第二章 魔女の困惑 ①

 親愛なるソフィー

 結婚おめでとう。旦那様と仲良くやっているでしょうか。あなたのことだからきっと楽しく過ごしているとは思いますが、辛いことがあったらいつでも帰ってくださいね。

 私はリヨンの街で新しい生活をしています。

 引越した先ではいろんな出会いがあって、たまに辛いこともあるけれど、私は前より生き生きしていると思います。すべて、あなたのおかげです。

 遠くにいるから、なかなか会うこともままならないと思います。でも、あの時あなたに相談してよかったです。本当にありがとう。

                            フィオナ・ブラウンより


          *         *


 ソフィーにフィオナ・ブラウンという友人がいたのかは知らない。けれど、隣国の都市の名前が入っていたのですぐに気がついた。これは、ソフィーからネリに向けた手紙だ。屋敷宛の手紙は先にすべて執事が検分するので名前を変え、内容も遠まわしなものにしたのだろう。どうやら無事に国境を越え、恋人とも仲良くやっているらしい。

 ソフィーのことはずっと気がかりではあった。いくら長年の恋情を募らせた駆け落ちといえども、貴族の育ちのお嬢さんが異国に出てすんなりと幸せになれるかというと難しく感じる。長く一緒にいることで恋人とも喧嘩をするかもしれないし、贅沢な貴族の生活に戻りたくなるかもしれない。


 ネリはネリで用が済んだら姿を消すとは告げてある。そこは双方納得済みだが、万が一ネリがまだここにいるうちにソフィーが急に国に逃げ戻ってきたりしたら大混乱となる。ネリはいろんな意味でほっと胸を撫で下ろした。ソフィーが、ネリがすでにここにおらず、読まないかもしれない前提で手紙をくれたのはありがたいことだった。



 エルヴィンと話した翌日。ネリはもう少しここにいて機会を待つことにした。

 ここまで見ていたエルヴィンの働きぶりだと次に話せるのはいつになるかわからない。もしかしたらまた少し先になる可能性はあったが、ネリは以前ほどこの屋敷にいるのが苦ではなくなっていた。


 掃除のせいなのか、食事のせいなのか。あるいは年老いた使用人達の中に歳若いネリが混ざったことで起きた変化なのか、屋敷の止まっていた時間はゆっくりと動き出していた気がしたし、その雰囲気は少し明るくなっていた。食事はおいしいし中庭を整えるのもなかなか楽しい。マーラもお菓子を持ってよく覗きにきてくれる。ネリはずっと人に興味がなく、人と話すことなんてほとんどなかったけれど、それも楽しい時間だった。

 どうにかしてエルヴィンの言う“記録”を入手できる方法がないか、考えながら機会を待つことにしたネリだったが、今は最初の一仕事を終えたような気持ちで気が緩んでいた。


「奥様、お顔に土がついてますよ」


 覗きにきたマーラにそう言われて思わず土だらけの手で顔を擦り、余計に汚れてしまう。その様子にマーラがくすくすと笑った。


「もうすぐ終わるわ」

「それなら、お湯の準備をしてきますねえ」


 没頭していると、先程いなくなったマーラが戻ってきた。近くに来ていたのに気がつかなかった。


「奥様、お湯のご用意ができましたよ」

「ありがとう。行くわ」


 その時点でネリは完全に油断していた。マーラと土だらけの格好で玄関前を行くと、彼女が突然「ヒッ」と小さく声を上げて動きを止めた。

 ネリもそちらに目をやる。魔王・エルヴィンがそこにいたことに驚愕した。

 口を開けてぱくぱくしているマーラに先んじて声をかける。


「……おかえりなさいませ」

「…………あ、あぁ」


 ネリは最初の頃はソフィーのドレスのような私服のまま庭仕事をしていたが、どんどん汚れるし破れる。あまりに作業に向かなかった。最近ではマーラが粗ラシャの簡素なつなぎを用意してくれたのでそれを着ていた。今その、たいへん貴族女性らしくない服にも、ネリの顔にもべったりと土がついている。

 エルヴィンは無言で、土だらけの妻を上から下まで見下ろした。

何か言われる前に、気をそらそうと口を開く。


「今日はお早いのね……」

 それくらいしか言うことがなかった。マーラもエルヴィンの早い帰宅に心底驚いたようで言葉を継いだ。


「そうですよ。珍しい……何かあったんですか」

「何をそんなに驚いているんだ。仕事が終わったから帰っただけだ」


 エルヴィンはいつもと変わらず不機嫌そうであったが、うっすらとした決まりの悪さも同時に滲ませていた。

 エルヴィンが私室に行ったあと、マーラの顔を見ると青白かった。


「どうしたの? 確かに急にいたからびっくりはしたけど……」

「旦那様はここ何年も、雨の日も風の日も、雪が降ろうとも……近くに雷が落ちようとも一日たりとも休まずに仕事に行かれていました。早朝に出て、日が変わるまで必ずです!」

「か、必ず?」

「あ、もちろん違う日もあります」

「そうよね。たまにはお休みしたりも……」

「いえ、月が出てない夜は道が暗くなりますので、お帰りにならず、そのままお仕事場に泊まるんです」

「えぇ……」


(どれだけ仕事が好きなのよ……)


「その旦那様がこんなに早くに帰宅するなんて…………奥様! これは何かよくないことがおこる前触れかもしれませんよ!」

「ま……まさか」


 そうは答えつつも、後ろめたいことがあるネリは、マーラの言葉に背筋を冷たくした。

 しかし、ネリの心配は杞憂に終わり、その日エルヴィンは一言も話すことなく、夕食を取るとすぐに寝室に入った。

 あの仕事中毒が……珍しいこともあるものだ。具合でも悪かったのだろうかと屋敷中の人間達が驚愕する中、エルヴィンはなんの気まぐれか翌日も日暮れ前に帰宅した。そのせいでネリはその日の自分の軽率な行動に首を絞められることになった。

 いつものように食事を無表情で口に運んだエルヴィンが、それを咀嚼したあと珍しく口を開いた。


「……これは、なんだ」


 エルヴィンの給仕をしていた執事がマーラに料理人を呼ぶよう言って、慌てふためいたダニがやってきた。何かあったのかと使用人達も来ていた。


「見慣れない料理だが……」


 エルヴィンの言葉にネリは鶏肉を喉に詰まらせそうになった。


「それですか……それは……申し訳ありません……」


 ダニは言葉を詰まらせた。

 エルヴィンの言う料理はネリが提案して、一緒に作らせてもらったものだった。


「謝罪は求めてない。俺は、これは何だと聞いている」


 ダニが青くなり、ネリは慌てて口を挟んだ。


「わたしの知ってるレシピを混ぜてもらったのよ……庭に生えていた草を薬味にしてるの」


 エルヴィンはネリを見て怪訝そうに眉をひそめた。

「君が……?」

「……お、お料理は嫌いじゃないから家でよくやらせてもらっていたの」


 必死にしどろもどろの言い訳をした。

 実際には小屋の生活で鶏肉なんて手に入ることはなかったので同じものを作ったことはない。ネリは好奇心旺盛で、自分が普段スープや粥に入れて調理していた薬味を鶏肉と合わせてみたくなってひと品だけ一緒に作らせてもらったのだ。味は予想した通りのもので、ネリはそれをとてもおいしいと思った。ただ、ネリが薬味に使ったカタバミの葉は、上等な食事にもよく使われるハーブと違い、この国では雑草扱いされるもので、つまりはとても田舎くさい料理だった。


 あまり変わったことをするものじゃない。中庭をいじらせてもらい、それが楽しかったので少し調子に乗っていたことをネリは反省した。

 しかし食事中に食べているものの種類にさえ関心がなさそうなエルヴィンが、パンが石に変わっていても気づかなそうなエルヴィンが、まさか気づくとは思っていなかった。


 エルヴィンの沈黙は長く感じられた。

 樹が芽吹き、花を咲かせ、枯れていくまでの長い時間が経過したように感じられた。

 その間、周りは全員動きを止めていた。彼はしばらく小難しい顔で何かを考え込むように固まっていたが、ふいに気の抜けた息を吐く。


 そして「べつに……悪くない」とだけ言った。

 そばにいて何か言おうとしていた使用人達が目を見開き、顔を見合わせた。

 その様子にエルヴィンは面白くなかったのか、弁解めいた口調で言う。


「なんだ……悪くないから、悪くないと言っただけだろう!」


 エルヴィンの物言いは妙に子供染みていたが、使用人達は笑うわけにもいかない。皆、彼に背を向け、何ごともなかったように仕事に戻ろうとした。

 ネリは白目がちにほっと息を吐いた。

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