雨音に想う

維 黎

雨降りの日に

 開閉を知らせる静やかな鈴の音。


 コロン、コロン――と。


 「――いらっしゃいませ」


 カウンターから低く落ち着きのある声で出迎えるのは、糊の効いたパリッとした白のシャツに黒のフォーマルベスト、首元には同じく黒の蝶ネクタイ。

 いかにも喫茶店のマスター然とした装いの初老の域に差し掛かっている男性。

 入店してきたのは、格子チェック柄のシャツにライトブラウンのスラックスを穿いた同年代と思われる男性客。 


 互いにそれとなくわずかながら会釈を交わすと、男性客は無言のままさも当然のように、日当たりが良いだろう窓際にある向かい掛けのテーブル席へと歩みを進める。

 残念ながら生憎の空模様で空はどんよりと曇り、トツトツと雨粒が窓を叩く。

 

 男性客が落ち着いた様子を見計らってマスター自身が席まで身を運ぶ。

 小さな店だ。ウェイターは雇っていないのだろう。


「――まったく、今年もだよ。雨を呼んでいるのは私なのか彼女なのか」


 しかしながら愚痴ともとれるその言葉を紡ぐ口元には笑みが浮かんでいる。

 対してマスターは一度だけ深く目を閉じてその返礼とした。


「ダージリンとオリジナルブレンドを」

「――かしこまりました」


 うやうやしくうけたまわった注文を控える様子を見せないその様から、見知った常連であることが窺える。

 しばらくして。


「――お待たせしました」


 コトリ、コトリと。

 ソーサーに載ったカップが二つ、テーブルに置かれるが不思議と茶器の音は鳴らなかった。

 男性客の前にはティーカップ。

 向かいの席にはコーヒーカップ。


「どうぞ、ごゆっくり」

「嗚呼、この香り。


 男性客の満足そうな声を聞き、マスターは席を離れカウンターへと戻る。




 マスターと男性客以外誰もいない静謐せいひつ店内くうかん

 そこに少々不釣り合いな電子音が響く。


「――もしもし? ……何ッ! 産まれたのか!? 予定日よりはや――いや、そんなことはどうでもいいな。めでたいな! うんうん。めでたい、めでたい! ――ん? そうか、わかった。ワシもすぐ病院へ行こう。……うむ……うむ。わかった。では病院でな」


 慌ただしく電話を切った男性客は席を立つと、足早に店の出入り口へと向かう。入店して僅か10分足らずのことだ。


「すまんがマスター、急用ができた。来て早々だがおいとまさせてもらうよ」

「畏まりました」

「ワシに孫が――孫が出来たんだ」

「それはおめでとうございます」


 破顔する男性客に祝福の言葉を贈る。


「慌ただしくしてすまんな。来年もよろしく頼む。ワシは先に行くが――彼女はもう少しゆっくりさせてやってくれんか?」


 二人分の会計をレジで済ませたあと、男性客は先ほどまで座っていた席をチラリと一瞥する。

 すべて心得ているとばかりに一つ頷くマスター。


「――安物で恐縮ですがどうぞ、傘を一本お使いください」


 扉付近に置いてある傘立ての数本のビニール傘を見やって、マスターがそう声をかける。


「おぉ、すまんな。使わせてもらうよ」


 男性客は入店したときより強めに扉を開けると、傘を手に雨降りしきる街中へと駆けて行った。


コロンコロン、コロン。


「――ありがとうございました」


 慌ただしく退店した男性客を見送ったマスターは、先ほどまで彼が座っていたテーブル席へ行くと、空になったティーカップを手にする。

 向かいの席には満たされたコーヒーカップが一客。

 マスターは心持ち顎を下げ、黙とうするかのようにしばらく目を閉じると。


「――どうぞ、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」


 恭しく一礼し、そっとその場を離れた。



 外は変わらずの雨。



                ――了――

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雨音に想う 維 黎 @yuirei

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