鶴、お貸しします

ひゐ(宵々屋)

紛れもなく鶴

「『鶴』のレンタルサービス始めました……ねぇ」


 そういえば、雑草むしりにヤギをレンタルする、なんてことがあるんだっけ。

 朝、出勤五分前。郵便受けに入っていたチラシを、シゲオは怪しげに見つめていた。まだ乱れているネクタイを整えながら、チラシに綴られた文章を、なんとなく目で追う。


「ここ山のあるような田舎じゃねぇし、なんでアパートの一室に入れたんだよ」


 都会で働くシゲオの家は、都会の隅に存在していた。狭いワンルームなんかではない。せめて部屋は二つ、ベランダもほしい、けれども家賃は抑えてと、なんとか都会の中で見つけだした部屋だった。憧れの上京。理想の一人暮らし。しかし朝早くから夜遅くまで働かされ、時に土日にも出勤を求められる日々に、城となるはずだった住処は、有象無象に混沌としてしまっていた。いまでは自分が歩く場所、座る場所、寝る場所だけ、空間ができている。冬でも漆黒の虫を見ることがある。冷蔵庫に入れた食べ物の消費期限もとっくに忘れ、そもそも存在すらも憶えていない。シゲオの頭の中にあるのは、すぐに怒鳴り、時に暴力で脅してくる上司や、理不尽なクレームをつけてくる顧客のことばかりだった。


 チラシには『いまなら七日間無料!』の文字が、得も言われないフォントで踊っていた。


「いやこんなところで七日も鶴借りてどうすんだよ。もふもふさせくれんのか? つうか鶴って何すんだよ」


 栄養ドリンクの蓋を捻り、中身を一気に飲み干す。そして生み出されたゴミは、空き瓶回収のコンテナに入ることなく、シゲオの部屋の混沌に投げ込まれた。


「もふもふさせてくれんのなら、タダだし借りてみてぇわ、癒しが足りてねぇんだよこっちは――」


 そう、靴を履いた時に、物音がした。混沌の向こう、更にガラスの向こう、いまはほとんど行けないベランダで。大きな羽ばたきの音が。

 朝日に満ちたベランダに、巨大な影がすっくと立っていた。こんこん、と窓ガラスを叩く。

 シゲオは目を疑った。その影はまさしく、大きな鳥の姿をしていた。影は再び窓をつつく。


 疲れすぎて幻覚を見ているのだと、最初は思った。そしてもし本当に幻覚だったのなら、医者に行き「免罪符」を手に入れられるのではないかと考え、有象無象の海を泳ぎ進んだ。まさに藁にもすがるような気持ちで、けれども裏に「いや診断書もらってもあのクソ会社じゃ無理だろ」と溜息を吐く自分がいる。

 掃き出し窓を開ける。以前に開けたのはいつだっただろうか。こもっていた臭いが流れ出す。入れ違うように、巨大な影が、恐怖を覚えさせるほどの羽ばたきを響かせ、部屋の中に飛び込んでくる。


「―――――うわっ! 鶴っ?」


 シゲオは腰を抜かし、自らが作り上げたごみの山の中に倒れ込んだ。

 間違いなく、それは鶴だった。漆で塗ったかのような足。ふわりとした白。きりりとした黒と、眩しい赤の頭。輪郭を作る羽毛が、ベランダからの光にぼんやりと輝いていた。

 けれども、大きな鳥というものは、目の前にすると恐ろしいものであった。ぎらついた瞳は、まるで獲物を狙うかのようにシゲオを捉えていたのである。細身ではあったものの、翼を広げれば、自分よりもはるかに巨大な生き物が現れる。


 シゲオは部屋を飛び出した。再び部屋を確認してみるべきか、誰かに連絡するべきか考えたが、全ての思考を押し潰したのは、怒鳴り散らす上司の姿だった。

 何も見ていなかったことにして、会社へ向かう。けれど、無意識のうちに、鞄にあのチラシをねじ込んでいた。



 * * *



 結局その日は朝から上司に怒鳴られ、昼も怒鳴られ、夜にも怒鳴られながら仕事を押しつけられた。終電には間に合わず、タクシーを使うはめになった。家の前で降りて、思い出したのは、夕飯を買っていないことだった。もういっそ飯抜きでもいいか、食欲もないし、と部屋の扉を開けたところで。


「――すみません、間違えましたぁ!」


 綺麗な部屋があったものだから、慌てて扉を閉じた。だが考えてみる。今この扉は自分の持っていた鍵で開いた。表札をみれば「本庄」、己の名前が刻まれている。


 そういえば、今朝、鶴が部屋に。部屋が綺麗に見えたのも幻覚か。

 ところが、扉を開けた先にあるのは、やはり綺麗な部屋だった。玄関で立ち尽くす。足下を見れば、懐かしい靴があった。かつて学生時代に奮発して買った、ブランドものの靴。

 玄関の明かりの下、家族の写真が飾られていた。これが意味するは、ここが間違いなく自分の部屋であること。恐る恐る進み入れば、埃一つない部屋があって、あるもの全てに見覚えがあった。一人暮らしをするからと、厳選に厳選を重ねて選んだ家具。電池が切れてからそのままにしてあったはずの時計が、かちこちと時を刻んでいる。汚れ一つない絨毯を踏みしめれば、上京した初日の、美しい記憶がよみがえる。光と希望に溢れていた頃だった――。


 鶴。

 そして鶴。

 紛れもなく鶴。


「うわぁぁあっ!」


 シゲオは叫ぶあまり、新品と見まがうほどのソファーに座り込んでしまった。

 今朝の来訪者が、テレビの横にいたのである。一本足で立ち、長い首を伸ばし、じっとシゲオを見つめている。鳥というのは、正面から見ると未知の生き物にも見えてくる。

 今度こそ、警察か管理会社に、とシゲオは急いでスマホを取り出したものの、鶴は特に何もしてくることなく、頭を羽毛に埋もれさせれば、ボールのようになってしまった。


「……何? 何?」


 魔法のように綺麗になった部屋に、謎の鶴。


 ――「家事代行」という文字が、シゲオの頭の中で揺らめいた。

 どこで見たのか思い出して、鞄の中からくしゃくしゃになった紙を取り出す。それは今朝郵便受けに入っていた、あのチラシだった。


『鶴のレンタルサービス始めました! 鶴があなたの生活を豊かにします! お部屋のお掃除、お食事作り、全部鶴にお任せ! 優秀な家事代行です!』


 鶴は丸まったまま、動かない。もしかしてと思い、そろそろとシゲオがキッチンに向かえば――いくつかの料理が、ラップされた状態で置かれていた。

 冷蔵庫を開ければ、タッパーに入った見知らぬ料理も、いくつか。

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