4-11 悪心

 男は植木鉢をすうっと吉元潔の目の前にまですべらせてきた。

「『悪心』という。君が抱いた邪な思いの種から生まれた」

 吉元潔は植木鉢の植物をじっくりと眺めまわした。

 おどろおどろしい名前の割に見た目はごく普通の植物だ。幅広の葉はつやつやとした濃い緑色をしている。触ってみるとワックスを塗ったかのようにつるりとしていて、プラスチックのような硬さがあった。背丈は十五センチほどとさほど高くはないが、茎の部分は木の幹といった風格をすでに持っている。

「今はまだ苗木のような大きさだが、君が人を罵ったり、謗ったりすればそのたびに成長する。妬みや僻み、貶めてやろうという悪意、それらはこの『悪心』の栄養源となり、『悪心』はそれらを糧として成長し続ける。花を咲かせ、実の成るまで育った頃、君は死ぬことになる」

 その時だった。植木鉢の苗木がぐんと成長した。葉が次々と現れ、わずか二、三枚だった葉が五枚、十枚と増えていった。すでに幹といった風格のあった茎はさらに太さを増し、根元がぷっくりと盛り上がっていた。今にも植木鉢を割りそうな勢いだ。

 男は苗木の成長っぷりに目を細めた。

「君は今、心の内で毒づいただろう。『ちくしょう、気にくわない、死ぬって何だよ、くそが』――こんなところかな? 君の言葉はいつも短くて、文章を成していないね」

 男はくすりと笑った。

「『悪心』のやっかいなところはだ、悪意を心のうちで抱いただけでもぐんと成長する点だ。実際に罵詈雑言を口に出して言っても成長するけれども。実にたくましい生命力ではないか。おや? どうしたんだ? だいぶ苦しそうだね。『悪心』は成長する時、君の生命力を奪っていく。胸がぎゅっと押しつぶされているかのように苦しかったり、胃がつぶされているような痛みを感じたりしているだろう?」

 あまりの苦痛に吉元潔はベッドの上でのたうち回った。うーんうーんといううめき声があがる。その間も「悪心」は成長を続けていた。いまや根元は植木鉢と同じ大きさの太さになり、いくつにも分かれた枝には葉がぎっしりと生い茂っている。

 「悪心」の成長はとどまらず、部屋の空間という空間にその枝を伸ばし続けた。

「おやおや。この分だと実をつける時、命を失う時もそう遠くはないようだ」

 男は冷ややかな笑みを浮かべている。

 吉元潔は声にならぬ声を出して男を罵った。痛みは増し、「悪心」はさらに成長し、部屋を破裂させる勢いだ。

「どうにかしろと言っているな」

 男が吉元潔の唇の動きを読んだ。

「助けを求める言葉と態度ではないな。『助けてください』だろう?」

 「助けてください」とは言っていない吉元潔の唇の動きを見、男は落胆のため息を漏らした。「悪心」は成長を続けている。

「やれやれ。これだけ説明してやってもまだわからないと見える。『悪心』を成長させたくなければ、その栄養源となっている悪意を抱かなければいい。たったそれだけのことがどうして出来ないのか」

 男は怒りを通り越して呆れたようで、頭を何度も振った。

「まあ、いいだろう。君はまだ子供だ。体は大きいが、感情は赤ん坊程度だ。それでいて、人にぶつける悪意は人並み以上というやっかいな状態ではあるが。子供でいる間は許してもらえるだろうが、あと数年もすれば見逃してはもらえなくなる。君の不幸は、過ちを正してもらえなかったことだ。過ちを過ちと認め、反省する。そうすることで悪意は姿を消していき、その悪意を栄養とする『悪心』も枯れ、いずれ朽ちる。妬み、僻み、嫉み、恨み、辛み……人はさまざまな悪意を抱く。それに水をやって『悪心』を育ててしまうか、反省をして成長する前に芽を摘み取ってしまうかは本人次第だ。この部屋いっぱいの『悪心』も、もとは小さな苗木ほどだったろう? 部屋を押し広げんばかりに成長させたのは君だ。こうなってしまってから枯らしていくのは大変だ。それなら、芽吹いたばかりの苗木の段階で摘み取ってしまえばいい。僕が苗木を持ってきた理由は、君に『悪心』の芽を摘んでもらいたかったからだ。どうすれば、と?」

 男はいったん口を閉じた。

「反省すればよかったのだ。森川静佳に『死ね』と言い放ったことを後悔し、謝ればよかった。僕は君が後悔しているだろうかと思い、『ごめんなさい』の言葉を待った。しかし、その言葉はついに君の口からは出てこなかった」

 吉元潔は必死に口を動かした。「ごめんなさい」と言っているつもりだが、声が出ないので唇が動くばかりだ。

 男は吉元潔の唇を凝視し、その動きをそっくり真似てみせた。「ごめんなさい」と言っている。だが、男は声には出して言わなかった。そして部屋いっぱいの「悪心」も枯れるどころか葉一枚散らす様子がない。

 騙したな――

 声が出ないのをいいことに吉元潔は心のうちで罵詈雑言を言いたい放題にぶちまけた。

 「悪心」はきしむ音を立て、さらに成長した。

「君の声を奪っておいて正解だった。君の悪口は聞くに堪えない。そのうえ、嫌な臭いがするのだから」

 男は眉をしかめた。

「君のさっきの言葉は、自分の命が助かりたいがために発しただけだ。森川静佳に対して本当に悪いことを言ってしまったと心から反省して出た言葉ではない。だから『悪心』は枯れなかった」

 これは悪い夢だ。吉元潔はそう思うことにした。夢にしては胸や腹の痛みがリアルだが、目を覚ましてみればうつ伏せに寝ていたせいで腹が痛いとかそういった単純な理屈のはずだ。

「夢か。そう思ってもらっても構わない」

 吉元潔の心を読んだかのように男が言った。

「『悪心』は普通の人間の目には見えないが、君にはどうしても見てもらいたかったので、夢と現実の狭間に招待した。だが、夢ではない証拠に現実世界での苗木を置いていくとするよ。見た目が『悪心』に似ているクスノキの苗木だ。手元に置いて日々内省を促してもいいだろう。ただし、成長すると巨大な木になるので注意が必要だ」


 電源でも入れられたかのようにパチリと目が覚めた。吉元潔はベッドにうつ伏せで寝ていた。右手にはスマホを抱えている。寝ながらスマホを見ていた時と同じ姿勢だ。

 やっぱり夢だったじゃないか、と胸をなでおろしながらも顔は自然と机の方に向いた。

 何もないはずの机の上に小さな影が見えた。茶碗ぐらいの大きさの物が机の上にある。吉元潔は暗がりの中、目を凝らした。

 それは夢で見たのとそっくり同じ植木鉢だった。苗木の大きさも、二、三枚しかない葉も、つやつやとした濃い緑色の葉も夢と同じだ。

 驚きのあまりベッドの上に起き上がり、後ずさった。勢いあまり、壁に頭と背中をぶつけた。思わず椅子に目をやる。椅子には誰にも座っていなかった。

 ほっとしながらも、おそるおそる苗木に手を触れる。プラスチックのような葉の感触も夢と同じだ。

 夢ではなかったのか。

 ぞっとし、吉元潔は苗木を引き抜こうと指をかけた。見た目十五センチほどの若木は意外にも鉢の土にしっかりと根をはっているようで、簡単には抜けなかった。

 腹を立てた吉元潔は、植木鉢を床に投げ落とした。けたたましい音をたてて植木鉢が割れ、白い根がむき出しになった。吉元潔は苗木をつかみ、ゴミ箱に捨てた。

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