錆ついた翼

衞藤萬里

錆びついた翼

 最悪の気分で眼が覚めたのは、いつものことだ。

 特に今夜の出勤は休みで、昨夜は明け方近くまで呑み、始電で帰ってきた翌朝――それを翌朝と呼べるのかどうかは、疑問だが――なんか、世界がとてつもない悪意をもってのしかかってくるような、そんな気分にさせられる。

 我慢できない吐き気にトイレに駆けこむと、あたしは昨夜――いや今朝か?――胃に入れたアルコールと食べたものと胃液を、吐きだした。

 胃を裏返しに引きつるような、この感覚。個室にすえた胃液の匂いが充満する。

 これもほぼ毎朝のことだ。あたしは何度こんな朝を迎えたろう。

 トイレの床にへたりこみ、便器をかかえこむように荒く息をつく。胃がけいれんして、何度もえずきがこみあげてきて、そのたびにもう胃液しか出ない嘔吐を繰りかえした。

 変な色彩にかすむ視界の端に、あたしの髪の毛が揺れていた。

 くそっ、また毛先が荒れてる。それに汚れたトイレの床。それがまた、気分を不快にさせる。

 ずいぶんたって、ようやく気分がましになった。立ちあがると、まだ脚はふらつき、眼もかすむ。

 トイレから出て、異臭のする流しの蛇口に直接口をつけて、水を飲む。そしてこれもやはりすえた匂いのする万年床に転がった。

 部屋の床にはありとあらゆるもの、タオルだの下着だの、いつ着たのかも憶いだせない服、ビール、酎ハイ、ハイボールといったあらゆるアルコールの空き缶、こいつらにはたばこの吸い殻がつめこまれ、変なにおいだった。そして酒と焼酎とワインといったあらゆるアルコールの空き瓶、半端に口を開いたスナック菓子、コンビニで買ったんだろう洗っていないやきとりや餃子のトレイ。つぶれたティッシュの箱、メイク道具、マニュキアと除光液、そしてなぜかブーツの片方やら。

 とにかく、ありとあらゆるものが、無秩序であること最優先に部屋中に飛び散っていて、何も踏まずに歩くことなんてできない。きれいなものなど、何もない。汚れたままのこいつらが、競うように異臭を放っている。

 最後に掃除したのはいつだったか、まるで記憶にない。

 あたしはひどくいやな気分になった。

 何年か前にはまるで気にならなかったこういった生活が、最近はひどく疲れるようになった。不条理な、何かとても割に合わないような、世の中あたしに対して不公平なような……そんな気分だ。でも一体何でか、よくわからない。

 わかっちゃいる。わかっちゃいるけど……毎晩仕事が終わった後、正気をなくすぐらい呑まないと、ひどく重っ苦しい何かが、あたしを押しつぶしてしまうんだ。

 だから呑なきゃならない。

 あたしは枕元の煙草を口にくわえ、火をつけた。

 まるで身体中に、だらしなさを容認してくれるこの上ない寛容な何かが行きわたるようだった。

 ようやく、まともな気分に近づけた気分だった。


 テレビからは、どこかの港町でお笑い芸人が、山盛りの海鮮丼を喰って大騒ぎをしていた。これ、何の番組だろうって、あたしは思った。あたしはニュースとワイドショーの区別がつかない。

 テレビをつけっぱなしにしたまま、だらだらとスマホを手繰る。

 見るのは、世界のどこかにいるばかが、ばかなことをしでかす動画だ。この世界に、自分以上のばかがいると思うと、少しは気分がいい。ずっと、こんな、だらだらとすごせたらいいのに。何もしたくない。

 そのとき、テレビの音声が不意に耳に入った。

「……児童福祉法の一部が改正され、すでに……」

 眼をやると、スーツを着た女がしゃべっていた。お笑い芸人がいないから、これはニュースなんだろう。

「改正法により『親権者は、児童のしつけに際して体罰を加えてはならない』と明記され、明確に児童に対する体罰が……」

「一方、正当なしつけまで、問題とされる可能性が指摘されています……」

「厚生労働省の、体罰等によらない子育ての推進に関する検討会では、体罰としつけの違いについて『たとえしつけのためだと親が思っても、身体に、何らかの苦痛を引き起こし、又は不快感を意図的にもたらす行為である場合は、どんな軽いものであっても虐待に該当し、法律で禁止されます』と説明をしており、また国連児童の権利委員会の……」

「……に対して、体罰としつけの違い、体罰の定義が不明瞭で、虐待との関係もあいまいではないかといった指摘があり……」


 聞いていてあたしは、あまりのくだらなさに呆れてしまった。

 その何とか検討会やらの連中は、きっとすごく頭がよくて勉強ができるんだろうけど、とんでもないばかだ。

 ああいった人たちって、きっと子どもは純粋できれいな心を持っているって信じているんだろう。

 子どもなんて、大人たちが想像しているよりずっと汚いんだよ。親が手を出せないと知ったら、子どもなんて、どこまでもつけあがってしまうに決まっているじゃないか。親が子どもをぶん殴れずに、子どもがまともに育つわけがない。それこそ、家庭崩壊じゃないか。

 ばかじゃないだろうか。

 どれだけ子どもが汚いかってこと、そしてそんな子どもの悪意で、家庭なんて簡単に壊れてしまって取り返しのつかないことになってしまうこと。

 あたしはそのことをよく知っている。その証拠に……


 スマホが掌の中でけたたましい音を立てて、あたしは思わず声をあげてしまった。

 電話が鳴ったの自体久しぶりだし、画面には、公衆電話と表示されていた。信じられない、今どき。非通知と表示されるより、ありえない。

 普通だったら無視するのだが、その呼びだし音には取らなければならないような何かがあった。

「……誰?」

 自分のしゃがれた声が自覚できる。

「……」

 沈黙があった。それは何かぞっとするような静けさだった。いや、沈黙の背後に、どこかの駅か何かのざわめきが感じられた。完全な静けさじゃない。でもそれは、ひどく悪意をはらんだ静けさに、あたしには感じられた。

「……あたしだけど」

 沈黙のはてに、女の声がした。

「……誰?」

 聞き憶えなんてない。

「わからないの……?」

 そのひと言には、途方もない悪意というか邪気があった。あたしの背筋が寒くなったほどの。

「実の妹の声もわからんないんだ……」

「……っ!」

 心臓が止まるほど驚いたのは、多分これが初めてだった。まさか……!

 記憶よりずっと低いその声。あたしはとっさに、何年も憶いだすこともなかった妹の名を口にした。

「気安く呼ばないで」

 憎しみに満ちた答えが返ってきた。

「……どうしてこの、番号を?……」

 妹が知っている番号は、とうに変えている。

「……あなたが何かするんじゃないかって、あたしたちはずっと見張っているのよ、あなたが今どんな仕事をしてるかってことも、もちろん知ってるから――でも安心して、あたしから連絡とるのは、これが最後だから。あたしたち、もう二度とあんたに会うことはないから」

「……何?」

 頭が割れるように痛い。明け方までの酒か?

「本当は、教えてやる義理なんてないけど……お父さん、昨夜、死んだから」

 毒をたっぷりふくんだ、でも感情のこもらない冷たい声で、妹はそう云った。


* * *


 ……あのことでまず憶いだすのは、膝ににじんだ血だ。

 あの日、夜遅く家へ帰る途中につまづいて転んで、膝をすりむいたときの血。

 その痛みと血が、その後あたしにとてもすばらしい思いつきをもたらした。

 すべてが、そこからはじまった。


 父は厳格だった。

 しかし中二のあたしにとって、それはただ、あたしのやりたいことを邪魔する敵だった。

 勉強をしろ。

 スマホは夜の何時以降は禁止。

 夜、出歩くな。

 何だその髪の色は、ピアスは何だ! 校則で禁止されているだろう。

 そんな友だちとは付き合うな、そもそもそんなやつは本当の友だちじゃない。

 自分の人生を大事にしろ。

 このままじゃ人生台なしになるぞ。

 いいかげん、眼を冷ませ!

 後悔するぞ!

 何だその男は!

 ……!

 あぁっ! もういいかげんしろ!

 何であいつは、あたしのやりたいことを片っ端から邪魔をして、あたしの人生をくそつまらないものにしようとしてんだ!

 お前に、あたしの楽しみを、人生を邪魔する権利なんてないんだ!

 父親? 何を偉そうに、笑わせるな! お前が父親で、あたしは大外れだ。

 くそが、キモイ、キモイ、キモイ!

 死ね!

 他の家はみんな、もっと好きにやらせてくれてるのに、何であたしばっかり、あいつの娘ってだけで、好きなことができないんだ!

 不公平だ!

 死ね! 死ね! 死ね! くそが死ね!


 転んだのは、そんな夜だった。

 あたしは当時付き合っていた男――高校中退して足場屋をやっていた彼、腕や腿に刺れたタㇳウーが最高にヤバかった――の部屋から帰る途中で、時間はもう真夜中に近かった。

 下着の内側の男との行為の余韻と、帰ってからのゴタゴタの予感とが、混ざりあっていた。

 近道をした児童公園で、砂場の枕木の枠につまづいてすりむいた膝と掌。

 そのときは忌々しさだけだったが、後からその膝ににじんだ血が、あたしの人生を変えた。

 帰宅すると案の定、あのくそ野郎はまだ起きていて、当然のように口論になって、ブチきれたあたしは、腹いせに家を飛びだした。

 走りながら、あたしの頭脳は、天才的な閃きをみせた。こんなことを思いつけるなんて、あたしはすごい。

 あたしは念のため、公園の水飲み場ですりむいた膝と掌をきれいに洗った。

 なにごとも仕込みが大事だ。

 あたしは興奮したまま真夜中の街を歩き、意気揚々と警察署へ駆けこんだ。

 すり傷だらけの膝と掌をみせた。

 半泣きの表情を作って。

 そして云った。

「父親からレイプされた……」


 あたしのはすぐに個室に通され、あぁこれがドラマで見る取調室かって感動したものだ。

 そこで、年輩の制服警官から事情を細かく訊かれて、あたしは答えた。

 何年も前から、父親から性的虐待を受けてきた。恐ろしくって誰にも云えなかったが、今夜突き倒されて膝も掌も傷ついて、もう限界だったので逃げだしてきた――痛いよ、助けてください――って感じだ。

 あたしは涙目になりながら、空想の屈辱の被害状況を話しつづけた。話しているうちに、本当にそんなことをされたような気になったから不思議だ。

 そうこうしているうちに、児童相談所から職員が来て、児童福祉法第何条、児童虐待の防止等に関する法律第何条なんてむずかしいことを云われて、一時保護だとか何とかで、あたしは警察署から連れだされた。

 やたら「大丈夫? 怖かったよね? もう安心だよ、私たちはあなたの味方だから」なんてセリフをはくキモイおっさんたちに、吹きだしそうになりながら、あたしは傷ついたふりをして、しおらしくうなずいていた。

 実の娘から強姦犯あつかいされて、きっと警察から厳しく取り調べられるだろう。児相も動いたから罰を受けるはずだ。

 これであいつは懲りるはずだ。

 ざまぁみろ。

 あたしのやりたいことを、ことごとく邪魔をした罰だ。反省しろ。

 これに懲りて、あたしのやることに口出しするんじゃない。

 反省をしろ、くそが。

 ごめんなさいって頭を下げてきたら、許してやってもいい。

 涙目になって土下座するあいつを想像して、うっとりするほどだった。

 その夜は児相の施設とやらで、明日以降のあいつの狼狽ぶりを想像して、とても気持ちよくぐっすりと寝た。


 計画では、あのくそ野郎が警察や児相にたっぷりと怒られて、あたしは意気揚々と何日かしたら家に戻るはずだった。

 そうすればもうあいつは、あたしに逆らうことなんてできやしない。あたしの機嫌を損ねたら、また警察や児相に駆けこむと脅せばいいんだから。

 何てすばらしい計画。何てあたしに都合のいい仕組み。

 実はこの作戦の元になったのは、ある人の話だ。中学で知り合った友だちの母親の久恵さんだ。この人、自分の娘を交代で摂食障害か何かで入院させて、補助やら保険金やらで生活してるって云ってた。あたしにはよくわかんないけど。

 何かあったら児相に駆けこんで、親から虐待されたって訴えればいいんだと教えてくれた。

 考えてみたらそのころ、あたしの味方、久恵さんだけだったような気がする。付き合っていた男は、ヤリたいだけの猿で、頭の中身は小学生以下だったし。

 あたしは期待たっぷりに、翌日からの児相の職員の聞き取り調査に応じた。

 架空の性的虐待の話に、児相の職員は真剣に、時には涙を浮かべながら聞いてくれた。

 あいつは必死で否定しただろうけど、児相はあたしの味方だ。夜みんなが寝静まってから、あたしの部屋にやってきて何回も何回も……傷ついたふりをしてそう云えば、やってないことの証明なんてしようがない。ざまみろ。

 あのときのあたしの演技は、間違いなく賞をとれるものだったろう。まさしく神がかっていた。細かい矛盾点も、うまくしのいだ。

 そのときは児相の人たちのこと、本当に感謝した。ばかで、ありがとうと。


 どこから計画が狂ったのだろう?

 あいつを逆らえないようにして、鼻高々でもどるはずだったのに、あたしは二度と家に帰れなくなった。

 原因は、やはりあのくそ野郎にあった。あいつは県の職員だった。公務員だ。

 この話がどこからか漏れて、新聞ざたになったらしい。

 県庁職員が、実の娘を性的虐待――ものすごい騒ぎになったらしい。

 くそ! あいつが公務員なんかじゃなかったら、あんな大騒ぎになったはずないのに、よりによって公務員だなんて、いやがらせかよ! やっぱりくそ野郎は、あたしに迷惑ばかりかけやがる!

 たちまち、騒動が大きくなっていった。

 びっくりしたあたしだったが、今さら嘘ですとは云えず、被害者を演じつづけることしかできなかった。まさかあの日以来、家に帰ることもできなくなるとは思ってもみなかった。

 あいつはその疑惑をはらすことができずに、仕事を馘――自主退職? あたしには違いが分からない――になったらしい。県庁の全然関係のない頭の薄いおっさんが頭を下げて、信頼失墜に対して組織をあげてどーちゃらと云っていた。意味不明。

 そして家族は、夜逃げ同然に引っ越していったらしい。

 あいつに罰を与えられればよかっただけなのに、あたしは児相のせいで、家をなくしてしまった。

 余計なことしやがって。そういった個人情報が漏れるなんて、児相の情報管理はどうなっているんだと憤慨したくなる。

 大体あいつら、あたしの嘘も見抜けなかったんだ! 信じられない、あたしが文句云う筋合いじゃないけどさ、中学生の嘘も見抜けないなんて、あいつらばかじゃないのか?

 私たちはあなたの味方だからね、あなたのこと信じるからねなんて、口先だけのこと云いやがって。

 でもひょっとしたら嘘かもしれないって、薄々気がついたのかもしれないが、もう虐待っておおっぴらになってしまって、あいつらも今さら間違いですって云えなかったんじゃないかな?


 それからあたしは、遠くの養護施設に移されて、そこから中学と高校に通った。何でも月何万か、費用がかかるらしいが、同じく施設に入っていた連中の家は、払っていないやつの方が多かった。あれ、どういう仕組みになっているだろう? なのにあいつは払っていたらしい。不思議だ。

 そこでも自立支援だの更生プログラムなんだのうるさく云われたが、無視をしていたら、だんだん施設や児相のやつらも何も云わなくなった。何であいつらは意味のないことで騒ぎたてるんだろうな?

 あの久恵さんとは連絡を取りあっていたけど、実はあの人、ヤクザがらみの売春組織に関わってて、あわてて警察に介入してもらって、手を切った。数年前、風営法違反で娘ともども捕まっていた。危なかった。

 施設はまぁ、居心地は悪くなかったが、おかしなことに十八歳になった年に追いだされた。もう大人だからって。無責任だなと思った。

 でも特にあたしは困らなかった。施設にいたころから付き合いのある男の部屋に転がりこんで、それが何人目かになったころ、あたしはてっとり早くお金を稼ぐ方法を見つけた。

 それからもう何年になる……?


* * *

 

「……お父さん、昨夜、死んだから」

 そう告げられて絶句するあたしに、妹はつづける。

「ソープのお仕事、お疲れ」

 こんなに悪意のこもったお疲れって言葉を、聞いたことない。

 あたしが最後に妹を見たのは、家を出た当日の朝、玄関からランドセルを背負って出た行く姿だった。まだ小二だったはずだ。

 不思議だ。幼かったころは結構仲がよかったはずなのに、今は顔も憶いだせない。その妹があたしに向かって、憎しみをこめた声でソープなんて言ってる。信じられない。

「あんたにお似合いの仕事だね。あたしたちの家庭を滅茶苦茶にして手に入れた人生。好き勝手にやれてる? 楽しい? 満足でしょ? のたれ死ぬまで楽しんでね」

 その云う草にかっとなって声を荒げて云いかえしてしまったが、妹はばかにしたように笑う。

「気安く名前呼ばないで。あんたなんか、とっくに家族じゃないんだから」

 感情をなくしてしまったような声だった。

 頭ががんがんと、割れるように痛い。吐き気がする。

「お父さんね、最後の最後まで、あんたへの恨み言、ただのひと言も口にしなかったよ、全部無茶苦茶にしたあんたのこと……どう思う?」

 どう思うもくそも……云いかけて、あたしは、言葉がつづかないことに気がついた。唇がけいれんしていた。何だよ、一体?

「お母さんは、連絡する必要ないって云ってたけど、あたしは教えてやりたかった。でもね、あんたと話をするのもこれで最後。あんたが何かまたとんでもないことするんじゃないかって、調べるのも終わり。引っ越しを繰りかえしたから、あたしたちの居所は絶対にわからない。だからあんたと出会うこともない。もう二度とあたしたちの前に現れないで」

 ひと言ひと言が毒針のようにあたしに突き刺さった。吐き気がひどくなった。のどの奥に不快感が塊となってつめこまれているようだった。誰だ、中からあたしの頭を斬りきざむのは!

 そして妹は最後にひと言。

「お父さんじゃなくって、お前が死ねばよかった」

 そのひと言で、あたしの視界は真っ白になった。それはきれいなんてもんじゃない、汚れきった白だった。多分その汚れは、あたしが犯してきたものだった。

 気がつくと、スマホはもう切れていた。


 耳障りな声が聞こえる。テレビだった。

「……ですから、たとえしつけのためだと親が思っても……」

「……子どもの身体に苦痛を与える、不快感を意図的にもたらす行為である場合は、どんな軽いものであっても虐待に該当するんです!」

「子どもがいやだと思ったことは、すべて虐待です!」

「虐待では決して問題は解決しません」

 よく知らないおばさんが、テレビの中でがなりたてていた。いつの間にかこの問題について、ニュースじゃなくって討論みたいになっていた。

「ならばどうすれば……?」

 同じテーブルの端の男が訊ねる。

「愛情を注いで育てれば、決して体罰に頼る子育ては必要ありません! 親の愛情は必ず子どもに伝わります!」


 あたしは不意に爆笑した。

 げらげら、げらげらと、そりゃもうびっくりするぐらい止まらなかった。

 こんな最低で最悪で不愉快で、ばかで中身が空っぽなジョークは聞いたことない。

 親の愛情は必ず子どもに伝わる――?

 そんなものに気がつきもせず、何もかもぶち壊してしまった実例がここにいるのに!

 あいつはあたしを一度も殴ったりしなかった。

 あたしのことを心配していただけだった。

 あたしのこれからを心配していただけだった。

 駄目なことは駄目と云い、悪いことは悪いと叱った。

 ただ、親として当たり前のことをしただけだった。

 それに気がつかず、恨みばかりをつのらせたばかがいた。

 親の愛情をいくら注がれても、勝手にねじ曲がっていくばかがいた。

 それなのに、子どもがいやだと思ったことは、すべて虐待――?

 こいつ正気か? 何の夢物語だ?

 それでどうなると思う?

 お前のやってることは体罰だ、訴えるぞって親を脅す気の違ったがきが、そして誰からも怒られることもなく、まともな社会規範も身につけず大人になったやつらが、十年後には世の中にあふれているだろうね、あたしみたいな。


 笑いが止まらなかった。お腹がひきつるほど笑っていた。

 そんな世の中が来ることを考えただけで、あたしは愉快で愉快でたまらなかった。

 あたしだけじゃない。

 みんなみんな、あたしみたいに、なってしまえばいいんだ!

 あたしみたいになって、しまえばいいんだ。

 ……あたしみたいに……

 笑いは止まらなかった。ちっとも楽しくもないのに。

 いつか笑い声だけじゃなく、涙もとまらなくなっていた。哀しくもないのに。

 それに身体のけいれんも、頭痛も吐き気も止まらない。

 吐いた。そしてその汚物に顔を突っこんだまま、あたしは笑いながら、また吐いた。何度も吐いた。

 その場で嘔吐しながら、しゃくり上げながら、涙を流しながら、あたしはげらげらと笑いつづけた。

 それが何の笑いか、何の涙か、あたしにはわからなかった。

 あたしは笑って、涙を流しつづけた。

 死んだあいつになら、この笑いの意味、涙の意味、わかるんだろうか……なんて考えながら。


(了)

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錆ついた翼 衞藤萬里 @ethoubannri

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