第三章 騎士の河川 ②

 ソフィーは朝食を必ず食べる。


 どうやらパンケーキが好きなようだ。食べたあとは必ず料理人のダニのところに行って今日のパンケーキとこの果物の相性がよかっただとか、スープもおいしかったとか、感想伝えている。ダニはにこにこしながらそれを聞いていて、楽しそうだ。そういえば、最近心なしか食事の味が上がった気がしていたけれど、もしかして関係しているかもしれない。

 ソフィーは褒めるのがうまいのかもしれない。それにしては夫である自分にはまったく機嫌を取る様子はない。そういうのは一般的には夫にこそするものではないのだろうか。怒りではなく不可解さに包まれる。夫に興味がなくさっさと出ていこうとしているなら、屋敷の使用人にも無愛想になるはずだ。なぜ、使用人達に対してはあんなに親しげなのだ。


 ソフィーは食事のあとは中庭にいることが多かった。

 雑草をひたすらに抜いていたり、土を掘り起こして石を取り除いたり、また別の石を混ぜたりしているようだった。庭師のようなことをやっているが、庭に疎いエルヴィンにはその行為が持つ意味がよくわからない。


 ソフィーは知れば知るほど風変わりな女だった。

 平気で使用人に混ざって掃除や調理をしたり、勝手に庭をいじったりする。

 昨日は屋敷の厩の側で厩番と話していたので屋敷の窓から見ていたら、しばらくして厩番が連れてきた馬の毛並みをずっと撫でていた。


 ソフィーは世間知らずな感じはあるが貴族の娘特有のふんわりおっとりした感じとは違う。ズレているのに真っ直ぐな尖りがあった。

 ソフィーが時折見せる強い瞳がいつも印象的で、そのたびに過去の感覚が思い出されて胸がざわつく。それは懐かしい感覚でもあったが、自らの弱さを見せつけられるかのような、どことない不安感でもあった。


 しかし、エルヴィンはあえてそれを避けたいとは思わなかった。大昔に自分で隠しておいて、どこに隠したか忘れてしまった宝のありかを探し、今一度光を当てて見てみたいような欲求があった。エルヴィンはその感覚をもっと深く突き詰めようと、連日暇を見つけてはソフィーを観察していた。心の奥を刺激して疼かせるこれがただの好奇心なのか、もっと深い欲求なのか、わからないまま。知りたいのは自分自身のことなのかもしれなかったが、エルヴィンはソフィーをもっと知りたいと思った。

 彼女を見るのはただ、自己に纏わる好奇心のために彼女を知りたいだけだ。それ以上の意味はない。エルヴィンは心にそう言い訳をすることで堂々とソフィーを観察した。



 ソフィーはあえて気にしないようにしているのか無反応なのでエルヴィンのほうもだいぶ気の抜けた遠慮のない観察をするようになっていた。

 しかし、その日は近付きすぎたのか、中庭で土をいじっていたソフィーがぱっと顔を上げて睨んできた。そう、睨むと称するしかない強い視線だった。


「…………っ、旦那様、何か?」


 ものすごくびっくりされている。声が裏返っているので誤解しようもない。


「何か御用でも……?」


 しかも、まったく友好的ではない。

 大きく見開いた目はあからさまに緊張を表していて、警戒心が丸出しだった。


(この間は殺気立った様子で時間を作れと言ってきたくせに……)


 ソフィーの態度はまったく親しげではない。少なくとも夫となった人間に向ける目つきではない。エルヴィンはどことなく面白くなかった。



 翌日、エルヴィンは仕事をいつもよりさらに早く切り上げて帰宅した。

 もともと普段から働きすぎだと諌められていたエルヴィンを止める人間はいない。二度目の結婚がうまくいっているのだろうと快く送り出された。

 数年間、化石病のことしか考えていなかった彼は、初めて気にかかるものを見つけ、それをじっと観察していた。


 日暮れよりだいぶ早い時間。エルヴィンは使用人に帰宅を告げることもなく中庭をそっと覗いた。思った通りソフィーは中庭にいた。

 彼女は東屋の下のテーブルで使用人達とお茶をしていた。

 三人で話しているそこでソフィーに饒舌な様子はなかった。いつのまにかすっかり打ち解けているとみえる使用人達がかしましく笑いを誘っている。それに小さく相槌を打ったり黙って頷いたりしていることのほうが多い。

 ソフィー達のいる東屋、そのすぐ近くの樹に小さな鳥が飛んできた。ソフィーがそれを指差して何か言う。そうして、ふいに口元を綻ばせて笑った。


 ソフィーが、笑った。


 エルヴィンと対峙していた時の彼女は強い瞳を称え、隙がなかった。もちろん笑わないのだと思っていたわけではないが、笑みを想像することが難しかった。

 普段表情薄い彼女が思わずこぼれてしまったような屈託のない笑みを浮かべている。

 エルヴィンには向けられなかった笑顔がそこにあり、小さな疎外感を覚えた。

 中庭には陽が射していて、いつの間にか雑草は減り、そこは瑞々しい緑の生命力に満ちていた。まるでソフィーによって力強く連れ出され、灰色の薄暗い世界から抜け出したように、使用人達も色を取り戻していた。


 その、鮮やかに生きた空間から爪弾きにされた彼は、自分だけが薄暗い日陰に閉じ込められているかのような錯覚に陥った。

 それは、悲しいというよりは、侘しく、切ない感覚だった。



 だから、何度目かの観察でソフィーが声をかけてきた時、エルヴィンは自分でも思ってないほどに、焦りの感情を燻らせていた。

 どことなく呆れた様子で仕事の話を聞かれ、そこから自分の父の話をした。普段なら人にわざわざしない話だった。けれど、エルヴィンはそのことをソフィーに話したくなった。彼は聞いてほしかった。そして、話を聞いたあとのソフィーの顔を見たかった。


 彼女の新しい顔を見つけることは自分の中に湧いた何かに関わることだ。ここ何年もの間、自分の奥に流れる河川の途中に大きな塊があり、それが流れを堰き止め、ずっと途切れているものがあった。

 長くせき止められていたその流れは、時間をかけて決壊寸前にまでなっていて、エルヴィンは自分でも気づかないほどに助けを求めていた。彼はソフィーが隠し持っている何かをそこからひっぺがして、早く、自分の何かを取り戻したかった。


 一見表情をあまり変えないように感じられるソフィーは注意深く見ると、豊かな表情を瞳に宿している。父の話を聞いた時は露骨にびっくりしていたし、そのあとはいたましいものを見つめる色を帯びていた。

 痛み。優しさ。いたわり。好奇心。怒り。驚き。安堵。喜び。寂しさ。

 そんなさまざまな感情が、驚くほど瞳から感じられる。もっと大仰な表情の変化を見せる人間はいくらでもいるが、彼女のそれはすごく些細な変化で、それなのに作り物でない心情変化を感じさせる。ソフィーは頑なな警戒心と気の強さは感じられるのに、その瞳だけは常に子供のように無垢で無防備だった。それが彼女の独特な雰囲気を作り出している。


 エルヴィンの知る貴族の若い女性というものは、貴族に囲まれ貴族と育つことで、性格が違っても皆どことなく似通っている印象だった。けれど、ソフィーの声の出し方や話す時のテンポ、表情の作り方も、今まで会った誰にも似ていない。

 そしてそれと矛盾するように、誰にも似ていないはずのその空気感は、エルヴィンにとっていつかどこかで見た懐かしい何かでもあった。


 化石病にまつわる父の話を聞き終えたあと、ソフィーは言った。


「化石病をなくすことで、誰かが大切な人を失わずにすむのはいいことだけど、そのために罪のない無関係な魔女が苦しむことになるのは納得できないわ」


 エルヴィンが黙っているとソフィーは苦しそうな顔で続けた。


「あなただって……辛いんじゃないの?」


 意外な言葉に驚いて見つめたソフィーの菫色の瞳が揺らめいた。

 エルヴィンの脳裏にはまた、なぜか青の森の魔女の赤い瞳が浮かぶ。


 無関係な誰かを傷つけているのはエルヴィンのほうだ。エルヴィンは誰かを犠牲にしても達成したい目的がある。辛いなんて思うのは図々しい。辛くはないはずだった。そういった邪魔な感覚はすべて心の奥底に閉じ込めて見ないように蓋をしていた。

 けれど、責められているのに許されたような不思議な感覚を得たエルヴィンはその時、自分の中の止まっていた水がぽたりとこぼれるのを感じた。


 長く流れを堰き止めていた塊は彼が最初に期待したように、決壊して激しく散らばることはなかった。

 ただ、その容積をわずかに小さくさせることで少量の水をそこから逃がし始める。

 そうして顔を上げ再びソフィーの顔を見た時、エルヴィンは自分の中の何かではなく、自分の外にあるソフィーに、新しい何かを見つけた気がした。



          *          *



 起床して姿を捜すと、ソフィーは中庭で梯子に乗っていた。

 この間は草を大量に抜いていたが、樹木の手入れにまで手を出し始めているのだろうか。

 ソフィーは剪定鋏を手に、額にうっすら汗をかきながら懸命に腕を伸ばしている。

 

 つくづくおかしな女だと思う。やってならないわけではないが、普通はやらないこと。場合によっては、はしたない、あり得ないなどと糾弾する人間だっているだろう。身分や常識をすべて無視して、やりたいことをやっているように見える。

 あまりにソフィーが気づかないのでエルヴィンはその真下まで行った。


 エルヴィンの姿に気づくと、ソフィーはあからさまにびっくりして体をびくりと揺らし、梯子から滑り落ちた。足から着地した勢いでよろめいた彼女の背中をとっさに抱き止める。

 ソフィーの体は綿のように軽く、頼りなかった。


「……気をつけろ」

「急にそんなとこにいるから……!」


 ソフィーはとっさに勢いよく苦情を言いかけたが、続いて倒れてきた梯子をエルヴィンが手を伸ばして受け止めると黙り、きまり悪そうに言い直した。


「……ありがとう」


 化石病と父についての話をしてからソフィーの態度はだいぶ軟化した。相変わらずそっけないが、以前あったうっかり噛みつかれそうな殺気はもうない。あるのはそこはかとない戸惑いとよそよそしさだけだった。エルヴィンはそこに小さな満足を覚えていた。


「君は庭師だったのか?」

「まさか。そんな技術はないわ。ただ、明らかに枯れた蔓草だけ切り落としているの」


 ソフィーは今しがた鋏で切り落とした茶色く枯れた蔦を見せてくる。


「ほかにも伸びすぎた芝生とか灌木、生垣も、庭師がやるようには絶対ならないけれど、伸び放題よりはマシな形を目指しているの」

「あぁ……新しい庭師を雇わなくてはな」

「……そのままがいいわ。わたしにやらせて」


 即座に言ったソフィーを見る。


「あ……その、お料理もお掃除も……たまに一緒にお手伝いさせてもらったりはしてるけど……彼らの仕事の邪魔になるでしょう。わたしがやりすぎると技術もないのに権力で仕事を奪うことになりかねないし……今、庭師はいないならわたしが邪魔をすることもないし、しばらくは好きにさせてもらえたら嬉しいわ」


 ソフィーは使用人のいろんな仕事に首をつっこんでいるようだったが、彼女の中に越権の線引きはあったらしい。ソフィーは仕事に首をつっこみ、口を出しながらも、そのさまは新しく来た女主人が屋敷の体制を再編しようとしている感じはまるでない。不思議と周囲も子供に手伝いをさせてあげているかのような雰囲気でそれを受け入れている。好き放題やっているように見えたが、これはこれで意外と彼らをよく見て動いているのかもしれない。

 ソフィーはこの国で下の身分とされる職業の者達を技術者として扱い、敬っている。

 使用人だけではない、彼女は彼が嫌悪する魔女に対しても、ある種同じように扱う。


「……あの、かまわないかしら」


 気がつくとすぐ近くにあったソフィーの瞳に覗き込まれて、びっくりして顔を離した。


「何が……」

「庭の話よ。……もう忘れたの?」

「ああ……かまわない」

「そう……よかったわ」


 ソフィーはほっとした顔をして、すぐにその場を離れ、また作業に戻った。

 エルヴィンは少し離れた場所に立ち、ソフィーをじっと見ていた。時々、ソフィーが居心地悪そうにこちらを見るが、特に文句を言ってくるでもなくまた作業に戻る。

 ソフィーは最初話したいと声をかけてきたくせに、こちらが話しかけてみるとさほど友好的でもないのがちぐはぐだ。エルヴィンはまた、ソフィーを追ってその背後に立った。


「……今は何をしていたんだ」

「これは大きいのがひとつふたつしかなくて……これから株分けをするの」

「それはどんな意味があるんだ?」

「元はたくさんあったのだろうけど、数が減っていたから大きなひとつを分けて増やすの」

「これはどんな植物なんだ」

「レモンバーム。干して乾燥させると消化機能を助けるお茶になるわ」


 彼女は知識も偏っていた。薬草や料理の妙な知識、国の都心部でしか話題にならないような化石病のことも知っていたが、社交や一般常識は著しく欠けているところが見受けられる。いや、それに関しては知らないわけではなく、興味がないだけかもしれない。普通の貴族として育ったはずだが、相当な変わり者といえる。


「手伝おう」

「……え、えぇ? そんなことしたら、手に土がつくわよ?」

「……当たり前だろう」


 どことなく胡散くさいものを見る目をよこしたソフィーは、それでもやり方を簡素に教えてくれた。

 ソフィーは根ごと引き抜いた草の根から土を落とし、器用に割っていく。エルヴィンも隣で彼女がもくもくと作業をしているのを見ながらやってみた。根の塊は複雑に絡み合っているので割ろうとすると一部ちぎれたりする。

 ソフィーがエルヴィンの手元をふいに覗き込んだ。


「エルヴィンは……」


 思わずといった感じに出たのはいつもの“旦那様”ではなく名前だった。彼女はそれに気づいた様子もなく、ためらいがちに話す。


「ああ」

「こういってはなんだけど……」

「なんだ」

「結構……不器用なのね」


 真顔でそう言ったソフィーが小さく震え出し、耐えられないように数秒後に吹き出した。


 ───笑った。


 ソフィーが自分に向けて笑った。

 それは、エルヴィンの心にまるで何かの戦いに勝ったかのような高揚感をもたらした。

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【増量試し読み】魔女の婚姻 偽花嫁と冷酷騎士の初恋 村田 天/富士見L文庫 @lbunko

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