第1話 独白

 私は勇気を振り絞り、声を出した。


「えっと、そこの人……!」

「え、は、はい……?」


 普段人と会話をしないせいか、自分でも驚くほどの大声が出てしまった。


 私に声をかけられた女性は、私が知り合いではないと見るや否や怪訝な視線を送ってくる。 ……当然だ。 日本において、他人から急に声をかけられて喜ぶ人間などいない。


 見切り発車の行動だったので私がどうしようか迷っていると、秒数を追うごとに女性の視線は深く不快なものへと変貌していく。


 私はこの状況に耐えられず、


「あ、いや、申し訳ない、人違いだった……」


 そう言うしか無かった。


 女性は一瞬だけ私の全身を舐めるように見回すと、そのまま迷惑そうな表情を浮かべて何も言わずに歩き出した。


「あ……」


 行ってしまった。


 止めることができなかった。


 今のやりとりで稼げたのは精々十数秒程度。 それでも彼女のリミットは相変わらずで、私のなけなしの努力虚しく、終わりに向かって行ってしまった。


「やっぱり……変えられないよな」


 やはりうまくいかなかった。 というより、うまくいくイメージなどまるで無い。


 私は落胆しつつ、踵を返して元来た道を戻り始めた。


 数秒後──。


 やはりというかなんというか、背後から大きな破壊音が響いた。 続いて悲鳴や騒ぎ声が聞こえ、私の予想が現実のものに昇華されたことが分かった。


「何をやっているのだろう……」


 本当にそう思う。


 私は彼女を助けたかったのか。 それとも彼女の死の運命を高い位置から検証したかったのか。 自分の行動が理解できない。


 でも、これは仕方がないことだと思う。


 死にそうな人間を見かけたら、誰しも放って置けないはずだから。



          ▽



 ところで、私は死んでいたらしい。 その詳細を、私の母を名乗る人物が教えてくれた。


 その頃、私こと堅洲来未かたす くるみは都内の芸術大学に通う大学四年生で、その日もいつも通りの道をいつも通りの時間帯に歩いていた。 そんな中でいつも通りじゃなかったのは、暴走して私に向かい来る一台のトラックがあったこと。


 私は昔から鈍臭いと言われがちで実際にそうなのだが、その時において私はトラックを回避する選択をした。 そして当然のように私の足は絡まり、剰え何故か身体がトラックにぶつかる方向に倒れてしまった。 今思えば、動かなければトラックに轢かれることは無かったはずだ。 そんなことを思えるのも、今ここに私が生きていられるからだろうが。


 結果的に二桁トンもある物量は私を吹き飛ばし、その上で壁面に激突したそうだ。


 私が幸運だったのは、挟まれて潰されなかったこと。 不運だったのは、飛ばされた衝撃で頭部を激しく叩きつけられ、私の大脳が大きくダメージを負ったことだ。


 植物状態。 それが私の状態を示す病名であり、脳幹は生きているため生命活動に必要な機持されていたものの、意識は全く存在しなかった。


 ところで、テレビなどを見ていると脳死という言葉を誤用している場面が多々ある。 脳死とは脳死移植を行うためにのみ用いられる状態定義であり、数々の複雑な条件を突破して初めて患者は脳死と判断され、そう判断されることでようやく臓器の取り出しが可能になるというもの。 だからドラマの病室か何かで脳死とか言っているのを見ると、こいつらは知識も無くドラマを作ってるんだなと私は思ってしまう。


 知識をひけらかすのはこれくらいにしておこう。


 植物状態になる直前、私の鼓動は動きを止めていた。 しかし偶然近くに居合わせた医学生の迅速な救命措置のおかげで、私は死という最悪の結果を免れることができた。 それでも植物状態の私というものは、家族にとっては死んだも同然だったらしい。


 人間が生きるためにはコストが掛かる。 植物状態の私にしてみても医療費という莫大なコストが生じていたわけで、裕福ではなかった私の家庭にとって私を現世に維持する費用は馬鹿にならないものだった。 トラックの運転手からの賠償金もあったらしいが、その辺りの話は詳しく教えてもらっていない。


 そうこうしているうちに四年という月日が流れ、ついぞ家族の誰もが私を諦め始めた。 その頃の家庭内では、すでに私を終わらせる心の準備が行われていたらしい。 父も母も、そして妹も、未練が無くなったというか、私への気持ちが薄れたのだろう。 そうして最後の判断が下される時になって、私は目覚めた──目覚めてしまった。


 私に関わる全てのイベントが終わる間際になって私が奇跡的な生還を果たしたことで、私は生きるためのコストを要した。 具体的には、リハビリとそれを続けるための入院費用。 長期的に臥床していたことで私の筋力は赤子程度まで低下しており、一般的な成人レベルまでに戻すのに莫大な労力と時間を消費した。 そして当然、医療費も。


 これは憶測だが、家族は私の復活を歓迎していなかったと思う。 予定をドタキャンされたような、直前での予定変更は得てして鬱陶しいものだ。 ここまでの気持ちを返してほしいとか、医療費を返してほしいとか、言葉にせずともそんな意図は馬鹿な私でもやんわりと読み取れた。


 一方で、医者は私の復活を見て奇跡だと喜んだ。 学会発表してもいいかと言われ、私は二つ返事で了解をした。 それはなぜか。 私が生きている理由が欲しかったからだ。 そうやってどこかで私の資料が使われることで、私の人生に意味を見出して欲しかったのだろう。


 そういう経緯もあって、家族の「諦めかけていた頃に」という発言はそのまま、「どうして諦めさせてくれなかったんだ」と変換された。


 ここで問題が一つ。 復活した私には事故以前の記憶が無かった。 名前もこれまでの人生も、全て他人──母や元友人から伝え聞いたものだ。 たとえそれが嘘で塗り固められたものだったとしても、私が記憶を取り戻さない限りは証明のしようの無いものだ。


 入院期間中、何人かの友人が訪ねてきた。 しかしどんな話を聞かされても、どんな写真を見せられても、私の記憶が呼び戻されることはなかった。 家族にしてみても頑張って私に話しかけてくれていたが、全ての行動が意味を成さなかった。 加えて彼らは元々私への興味を失っていたため、友人同様に私の元へは寄り付かなくなった。 記憶の無い私からすると、家族だと言われても全て他人にしか思えず、そんな態度が彼らを遠ざけた要因なのだろうと思う。


 リハビリは約半年も続けられた。


 病院には私以外にも様々な疾患によってリハビリを強いられている人たちがいた。 彼らは皆一様にリハビリの辛さを語っていたわけだが、リハビリ開始当初の私には理解の出来ない内容だった。 こんなもの、どうせすぐ退院できるだろう。 私は、そう高を括っていた。


 結果、私は泣いた。 リハビリが嫌すぎて逃げ出そうとしたり、リハビリのことを考えるだけで吐瀉物を撒き散らしさえした。


 理学療法士や作業療法士の連中が悪魔に見えた。 一日に一度しか来ない医者も頑張れとしか言わない。 看護師も事務的に私の周囲の世話だけやって、あとは若い研修医やイケメンの医者と和気藹々としていた。 私はそれらへの憎しみだけを糧にリハビリを耐え抜いた。 誰にも頼ることができないというのもあったし、こんな地獄から早く抜け出したい一心で私は人間に戻った。


 退院を果たしたとはいえ、私には居場所もやるべきことも無かった。 一応実家という場所に戻ることにはしたが、それは家族にとっても私にとっても居心地の悪いものだった。


 四年間の不在によって当然私は大学を退学扱いにされており、記憶もないことから行く宛もなく、かといって自分の記憶を取り戻したいとさえ思わなかった。 それでも生きるにはコストが掛かり、他人としか思えない家族に頼ることも申し訳なかったため、一人暮らしをすることを決意した。


 とりあえずスーパーのバイトから始めて、慣れてきたらコンビニの夜のバイトもした。 数ヶ月もすると、ある程度収入の水準が見えてきたため、そこでようやく居心地の悪い実家とはオサラバできた。


「ふぅ……」


 一人静かなワンルーム。 ここが私の安息の地であり、できれば一生引き篭もっていたいとさえ思う。 しかし収入がなければここに居座る権利すら失うので、嫌々ながら日々のタスクをこなす。


 部屋を一歩出れば、そこはストレスの温床だ。 同僚との会話も、客に対する定型文も、そして道行く人間も……全てが私を苛んでくる。


 ただ単に他人と接するだけなら良い。 しかし私にはが見えてしまっている。 あれのせいで私は内心考えることが多くなり、それが私の脳のキャパシティを埋めて日常生活を困難なものにしてしまう。


 正直、余計な能力を得たものだと思う。 当然それが幸せなはずもなく、むしろ迷惑だ。 特異な能力も、発揮できる場が無ければ負担にしかならないのだから。


 は全ての人間に備わっていて、全てに繋がっている。


 植物状態の中……いや、心臓が停止していた間かも知れないが、私は奇妙な景色を目にしてしまっている。 それは夢だったのかも知れないし、あの世の風景だったのかも知れない。 しかしそこに三途の川らしきものはなかった。 もしかしたらあの大きな湖がそうだったのかも知れないが、どう考えてもそれを川と表現するには無理があった。


 指示語ばかりで申し訳ない。 私自身、あれをどう表現すべきか分からないのだ。 ただ言えることは、そこは白色で充溢した神秘的な場所であり、巨大な樹木と大きな湖が存在するだけの簡素な場所だったということだ。 しかしその規模は到底私一人で踏破できるようなものではなく、樹木の頂上も遥か上空ではっきりとは確認できなかった。


 ──ガタリ。


 ボイスレコーダーが机に置かれた。 置いたのはもちろん私。


「これは私、堅州来未という奇妙な女の独白だ。 今この時、誰かに聞いて貰いたい訳ではない。 だけど、後世に何か役に立つかもしれないと考えて、ここに私の見たものや行動を言葉として残す。 私だって、いつあれに回収されるか分からないのだから」


 記憶の無い私は、自分が何者かなんてことは分からない。 だからこうやって何かを残すことで、私を私だと客観的に定義づける証拠を作り出したいのかもしれない。

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