二日目


 早朝に目を覚ましたのは、苦しいくらいの空腹感と、強烈な喉の渇きによってだった。昨日は手を握って横になっているだけで一日が過ぎたから、当然ながら何もしてないし何も口に入れていない。


「……ち゛づ゛る゛」


「うぉっ」


 あり得ないぐらいガサガサな声が出た。


「どした、ゾンビにでもなった?」


「み゛ず゛……の゛ん゛で゛、く゛る゛……」


「あ、うん」


 一声かけて立ち上がり、思った以上にふらつきながら、千蔓の触手を放そうとして。


「……あの、ごめん……」


 離れなかった。

 千蔓の方から、腕に絡めるようにして、離してくれなかった。


「何か、体が勝手に……や、気持ちの面も、気持ちが勝手にみたいなところもあるんだけど、違くて、あの……」


「ん゛」


 大丈夫と伝えたかったけれど、唾も湧かない今の私では、短く濁った返事しかできない。その分右手で、もう一度千蔓の細い手を握り直して。軽く引っ張るように、台所の方へ。


「ごめん……ありがと……」


「ん゛」


 糸こんにゃくを器用に蠢かせながら、千蔓は床を、こう……もにょにょにょにょにょ……みたいな動きで付いてくる。本人は申し訳なさそうにしているけど、私としてはよろめく体を支えて貰っている気分だったし、なにより千蔓に必要とされて嬉しくないはずがなかった。


 右手は千蔓に預けたまま。左手だけで冷蔵庫を開けて、2リットルペットのお茶を取り出し、扉閉めて、脇で挟んで、開栓。


「――んはぁっ」


 がぶがぶ飲んで、喉を潤す。水量でガサガサ感を無理矢理洗い流すような、多分、体に悪い飲み方。


「……人間に戻った」


「まさか、茶葉にゾンビウィルスの抗体が……?」


 状況的にかなり際どいジョークにも乗ってくれる。千蔓の心も昨日よりは落ち着いてきてるみたいだった。あくまで比較して、ではあるけども。


 相変わらず空腹で胃が捻じれるような苦しさを感じるけれど、それはもう少しだけ我慢して、一気に半分ほど減らしたペットボトルを斜め下に差し出してみる。


「千蔓も、えっと……飲む?」


「……確かにあたしも、何か喉乾いてる……気がする」


「のど……」


「あー、皆まで言うな。あたしにも分からん」


 そう言いながらもいくつかの糸こんにゃくたちが伸びてきて、私の手からペットボトルを持っていった。


「んー……」


「飲めるの?」


 差し出しておいてなんだけど、聞かずにはいられない。


「こう、かなぁ……」


 いかにも首を捻っていそうな声音。それと同時に千蔓はペットボトルの飲み口から糸こんにゃくを数本、ゆっくりと忍び込ませるように差し入れて、先端をお茶の水面に浸した。心とは裏腹に、仕草に迷いはない。まるで、本能的にこうするべきだと分かってるようだった。


「おっ、おぉ、おおぉ~……」


 次いで聞こえてきたのは、驚きと納得が混合した声。

 そして少しずつ、だけど私の目にも分かるほど明らかに、かさを減らしていく緑茶。


 どうやら怪獣イトコンチャクは、糸こんにゃくの先端から水分を摂取するらしい。


 やがて、残りのお茶を全て飲み干した千蔓は、空っぽになったペットボトルから糸こんにゃくたちを引き抜いた。てらてらと僅かに濡れるその先端に、人間だった頃の唇を幻視する。


「……どう?」


「……残念ながら、触手ウィルスには効果がないみたい」


「触手?」


 身体を張ったボケは、悲しいかな私の耳には引っかからなかった。それよりも、触手ってワードが気になってしまったから。


「こういう……なんて言えばいいんだろ、ほら、この、こういうの。イカとかタコの足とかも、触手って呼んだりするじゃん?」


「そうなんだ」


「そうなんだよ」


 言われてみれば、そんな呼称もあった気がする。触手、触腕。私が糸こんにゃくだとかイソギンチャクだとか呼んでいたこれは、千蔓的には「触手」がしっくりくるらしい。


「じゃあ、触手怪獣イトコンチャクだね」


「う、うぉぉ……」


 渋い声で唸られた。

 やっぱりお気に召さないようだ。


ただ正直、そろそろ良い加減はっきりさせたいことがあったから、名前については一旦捨て置く。


「ていうか千蔓。目と耳と鼻と、あと口……発声器官?はどこにあるの?」


「……逆にそれ、丸一日以上聞かずにいられたの凄いわ」


昨日はそれどころではなかったし。今日は自虐ネタが言えるくらいには大丈夫そうだから、流石にこれくらいは聞いておきたかった。感覚的にでも、本人が分かることだろうから。


 そう伝えれば千蔓も、納得げに糸こんにゃく――触手を揺らしてくれた。


「多分ねぇ……この、触手が生えてる根っこのところかなって」


「うわっ」


 この、と言って突き出されたのは、触手の中心部分?とでも呼ぶべき部位。無数の触手のせいで糸こんにゃくのように見えていたけど、それらを解いてかき分けていくと、全体像はむしろウニとかその辺りに近く感じられた。球状の中心部分から360度びっしりと、細長い触手が伸びているようなシルエット。


 千蔓曰くそこに目、耳、鼻、声帯らしきものが集中しているっぽい……とのことだったけれども。


「……ごめん、丸こんにゃくにしか見えない」


「正直あたしも。でも見えるもんは見えるし、聞こえるもんは聞こえるし、喋れるもんは喋れるんだから。しゃーない」


「……そっか。にしても、触手に埋もれてて見えにくそうだし聞こえにくそうだけど」


「そこは何か、自分の触手は被ってても邪魔に感じないっていうか。何となくその向こう側が感じ取れるっていうか」


 人間には今一つピンとこないことを言われてしまった。

 とにかく、何となくというフレーズが出てきた時点で、これ以上具体的にどこがどうだとか考えるのは難しいのだろう。


「まあでも、会話ができるのは幸い、って言って良いものかな」


「第一発見者が逸束だったのもね……とはいえ、これじゃ外には絶っっ対出られないわねぇ」


 いつ、どうやったら元に戻ることができるのか、そもそも元に戻れるのか――それが分からない現状、千蔓の嘆きはとても大きなもので。声に出して言ってしまったことで、再び恐怖と不安が彼女の心を揺さぶりだしたのが、その身体の蠢きから感じ取れた。


「家族にも、学校の知り合いにも会えない……このまま、誰にも会えないのかな」


 か細く、消えてしまいそうな声量だった。僅かな声の震えが伝播するように、千蔓の触手からだ全体がぞわぞわと揺れ惑う。昨日の朝と同じような光景に、気付けば口を開いていた。右手はずっと、彼女の手を握ったまま。


「……私には、いつだって会えるよ。ううん、いつだって一緒にいる」


 ぴたりと静まった触手たちが、一斉にその先端を私に向ける。本人は気付いているのかいないのか、まるで真意を窺うように。


「元に戻るまで、ずっとここにいても良いよ」


 戻れる保証なんてない。そうと分かっていて、口にするのに躊躇いはなかった。


「……あたし、怖くない?」


「全然。むしろちょっと可愛く見えてきた」


 千蔓なのだから、可愛くないはずがない。


 ずっと好きだった幼馴染がこんな化け物の姿になって、それでも心は怯えずにいられた理由が分かった。千蔓が声に出して言ったことで、気付かされた。


 化け物になっても好きな気持ちは変わらないから……ではない。


 化け物になったことで、私が彼女を独占できるようになったからだ。

 状況に、自分自身にすら怯える千蔓を見て、こんな彼女を受け入れられるのは私しかいないと、そう思ってしまったからだ。


 自覚した自分の汚い部分を、曝け出すことはできないけれど。

 それでも、綺麗にラッピングして差し出せば、千蔓を笑顔にしてあげられる。


 握っていた彼女の手がしゅるりと優しく、私の腕を撫でた。


「ね」


「うん?」


「昨日、逸束の家で飲んでて正解だった」


「そうかな。逆でも多分、同じだったと思うよ」


 私も千蔓も、大学進学以降は独り暮らしで、だけど互いの部屋は結構近い所にある。


 よく、これじゃルームシェアした方が良かったかもねーなんて笑われたものだけど。私が勝手に付いて行っただけなんだから、そんなことをする度胸なんてあるはずもなく。精々が、週末にどっちかの家で寝落ちるまで飲む。それくらいの距離感。

 だけどそれが、ある種の不条理に壊されて。いつまでかは分からないけど、とにかく千蔓と同棲することになった今、嬉しいという気持ちが確かにある。

 見た目はイトコンチャクだけど。気にならない訳はないけど。でも、嬉しさの方が勝ってしまう。そんな、とても千蔓には言えない気持ちが。心の中に。


「そうじゃなくて。逸束と二人で良かったってこと」


「……そう」


「そう」


 そういうことを言われると、零れてしまいそうになるけど。どうにか、胃の苦しさに意識を向けて誤魔化した。


「……流石に、そろそろお腹が限界かも」


「なに、照れてるの?」


「照れてない。私は触手怪獣と違って、一日何も食べずにいるとお腹が空くの」


「なにおう、あたしだってお腹くらい……空いてないわね、あんまり。いや、全然?」


 結局二日目に分かったのは、イトコンチャクは水分摂取だけで飢えを満たせるということくらいだった。

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