めだ。

おまえの血で汚れた靴代、この赤子で許してやろう。」


赤子の声は井戸の底へ落ちるように、

彼女の耳から遠ざかっていった。

いまだにヒルの歩みを止めぬ、

泥色の彼女は必死になって声を絞る。


喉からは隙間風のような風切り音が踊る。


「あっへ、ふははい」


痺れた舌を動かしてやっと出た言葉は、

悦楽の海に誘うセイレーンに類似している、そう感じたのは放浪者だった。


「ああ、芽妹華天。君はなんて健気なのだろう!

その健気さに僕は感動した!」


そのように話す放浪人は、

首に巻いていたアストラカン*の毛でできた

うねる漆黒の首巻きを彼女の首に優しく巻いた。


「僕は今君の健気さに、

さながら獣が獣自身を知るような、

己に対する幻滅をしてしまった!


これは僕が君に、

僕の健気さを見せるための最適解とした行動と、

しかと受け取っておくれ。」


放浪人、

彼にとって彼自身の絶望を補う手段は、

目の前の売女に善行を行うことであり、

これは二度も彼の中で果たされた。

故に彼は言う。


「僕のなんという慈悲!おお神よ、僕の寛仁さをご覧になられましたでしょうか!一人の女子おなごを、赤子と共にこの世を去ろうとした憂いの女子を、僕は救いました!」


放浪人は自身の“犯した”善行に陶酔した。

そのあまり、

彼はいつのまにか赤子を地に落としていたことに気がつきやしなかった。


売女は今が世と言わんばかりに、

落ちた赤子を引き寄せて抱きしめた。


酔いから醒めた放浪人はこれを見た。


「なんと!

僕が我が主への敬愛を示すうちに、

この老鶯は僕に気づかれぬよう、

赤子を奪い取り、

そして、

そのか弱い体を地に堕としているとは!

なんと言う母親を名乗るに烏滸おこがましい者か!」


放浪人はとんだ勘違いをしていた。

彼は彼が落とした赤子の安否を確認した母親を、

よもや放浪人から子を奪い取り、

そしてその赤子を穢れの多い地面に擦り付けていると考えたのだ。


売女から赤子を奪い取り、

かくも醜い行いをした彼女を、

放浪人は再度蹴りつけた。

老鶯はさえずりを止めた。


「どこか山頂へ行こう。

この赤子を山の陰と陽どちらの*海に流すべきか、

そこで決めよう。」


売女の血で汚れた靴は、

夕日でより一層それを映えさせた。


*以下注釈


*「アストラカンの毛」・・・ロシア・アストラハン地方に生息するカラクール種の、胎児又は子羊の毛。毛は黒くうねり、光沢を帯びていて高価。

*「赤子を〜に流す」・・・当初、放浪人は赤子を芽妹華天の「こくみ」と考えていたが実は赤子であった。これを知った放浪人は、『初めて見た時、赤子をこくみと判断してしまうこと』を穢れと思い、赤子を海に流すことを決意した。

これはヒルコをモチーフにした。

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