第15話

「みおちゃん、へんなことってなあに?」

「知らない。空ちゃんに訊いてみれば?」

 心を抉るような奈美の問いに、突慳貪に美緒が答える。奈美は素直に空の元へ行く。


「そらちゃん、へんなことって?」

 問われて空は首を傾げた。洋子の不意打ちにもノーダメージだったらしい。それにはほっとした洋子だが、奈美にどう答えるのかと不安が募る。


「うーん、なんだろう?」

 素っとぼけているのではない。たぶん本気で理解していない。脱力感が洋子を襲った。奈美に困ったことを吹き込まなかったのはいいとして、今の洋子との一幕に何も感じるところはなかったのか。行き場のない気持ちが胸の裡で燻る。


「こら美緒、部屋に入る前はノックしなさいっていつも言ってるでしょ」

 なのでとりあえず怒っておく。

「一度も言われたことない」

 しかし美緒は淡々とやり返した。


「自分の部屋だと思っていつでも来ていいから、とは言われた」

 確かに言った。洋子はぐうの音も出ない。

「でも」

 美緒は仲良く手を繋いだ空と奈美の方を見やった。


「空ちゃんが来たから、もう前とは違うっていうなら、別にいい」

 空気が重い。どうにか流れを変えないと。

「美緒、もしかして嫉妬してるの?」

 軽くからかうように言ってみる。


「おかしいの。お母さんが赤ちゃんばっかり構ってるからって小っちゃい子供が拗ねてるみたい」

 美緒の顔つきが変わった。

 洋子は喉元に冷たいものを感じた。もしかして自分は触れてはいけないスイッチをオンにしてしまったのではないか。


「今の洋子ちゃんのたとえって」

 今にも泣き出しそうだった美緒の瞳に、氷の刃のような光が宿る。

「洋子ちゃんがお母さんで、空ちゃんが赤ちゃんってことだよね」

「まあ、そうなるわね」


「ぴったりだね」

「なっ……」

 別にあからさまな悪口というわけではない。だが間違っても褒めてはいない。というか絶対馬鹿にしている。


「あれ、どうして怒ってるの。親子じゃなくて恋人がよかった?」

 さすがに調子に乗り過ぎだ。

「美緒、いい加減わけの分らないこと言うのはやめなさい。大概にしないと怒るわよ」


「そうだよね、わけ分んないよね。だって洋子ちゃんも空ちゃんも女の子だもんね。恋人だなんておかしいし、キ、キスしたりなんかするわけないもんね」

「あ、当り前じゃない」

 あっという間にコーナーまで追い詰められる。実に見事な攻撃だ。


「ねえ空ちゃん、二人けんかしてるの? どうして?」

 まだ全面開戦までは至っていないが、洋子と美緒の間にばちばちと電流が走っているのは十分に感じているらしい。だがそれで物怖じするでもなく平気で質問できてしまうあたりが奈美である。


「きっと仲良しだからじゃないかな」

 奈美に劣らず緊張感に欠けた様子で空が答えた。そもそも自分が原因だと理解しているのかと洋子は小一時間問い詰めたくなる。


「なかよしなのにけんかするの? でもナミは、みおちゃんとも洋子ちゃんともクラスの子たちともけんかしたことないよ」

「奈美ちゃんはそれでいいの。だけどたまにね、仲が良過ぎるせいでちょっとだけ苛々しちゃったりすることがあるみたいだよ。痴話喧嘩っていうんだって」

 洋子は危うく噴きかけた。


「ちょっと空、奈美に変なこと教えないで! それと奈美、あたしと美緒は喧嘩なんてしてないから。そうだよね、美緒」

 美緒は頷かなかった。短く洋子のことを睨みつけた後、顔を背ける。


「行こう、奈美」

 奈美の手を取って引いた。

「でも空ちゃんと洋子ちゃんは? いっしょにごはん行かないの?」

「二人だけでいるのがいいみたいだから。邪魔したら悪いよ」


「えー」

 奈美が不満を表す。美緒はかっとした。

「嫌ならいいわよ。わたし一人で行くから」

「奈美、美緒と先に行って」

 洋子は慌てて割って入った。


「あたしと空はまだ用があるから。それが終わったらすぐ行くわ」

「はーい。じゃあまたあとでね」

 奈美は美緒の手を握り直した。

「行儀良くね。美緒、奈美のことお願い」

 美緒は返事をしなかった。


 朝からひどくエネルギーを使ってしまった。重力に引かれるまま洋子はベッドに腰を落とす。ふわりといい香りが漂って、下の段はもう空が使っていることを思い出したが、そのまま座り続ける。「勝手に座らないで」などと空が怒るはずもない。先坂とかならともかく。


「用って何?」

 空は洋子の前の床にぺたんとお尻をついた。

「別に何もないから。いちいち真に受けないでよ」


「そっか、ごめん」

 つくりと胸が痛んだ。

 空は悪くない。マイペースっぷりに振り回されている部分があるのは確かだが、それより洋子が浮かれている方が問題だ。

 空のことはちゃんとフォローする。あとはできるだけいつも通りに。


「ううん、あたしこそごめん。ちょっと考え事してたから。じゃああたし達も朝ご飯行こっか」

 腹が減ってはなんとやら。洋子は勢いをつけてベッドから立ち上がると、空と一緒に食堂に向かった。



 同じ年頃の子と比べて空はよく食べる。本人としてはそれほど意識していないのだが、人からはよく言われる。


「ごめん空、ちょっと待ってて」

 空いた食器を返却して、水を注ぎ足したコップを持って戻ると、洋子のトレイの上にはまだ半分近くも朝食が残っていた。


「洋子ちゃん食欲ないの? 気分でも悪い?」

 空は尋ねた。しかし洋子は否定する。

「昨日も思ったけど、あたしが遅いんじゃなくて空が早過ぎなの」

 二人とも全く同じメニューなのに、前回も今回も空の圧勝に終わっていた。


「そんなにがっついてるって感じでもないのにね。不思議」

 最後のパンの一かけを口の中に放り込むと、洋子はきちんとよく噛んでから牛乳と共に飲み下した。


「お腹が空いてるからかな」

 有り体にいって足りていない。もう一食分ぐらい余裕でいけそうだ。

「ご飯の時はお代わりできるよ。パンだと数が決まってるから無理だけど」

 洋子が耳よりな情報を教えてくれる。


「あんまりする子いないけどね。っていうかほとんど見たことないや。でも確かできたはず。今度頼んでみたら?」

「うん、お願いしてみる」

 他の人の分まで取ってしまうわけにはいかないが、せっかく作ったごはんが余るようなら、むしろ喜ばれるかもしれない。


「空ってば、成長期なんだねえ」

 洋子はなんだかしみじみと言った。

「洋子ちゃんだってそうじゃない。同い年なんだから」

「まーねー。人それぞれってやつ?」

 洋子は空の胸の辺りに目を向けると、妙に気合を入れて残りの牛乳を飲み干した。

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