4-6 魂をこめて

「お願いします。静佳のために歌を歌ってもらえませんか?」

 梓が深々と頭を下げ、響と鈴が後に続いた。

「悪いが、俺はもう歌は歌えないよ」と、立華が言った。

 はっと顔をあげて見た立華は暗い表情を浮かべていた。

「違うんです。歌ってもらいたい歌は『風の街』じゃなくて、僕らが作った歌で……」

「ならなおさら、君たちで歌えばいい。俺の出番はないだろう?」

「僕らじゃダメなんです。僕たちでは歌うだけになってしまう」

 梓は懇願した。響も鈴もすがるような目で立華を見つめた。

「歌うだけになるのは俺も同じなんだよ」

 響と鈴の視線を避け、立華はうつむいてしまった。

「そんなことないです! 立華さんは歌に魂をこめて歌える人です! いつだか、駅前で歌ってくれた時だってっ――」

「うまくは歌えてしまうんだよ」

 違う、違うと梓は激しく首を横に振った。

「耳じゃなくて、魂に響く歌を歌えるじゃないですか! 歌っていたじゃないですか! 多分、人気絶頂の頃の映像だと思うんですが、ネットにあがっていて、僕、聞いたんです。コンサート映像でアンコールでファンの方にむけて立華さんが『ハッピーバースデー』を歌ったんです。その日はその人の誕生日でチケットは誕生日プレゼントだった。でも病気になって誕生日に手術が決まってしまってコンサートに行けなくなってしまった。そういう手紙をもらったという話をして、立華さんは『ハッピーバースデー』を歌ったんです。覚えてますか?」

「そんなこともあったかな……」

 立華は目を伏せたまま、口元に微かな笑みを浮かべた。

「そのファンの方はものすごく嬉しかったと思います。立華さんはとても心を込めて『ハッピーバースデー』を歌っていた。その歌を聞いて、僕の心につかえていたものがすぅっと取れたんです。立華さんの歌が僕の魂をぎゅっと握って、凝り固まっていた僕をほぐしてくれたんです。僕は――自分の誕生日が嫌いで祝ってもらったことがありません。僕の母は僕を生んで死んでしまった。僕の誕生日は母の命日です。誕生日を祝う気になんかなれなかった。でも、立華さんの『ハッピーバースデー』を聞いて、何だか母のかわりに立華さんが歌って祝ってくれているように感じたんです。母が自分の身を削ってまで生み出した命の日を僕は祝わうべきだ、でないと母が悲しんでしまう。立華さんの歌が僕の魂に大事なことを教えてくれたんです。僕は音の力を身にしみて知りました。音楽で魂を揺さぶることが出来たなら。そう思って『フィールド・オブ・サウンド』の曲を追いかけ、ギターも始めました。まさか、立華さんがいっくんの花屋に出入りしている花農家の人だなんて考えてもみなくて、こんな身近にいたのは驚きだったけど」

「実際、花農家なんだよ」

 立華は、オーバーオールの胸ポケットに両手をつっこんだ。

「静佳と僕は似たもの同士なんです。静佳は、不用意に言ってしまった言葉のせいで母親を死なせてしまったと自分を責め、言葉を失ってしまいました。でも、歌が、音楽が静佳と外の世界をつないでいた。僕も同じです。僕の存在は母の死の上に成り立っている。そのことで僕は積極的に外の世界に関われなかった。音にしか心を開けなかった。母がピアノの先生をしていた影響かもしれません。僕は音楽に、立華さんに救われた。それなら、静佳も立華さんに救ってもらえるかもしれない」

 梓は、額が膝につくんじゃないかというほど深く腰を折った。そして、まじりけのない思いをこめた言葉が立華にしみいっていくのを待った。

「そういうことなら、余計に君たちが歌わないとならない。そうだろう? 君たちの思いがこもった歌なんだから」

 立華は梓の肩をつかみ、顔をあげさせた。思わずこぼれた涙の滴を梓は手の甲でぬぐった。

「俺の言いたいことはわかるな?」と、立華が優しい声で言った。

 梓は鼻をすすりながら頷くしかなかった。

「私たち、歌ったんです。でも、静佳は口を動かしてくれるだけで……」と響が涙声で言った。

「あきらめるな。静佳が意識を取り戻すまで歌い続けるんだ。途中でやめるから成功していないんだ」

 立華が梓たちを鼓舞した。話しているだけでも立華の声は柔らかくて心地いい響きがするのだが、勇気づけられる言葉の言霊の音と立華の声音とがあわさると力が体の奥からみなぎってきた。これが立華の歌声ならもっと力強いのにと、歌ってはもらえないことを残念に思いながらも、立華の言う通り静佳を呼び戻すのは梓たちでしかないこともわかっていた。

「さあ、歌って。静佳が目を覚ますまで俺も一緒に聞いていてあげるから」

「ありがとうございます」

 気を取り直し、梓はギターを抱えた。いくよ、と響と鈴にめくばせする。爪の先がギターの弦を弾き、はじめの音が出る――


「いい歌を作るじゃないか!」

 立華がはしゃいだような声を出した。

「君たちで作ったんだな」

「作ったっていうか……」と梓は宙に目線をやった。「そこに響と鈴の思いと音と言葉があって、僕はひろっただけなんで、作ったというとおこがましいかも」

「いい歌だったよ。さ、もう一度」

 立華に促され、梓は再び弦に指を置いた。

 ギターの弦をつま弾いたのと同時に立華の歌声が聞こえてきた。思わず指が止まりそうになったのを、立華が目で「続けなさい」と言う。歌いかけて黙ってしまった響と鈴にむかっては「歌って」と言わんばかりに両手を下から上にふりあげていた。

 立華は楽しそうに歌っていた。笑顔で、歌声も笑っているようにさえ聞こえる。立華につられるように梓も響も鈴も歌いながら笑顔になっていた。

 歌うことで音になってしまった言葉が言葉の意味を取り戻していた。立華の声が音になった言葉に再び魂を吹き込んだのだ。そうして歌われる歌はただの音のつながりではなく、言葉同士が手をつないだ一つの大きなメッセージに姿を変える。

 いつしか梓は歌うのをやめていた。響も鈴も、口を半開きにしたままで立華の歌に聞き入っている。立華は目を閉じ、大切に歌を歌っていた。

 力強いながら柔らかな立華の声が周囲の空気をゆったりと震わせる。まるで岸に押し寄せる波のように立華の声は皮膚の表面を触れてはその下を流れる血に漣をたてた。生きるために流れるのとは違うリズムの血の流れはまるで何かを洗い流そうとするかのようだ。

 静佳の体も反応しているだろうかと梓は枕元に視線をやった。静佳の口が動いていた。声は出ていない。唇は言葉を刻んでいるのだが。

 口は動くのに――そう思った時だった。静佳の顔の周りに光るものが見えた。言霊の光かと梓は目を凝らした。

 それは静佳の頬を伝う涙の粒だった。かたく閉じられた静佳の目から涙があふれだしている。まるで静佳の中で凍っていた何かが溶かされたかのようだ。歌詞を刻んでいた口の動きもいまや激しい呼吸をしているかのような動きに変わり、ハァハァという息遣いも聞こえ始めた。

 梓はギターを弾く手を止めた。歌い続ける立華の声だけが病室に響きわたった。梓は静佳の枕元近くに寄っていった。

 まるで梓に気づいたかのように静佳がパチリと目を開けた。「静佳」と呼びかけようとした瞬間、静佳が大声をあげた。

 静佳は泣いていた。まるで生まれたばかりの赤ん坊のように声をあげて泣いている。

 鈴が真っ先に静佳に抱きついた。押しかかってくるかのような鈴の背に静佳の手が伸びてきた。

「静佳、静佳、静佳!」

 響が鈴の体ごと静佳を抱きしめた。三人は団子のようにくっついたまま、泣いていた。

「やあ、静佳」

 梓がそう言うと、響と鈴に抱きつかれた静佳が泣きながら笑った。赤ん坊のような無垢な笑顔だった。

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