第43話:伝わる、気付く。


 小さく深呼吸をした。

 この話、やめよう。そう言いたかった。


 だって何か流れがおかしい。ハッキリとそれを伝えられたわけではないのに、雰囲気を感じてしまっている。


 嫌だ、この感じ。だけどやめさせることなど出来ない。

 だって涙が麗華の頬を滑り落ちたんだ。


「優しいのは誰にでもとか、放っておけないたちなんだとか、言ってしまった。でもそれ全部、自分に返ってくるのよ……」


 弱々しい声が紡ぐ言葉を、どう止められる。


「私は一番近いとこでずっと見てきたから、だから知ってるの。千早が今までまともに好きな人がいなかったことも、――私のこと面倒なくせに放り出さないのも」


 聞き逃すわけがない。麗華は確かに千早と言った。

 いや、名前を出さなかったとしても、そんなことあるわけないとは、もう否定できなかった。


 いつも凛としている体が微かに震えている。

 

「だから分かるの。千早の目が、違うって。あんなの見たことない、水城さんにしか向けてない」


 掴まれた服はほんの少しなのに、震えが伝わってくる。

 おいおい、また目だってよ。俺は一体どんな目でアイツを見てるわけ。


「水城さんに言われたの、想うだけなら誰でも出来るって」

「……」

「正直腹立たしかった。何を知った風なことをって思った。……でもその通りなの、私は動いてないもの。いつかその時が来るなんて考えてたから」


 心臓は激しく動いているし、自分の表情筋がどうなっているのかは分からない。心は穏やかでない。

 なのにやけに冷静な部分もあって。

 あぁアイツは、瑠奈は、麗華を応援してんだなって思った。


「……千早」


 麗華は俺の胸に頭を寄せた。サラサラの黒髪が視界を埋める。

 肩が震えてる。コイツ、こんなに小さかったっけ。


「……麗華?」


 胸から頭を離してゆっくりとあがる麗華の顔が俺の目の前に迫って、思わず体を退いた。

 なのにぐぐっと近付いてくる顔、じっとその目が俺の目を見つめるから、体が動けなくなった。金縛りの経験はないけど、こんな感じなのだろうか。


「ちょ、近くね……」


 麗華の鼻先が顎を掠めるから、ポンポンと肩を叩いて距離を改めて取った。思わず作った笑みは、多分引きつっていると思う。


「……嫌?」

「は、何が……」


 涙はどこへいったんだ、すっかり乾いたその目は相変わらず揺れていたけど、さっきまでとは様子が違う。何か、強い決意? のようなものが。


「私とは出来ない?」

「いや、だから、何言ってんの」


 尚もグイグイ来ちゃう麗華の肩を軽く押さえながら苦笑が漏れる。

 いやほんと、何でコイツは迫ってきてんの。これアレよね、チューしてこようとしてるよね。


 瑠奈の時に感じた空気とは違う。自然ではなく作られたもの。こんな言い方はどうかと思うが、明らかに狙われてる空気だ。


「そういうのはお付き合いしてる者同士のやることですよ。ほら、お前ルール好きだろ、違反しようとしてっから」

「でも千鳥が」

「……千鳥?」

「千早は顔近付ければやっちゃうって」

「はっ?」

「き、既成事実作っちゃえばって」

「いつ言われたんだよ」

「中学……」


 アイツ、次帰ってきたら絶対家に入れねぇ。中学生に何吹き込んでんだ、何だやっちゃうって、馬鹿か。

 つか中学って、その頃から……なのか? いや、今は置いておこう。


「そりゃ空気に呑まれる可能性はあるけど、俺にも理性はあるから。千鳥の言うこと全て正しいと思うな」


 空気ってのは恐ろしいんだ。思ってもいないようなことを言ったりするしやってしまうことがある。現に俺は瑠奈に――


「……千早?」

「……」

「何考えてるの? 今は私のこと見てほし」

「ごめん」


 違う、あれは流されてない。

 確かに空気はあったよ、分かったよ、それにのった部分はあった。

 だけど違う。俺は瑠奈に触れたいと思った。


 軽く押さえていた手に力が入る。麗華の肩がぴくとあがった。


「……麗華」


 さっきから気付かないフリをしていたことがある。例えば目の前にあった麗華の黒髪を見ている時、俺の頭に浮かんだのは誰だった。

 触れてしまう距離に麗華の顔が来ているのに、そんな状況の中で浮かんだ顔は誰だった。


 本来なら冷静でいられない筈だ。だってあの麗華が、小さい頃から一緒にいた幼馴染が、今まで見せたことのない顔をして距離を詰めてきて。

 分かり易い言葉は出てきてはいないけど、そういうことなわけだ。さすがに俺だって分かるよ。見ないことは出来ない。


 本当なら麗華のことで頭がいっぱいになる筈だ。俺の中に誰もいないのなら、戸惑いながらも麗華のことしか考えられない筈だ。


 そう、俺の中に誰もいないのなら。


「ごめん、俺――」

「私!」


 を伝えられたわけでもないが謝罪の言葉が口から出れば、麗華はそれを遮ってバッと立ち上がった。


「か、帰るわ……」

「麗華」


 ソファから離れると床に置かれていたコートを掴んで、足早にリビングを出て行く。パタパタと足音が遠くなるのが聞こえて、遅れて追いかけた。


「麗華」

「私、まだ言ってない」

「……」

「なのに何を謝るの?」


 そうだね、とは言えない。だってお前の気持ちを俺は感じてしまった。

 その上でお前がしようとしたことを拒絶した。


「お願い、何も言わないで」

「……」

「……お願いだから、千早」


 玄関のドアノブを握る麗華は、もう俺を真っ直ぐ見なかった。


「まだ私、何も頑張ってないから……」

「……」

「さっきのことは、あの、忘れて、欲しい」


 そんなに震えた声を出すなよ。何も言えなくなるだろ。


「――じゃあ、また明日」


 結局、俺は何の言葉も発せなかった。

 バタンと重たい音を響かせてドアは閉められた。


 壁に体を預けてその場にしゃがんだ。膝に顔を埋めれば真っ暗だった。

 何で俺はこんな状況になるまで気付かなかったんだ。せめて自分の気持ちくらい、もっと早く。

 そうしたらこんなことにはならなかったのかもしれないのに。



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