第15話 藤森あやめは農家になる⑦

「お疲れ様、藤森さん」


「お疲れ様です、実岡さん」

 

 二人は実岡宅のリビングで座卓に座り、きゅうりの浅漬けを肴に缶ビールをぶつけて乾杯をする。カコン、と缶同士がぶつかる鈍い音がした。

 プシュッとプルタブを開けてそのままゴクゴクと一気に飲む。

 肉体労働で疲れた体に冷えたビールが染み渡り、全身が潤いに満ちた。


「んーっ、美味しい!」


 今やあやめは実岡の前ですっぴん部屋着でいることが普通になった。手足を投げ出すように座り、完全にリラックスした体勢だ。半袖短パンでこちらも部屋着全開の実岡はそんなあやめを笑顔で見つめきゅうりの浅漬けに箸をのばす。ぽりぽりといい音がした。


「いよいよプレオープンだ。農作業もあるのに、一月かからずによくここまで準備したよ。藤森さんって凄いんだね」


「前までやっていた仕事ですから。それに皆さんの力がなければ絶対に無理でした」


 地元に強い不動産の紹介から始まり、店舗の内見や内装工事、料理のメニュー決め、発注作業。全て一人でやったわけではなく、皆の力があったからこそ出来たことだ。

 あやめもきゅうりの浅漬けを口に入れる。

 適度なしょっぱさに漬かっているきゅうりはもちろん実岡の畑で採ったもので、これが歯ごたえがあって美味しい。たまらずビールに手を伸ばした。

 きゅうりの浅漬け、ビール。いくらでも進みそうな組み合わせだ。


「上手くいくかな」


「絶対に大丈夫です。明日はみっちゃんの取材もまた来てもらいますし、お盆前の開店で地元のお客さんを呼び込んで、その勢いで都心の人も取り込んじゃいますよ」


 あやめが手がけていた店は東京、飲食店の激戦地ど真ん中である。外装、内装共にここらではまず見かけないおしゃれなものに仕上げたし、シェフは本場イタリア人だ。味だってもちろん保証できる。ベルナルド以上のピッツァ職人はいないと思っているし、パスタだって美味しい。

 そして苦労して育てた有機野菜。

 これで成功しないわけがない。


「楽しみですね、プレオープン」


「まずは取材で三島さんと地元の観光取材の人、それからパートの佐藤さん鈴木さん田中さん、田中さんの息子。あとは声をかけたご近所の方々。東京からは卸先の料理店の人たち」

 

 実岡が指折り数えて明日の招待客を挙げていく。

 今までお世話になった人たちを招いてのプレオープンだ。

 自慢の野菜を使った特製料理にとっておきのワイン。暑い中来てくださる人たちのためにとびきりのおもてなしをしよう。


「実岡さん、ありがとうございます」


「うん?何がだろ」


「私、実岡さんに言われるまで肩の力を抜くということが出来ませんでした。こうやってだらだらしながらビールを飲んでると、疲れも吹き飛びます」


「そりゃあ良かった」


 実岡は片手を畳に置いて重心を傾け、もう片方の手でビールを飲みながら笑って言う。


「俺の方こそありがとう。もし出向して来たのが藤森さんじゃなかったら、会社が倒産した時に俺は大量の野菜を前に途方に暮れていたところだった。きっとどうすればいいかわからなくて頭を抱えていたと思う。藤森さんが一緒に野菜を売ると言ってくれたからここまで出来たんだ」


「そんな……私は自分にできることをしただけで」


「店の買取から準備に至るまで、全部資金を出してもらって。金は時間がかかっても必ず返すから」


 あやめにとってあのお金は使いどころがなくただただ埋没していただけなのでどうだっていいのだが、実岡からすればそうもいかないだろう。あやめは頷く代わりにこう提案をする。


「お金のことはいいんですけど、一つお願いがあります」


「何かな」


「私を、ここにずっと置いてもらえませんか」


 ビールを置いて、座卓越しに実岡の方へと身を乗り出す。


「農業もお店もすごく楽しいんです。それに実岡さんといると落ち着くといいますか、ありのままでいられるから楽で……このままずっと、一緒に暮らして農業したいんです」


 渾身のあやめの告白を聞いて実岡は呆けたような間抜けな顔をした後に、口元を手で覆って赤面した。そんな様子の実岡を見てあやめはハッとする。

 今のセリフ、逆プロポーズまがいだ。


「ちっ、違うんです!そういうことじゃないといいますか、私はただお仕事楽しいからここにいたいなと思っただけで!」


「ああうん、わかってるよ」


 あわあわと言い繕うあやめに実岡も苦笑いをしながら返事をする。

 気まずい空気が流れた。

 所在無さげに二人でビールをすする。


「……俺も、藤森さんがずっとここにいてくれればいいなと思ってるよ」


 ポツリと実岡がこぼした。


「……はい」


「プレオープン頑張ろう」


「……はい」


 今はただ、この距離が心地いい。


+++


 真夏の群馬は地獄のように暑いので、来てくださるお客様のことを考えてプレオープンは午後六時になった。

 馴染みの顔ばかりが並ぶプレオープンは実に和やかで、みっちゃんは料理を写真に撮ったりタブレットにメモを残したりと忙しそうだ。

 ベルナルドが有機野菜をふんだんに使った自慢の料理を振る舞い、アルバイトの子たちが客の間を縫うようにお皿を下げたり飲み物を注いだりする。

 あやめと実岡も給仕を手伝いつつ、取材に答えたり挨拶をしたりと忙しい。


 と、そこであやめのスマホが着信を告げた。

 一体誰だろうかと画面を見るとそこには「奏太」の文字が踊っている。

 何の用だろうと考え、そういえば「やり直さないか」と言われていたことを思い出す。店のオープン騒ぎで完全に忘れていた。

 賑わう店の外に出て、テラスの隅で通話ボタンをタップする。


「もしもし?」


「あ、あやめ。今時間大丈夫?」


「うん、ちょっとなら」


 店の中とは打って変わって外は静かだった。ジメジメした夏の夜の空気が肌にまとわりつき、街灯もあまりないこの場所は暗く夜空に輝く星がよく見える。

 あやめは奏太の言葉を待った。


「よかったら今度飯でも行かないか。この間の返事も聞きたいし」


 耳に馴染む、聞き慣れた声で奏太は言う。


「やっぱり俺にはあやめじゃないとダメなんだ。もう一度付き合って、今度こそ結婚しよう」


 縋るような響きさえあるその言葉をあやめはなんの感情もなく聞いていた。

 これが四年前だったらば、一も二もなくあやめは首を縦に振っていただろう。

 あるいは仕事に邁進していた時期だったらば、怒りながらも受け入れたに違いない。

 だが今はどうだろう。今更なんだと怒る気持ちも、私も好きだと昂<たか>ぶるような感情も湧いてこない。心は波一つ立たない海面を進む船のようで、全くと言っていいほどに心が動かされなかった。

 完全に無の境地だ。

 ああこれが恋の終わりなのねと、あやめは己の気持ちを完全に理解した。

 奏太のことが好きだった自分はもうどこにもいない。


「あのね、奏太。私は奏太のことが大好きだったよ」


 ずっとずっと大好きだった。奏太のためならば何でも出来た。

 夢は奏太のお嫁さんになることで、それが全てだと言っても過言ではなかった。

 けれどもう、違う。

 あやめは店の中を振り返る。店内では実岡が忙しそうにワインを注いだり、お客と談笑している姿が見える。知らず知らずあやめの唇は弧を描いた。


「でもね、もう好きじゃない」


「でも俺たち……幼馴染で、ずっと一緒にいただろ」


「四年前までね。私は今の生活が気に入っていて、邪魔されたくないの。だから奏太とはもう付き合えない」


 決別の言葉をきっぱりと告げると、奏太は沈黙した。


「じゃあね、奏太。幸せになって」


 返事を聞かずに通話を終了する。あやめは店内へと踵を返した。

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