第27話

 目が覚ますと隣に洋子ようこが寝ていた。

 いや上に、の方が正確だ。そらに覆い被さるように抱きついて、幸せそうに寝息を立てている。


 視線を上に向ける。目に入るのは天井ではなく、ベッドの上段の底板だ。ということは間違って洋子の寝床に入り込んでしまったわけではない。

 それならいいや。


 洋子を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。昨晩どうやって寝たのかはよく憶えていなかった。風呂から上がった時点でもうかなり眠くて、部屋に戻って洋子と話をしている時には半ば夢の中だった気がする。


 その分目覚めは早かった。外はもう明るいが、起床予定時刻までにはまだずいぶんある。

 お散歩でも行こうかな。お天気もよさそうだし。

 空はパジャマを脱ぐと、クローゼットから浅葱色のワンピースを出して頭から被った。


“ちょっと散歩に行ってきます”

 一応書き置きを洋子の机の上に残していく。

 寮の玄関まで来てから靴を忘れたことに気付いた。幸い隅にサンダルが何足かあったので使わせてもらうことにする。


 風の澄んだ気持ちのいい朝だった。昼間はまだ夏の名残りが強いが、このぐらいの時間だと半袖では少し冷やりとするほどだ。

 今日は迷子にならないようにしないとな。


 鳥の声や葉のさやぎに誘われるまま、木立ちの中に分け入って行きそうになるのをこらえ、空は舗道をのんびり歩く。やがて現れた別れ道は真っ直ぐ進めば初等科の校舎へ至る。


 まだ土地勘はろくにない。そして空は方向音痴だ。知らない道を選ぶのは自分から望んで迷いに行くのも同然だ。

 しかし右側の景色には見覚えがあった。


「こっちにしよう」

 ほとんど迷うこともなく道を曲がった。なんとなく知っている気がする方に進んだ挙句、最終的に自分がどこにいるのか分らなくなるというのは空の迷子で二番目に多いパターンだったが(一番は何も考えずに気の向くまま進んだ場合だ)、今回は実際に以前に来たのことのある場所だった。


 右手に瀟洒な煉瓦造りの建物が見えてくる。三日前の夜に学院に着いた空が宿泊したゲストハウスだ。利用者がいるらしく、二階の角から湯気が立っている。おそらくシャワーを使っているのだろう。空が割り当てられた部屋は一階だったが、浴室はちゃんと二階にも備え付けられているようだ。


 誰がいるのかな。

 空はゲストハウスへと続く小道に足を向けた。もしかして空と同じ転入生だったりしたら、是非ともお話してみたい。


「……逢田あいださん?」

 だがその途中で後ろから呼び止められた。振り返った先にいたのは空の新しい友達だ。


はじめちゃ……先坂さきさかさん、おはよう」

「おはよう。何してるのこんなところで……っていうかその格好はなんのつもり?」

 先坂も小道を折れてきた。そういう当人は半袖短パンの体育着姿だ。首にオレンジのタオルを巻いている。

 空はワンピースの裾を摘んで持ち上げた。


「おかしいかな。だけどこの服パジャマじゃないよ。ちゃんと着替えてきたんだから」

 空が答えると先坂のテンションが一段上がった。

「そのぐらい見れば分るわよ。早く下ろしなさい。足が丸出しじゃないの、はしたない」

 空は言われるままに裾を離した。


「似合ってない? お兄ちゃんが初めてのボーナスで買ってくれたお洋服なの。自分ではすごく気に入ってるんだけど」

「素敵だし、よく似合ってるわよ……もう、だからそういう問題じゃないの。寮の中以外は私服は禁止よ。知らなかったの?」

 そういえば聞いた気がする。


「忘れてました。ごめんなさい」

「いいけど。まだ人いないから平気だろうし」

「はじ、先坂さん、教えてくれてありがとう。わたし先に寮に戻るね。また後で」

 空は手を振って踵を返した。


「待ちなさい」

「わっ」

 歩き出そうとしたところをいきなり後ろから手首を掴んで引かれ、空は危うく転びかけた。ちょうど半回転して先坂に抱き止められる。


「……ふう。ありがとう始ちゃん、じゃなくて先坂さん」

「私こそ急にごめんなさい。でもどこに行くつもりなのよあなた」

「寮だけど」

「あれが?」

 先坂が示した先にあるのはゲストハウスだ。


「そっか、寮はこっちじゃなかったね。うっかりしちゃった。さすがは先坂さんだね」

「こんなことで褒められても少しも嬉しくないわ。それと……でいいから」

「え?」

 声が小さくて聞き取れなかった。空は先坂の傍近くに顔を寄せた。


「だから始でいいって言ったのっ!!」

「ひゃっ?」

 耳元で叫ばれる。きーんとなった。


「えっと、でも下の名前で呼ばないでって」

「そうだけど、間違えていちいち呼び直されるのはもっと苛々するし、だから仕方なく」


「うん、分った。わたしがもっとちゃんと気を付ければいいんだね。ごめんね、先坂さん」

 これで二回連続間違えずに苗字で呼べた。もう大丈夫、先坂もきっと納得してくれるに違いない。そう思った瞬間、胸ぐらを掴まれた。


「いいから始って呼びなさい。つねるわよ」

 今回は脅し文句がリアルだ。

 空が戸惑っていると、先坂は逆に自分の方が攻撃されたみたいに顔を背け、手を離した。

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