第28話

「始ちゃん?」

 空は要求通りにしてみた。先坂はぎこちなく振り返る。

「な、なにかしら、逢田さん……空さん」


「ただ呼んだだけ」

 先坂はしゃっくりでもするみたいな声を出した。

「よっ、用もないのに気安く呼ばないで。ふ、二人きりの時以外は。それと名前で呼ぶのも、他の子の前では禁止だから」


「どうして?」

「言ったでしょう。女の子らしくない名前だから嫌いなの」

「だけどわたしはいいの?」


「あなたは特別、その、物分りの悪い子みたいだから、許してあげる」

 これからはわたしもきちんと苗字で呼ぶようにするよ、とは空は言わなかった。

「始ちゃん」

 タオルの巻かれた先坂の首筋に顔を寄せる。すんっと鼻を鳴らすと、先坂は羽で肌を撫でられたみたいに震えた。


「な、なに。また呼んだだけ?」

「ううん、始ちゃんって懐かしい匂いがする。あと汗も。頑張り屋さんなんだね」

「わ、私汗臭い?」

 ぺろり。

「うん。ちょっとしょっぱい」


 先坂は要のネジが抜けてしまったみたいにその場にすとんと尻餅をついた。ちょっと尋常じゃないぐらい顔が真っ赤だ。半開きになった唇が足りない酸素を欲しがるように小刻みに震えている。


 急にどうしてしまったのだろう。まさか熱射病とか?

 だったら大変だ!

 とにかくまずは体温を確かめようと先坂の前に屈み込んでおでことおでこをくっつける。


「いやっ!」

 だが突如先坂が暴発した。顎を掌底で思い切り突き上げられて空は大きく仰け反り、そのまま後ろに転倒する。ワンピースの裾が足の付け根までまくれ上がった。


「い、いい、いきなり変なことしないでよ。それと見えてる、早く足閉じて立ちなさい。せっかくのいいお洋服が汚れるわよ!」

 先坂がまくし立てる。


「う……ん」

「ちょっと聞いてるの?」

 聞いてはいた。だが頭がぐるぐるしていて体が思うに任せない。


「空さん?」

 先坂は傍らに膝を付くと空の肩に手を掛けた。

「しっかりしなさいってば、ねえ」

 揺さ振ろうとする先坂を、鈴の音のような声が制止した。


「待ちたまえ! まずは安静に! ……ワトソン」

「ああ。先坂さん、ちょっとホームズを頼む」

「は、はい」

 先坂は渡されたタブレットPCを胸に抱えた。代わって白衣を着た青年がしゃがみ込む。空の目蓋を広げ、後頭部を掌で探り、手首の脈を取った。


「君のクラスと名前は?」

 ワトソンは明瞭な発音で空に尋ねた。

「……6年2組、逢田空です」

 どうして今さらそんなことを訊くのだろう、と頭の片隅で思いながら空は答える。


「目が回ったり気持ちが悪かったりすることは?」

 それはある、けれど。

 空はいったん目を閉じた。力が身体中に流れて行くのをイメージして、大きく深呼吸する。うん、大丈夫そうだ。空はしっかりとワトソンの目を見返した。


「さっきはくらっとしましたけど、治ってきました」

「吐き気もしないね?」

「はい」


「ホームズ、聞いての通りだ」

「軽い脳震盪というところだね」

 亜麻色の髪にハンチングを被った少女が頷いた。

「転んで頭を打ったせいというより顎への打撃が効いたんだろう。問題ない」


「一応病院には連れて行くよ」

「それがいい」

「ちょうどカートがある。使わせてもらおう」

 ワトソンはゲストハウスの近くに停められていた小型の乗り物を引いてきた。屋根付きの三輪スクーターで、座席が前と後ろに一つずつある。


「立てるね。乗って」

 ワトソンは空に手を貸して後部座席に座らせた。中は狭かったものの、手足を縮めなければならないほどではない。普通の成人男性でも乗車可能なサイズだ。


「大学の病院に行ってくる。担任の先生には君から伝えておいてくれ。ホームズをありがとう」

 美少女の絵が映し出されているタブレットをワトソンは先坂の手から回収した。


「あの、これってどういうことですか? 逢田さんをどうする気ですか?」

 先坂は急に慌て出した。ここに至ってようやく頭が回り始めたという感じだ。

「大学の附属病院で診察してもらう。別に心配はいらない。異常がないことをちゃんと確認するだけだ」

 ワトソンは丁寧に説明した。


「私も付き添います」

 先坂が決然と言うと、ワトソンの目が左右に泳ぐ。

「いやだけどこれ二人乗りだし……」


「自分の足で走ります。どうせランニングの途中ですから」

「うーん、まあ」

 別にいいか、と呟く。


「その前にちょっといいかな? 先坂くんに幾つか質問したいことがあるんだが」

「なんだい、ホームズ」

 ワトソンはタブレットを差し上げると先坂の方を向かせた。


「先坂くん、きみがランニングをしていたのは空くんが散歩に出るのを見掛けて唐突に運動意欲に目覚めた、ということかな」

「違います。毎日やってます」

 先坂はむっとしたように答えた。


「コースも決まっている? つまり、ゲストハウスの脇の道を走るのは毎朝のことで、空くんのお尻を追って今朝だけ例外的にここまで来たわけではない」

「コースも同じです。変な言い掛かりはやめてください」


「あともう一つだけ。いつもその格好で?」

 先坂はわずかに怯んだ様子を見せた。だがすぐに気を取り直したように正当性を主張する。

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