1-5 黒板のひっかき傷

 教壇で体育委員の浜尾仁と静佳がもめていた。もめているといっても、静佳は口がきけないので身振り手振りだけ、浜尾だけが声を荒げ、一方的にまくしたてている。浜尾の声が大きくなっていくにつれ、静佳の手振りも大きくなっていった。

 スマホはどうしたのだろう。体操着から制服に着替えながら、梓は二人のやりとりに注目していた。浜尾の発言を拾い聞きしたところによると、どうやら静佳のスマホがなくなってしまったようだった。

 四時間目は体育だった。体育の授業の間、スマホや財布といった貴重品は職員室に預けておく。授業の始まる前に体育委員が貴重品を集めてひとつの袋にまとめて職員室にもっていき、授業が終わると体育委員が職員室から持ってかえってくる。梓の財布とスマホはすでに返してもらっていた。

「ないものはないんだよ」

 浜尾が空っぽになった貴重品袋をさかさまにして振ってみせていた。

「誰かが間違えて持っていったとかじゃねえの? おい、誰か、森川のスマホ、間違えて持っていってない?」

 教壇の上から浜尾が教室をぐるりと見渡して問いかけた。反応はない。「この問題の答えがわかる人?」と先生が教室中を見回した時と同じ反応だ。自主的な挙手を求めるとシンとなる。科目は関係ない。仕方なく先生は生徒を名指しするのだが、生徒たちはさされまいと首を亀のように制服に埋めておとなしくなってしまう。授業に積極的に関わりたくないのだ。

 浜尾の問いかけに対する反応のなさも同じだ。関わりたくないと誰もが思っている。

「俺のは自分のスマホだ」

 吉元潔が教壇に向かってスマホを掲げて見せた。背が高く、端正な顔立ちも手伝ってクラスの中で目立つ存在だ。母親が市会議員であるため、先生たちからは腫れ物に触るような扱いをされている。

「俺も」

 吉元に続いて松田幸二がスマホを掲げた。吉元、松田は浜尾と同じ中学の出身でいつも一緒に行動している。

「なあ、わかっただろ? 他のみんなにはちゃんと貴重品が返ってきているんだからさあ。どうして森川のスマホだけがないのか、俺にはわかんねえよ。まさか、俺がなくしたとでも疑っているのか? そもそもさ、スマホ、本当に預けたの? 自分で管理していたんじゃないの? あ! 預けるのを忘れていて、自分でなくしたってのに、俺がなくしたってことにしようとしてた? 自分でなくしたってなると親に怒られるから、俺のせいにしようとしてるんだ? まさかさ、俺が盗んだなんて思ってないよな?」

 それまでおとなしく聞いているだけだった静佳が、この時ばかりは首を激しく横に振った。

「みんなの前でスマホがなくなったって騒いでさ。まるで俺が盗んだみたいな言い方して、お前、サイテーだな」

「浜尾が盗んだなんて、森川はそんなことは言ってないだろ」

 我慢しきれずに梓は二人に割って入っていった。何を言われても静佳は言い返せない。スマホのアプリを利用しても口喧嘩ではかないっこないのに、そのスマホすらない今、静佳は浜尾に言われっぱなしのサンドバッグ状態だった。

 思いがけない加勢を得て静佳は喜んでいるのかと思いきや、なぜか涙目でいる。浜尾は、まるで自分が殴られでもしたかのように細い目をぱちくりさせていた。驚いていたのもつかの間、細い目をさらに細めて浜尾はにやりと笑った。

「そうだな、森川はそんなことは『言っていない』よな。口がきけないもんな」

 浜尾がひきつったような笑い声をたてた。つられるようにして何人かの笑い声があがった。吉元と松田だ。

「サイテーなのはどっちだよ? 森川が口がきけないってわかってるんだから、一方的に浜尾の考えを言ってそれがさも森川が言っているかのように言うのは卑怯だろ。森川は反論できないんだからさ」

「藤野が森川のかわりに反論するっていうのかよ」

「反論っていうか、体育委員として浜尾はきちんと森川に説明しなよ。なんで森川のスマホだけがなくなっているのかをさ」

「知るかよ。俺はみんなの貴重品を預かってちゃんと職員室にもっていったんだ。体育の授業中、貴重品袋は職員室に預けておいたぜ。嘘だと思うなら先生たちに聞いてみなって。授業が終わって職員室に貴重品袋を取りに行って、みんなに貴重品を返した。藤野のスマホだってちゃんと返ってきてるだろ?」

「別に、浜尾がどうかしたって言ってるんじゃないんだ。ただ、間違いは起こりうるんじゃないの」

「間違いって何だよ」

 浜尾は憮然とした表情を浮かべてみせた。身を守るかのように腕を組んでいる。

「間違いっていうか、事故っていうか。わざとじゃなくてもなくしてしまうってことはありうるんじゃないの? 貴重品袋に入れ忘れているのに気づかなかったとか」

「っていうかさ、さっきから何で俺がなくした前提で話してるのさ。森川が預け忘れた可能性もあるだろ?」

「それは……」

 絶対にあり得ないと言いかけた時だった。静佳が黒板の前に立った。

《僕の勘違いだ。スマホは今日は浜尾くんに預けなかったんだった》

 白墨で書きつけられたその文言を目にし、浜尾はふんと鼻を鳴らした。

「ほら、やっぱり、そんなことだろうと思った」

「本当に?」

 驚きを隠せない梓にむかって静佳がこくりとうなずいた。

「何だよ、藤野。本人がそう言うんだから間違いないだろ?」

 黒板と静佳の顔をと梓はかわるがわる見やった。聞き間違いなどは起こりえない。静佳の発言は文字として黒板に残されている。

「ったく、人をスマホ泥棒みたいな言い方しやがって。俺を疑ったこと、謝れよ」

 首筋まで真っ赤にしながら静佳は深々と頭を下げた。

「ちゃんと言葉で言えって」

 静佳が口に出しては言えないとわかっていて浜尾は静佳に謝罪を強制した。

 静佳はゆっくりと黒板に向かった。白墨を手にし、黒板に何かを書きつけ始めた。

《ごめん》

 黒板に書かれたその一言を目にするなり、浜尾は満足げな笑みを浮かべた。

「あー、泥棒扱いされて気分悪いわ」

 聞えよがしに言い捨て、浜尾は吉元たちと連れ立って教室を出ていった。とたんに廊下で大きな笑い声がたった。ペタペタという床をこするようなだらしない足音と共に笑い声は廊下の先へと消えていった。

 吉元たちを睨みつけながら見送っていた梓の背後で、静佳が黒板を消しにかかっていた。

 静佳は、黒板を削りかねない勢いで黒板消しを右に左に動かしている。角ばった書体で緊張感の漂う筆跡だった。「ごめん」の文字はひっかき傷のようにすら見える。とてもではないが、あの美しいカンパニュラの花を咲かせるような言霊がこもっているとは思えない。

 文字など一度も書かれたことがないというほどに黒板をきれいにするなり、静佳は教室を飛び出していった。梓は慌てて後を追った。

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