結び新たに

円山なのめ

結び新たに

 二〇二〇年八月。

 例年より一カ月遅い梅雨明け直後の関東は、夕方になってもまだ暑い。

 首都高速を走る車の窓から、横山よこやまゆいは外を見た。

 「あ。荒川の河川敷が見える」

 河川敷を散歩する人々はみなマスクで鼻と口を覆い、互いに距離を開けていた。

 年の初め、中国の武漢に端を発した新型コロナウイルスが瞬く間に世界を席巻。

 七月には日本でも感染による死者が千人を超えた。

 マスク。除菌。ソーシャルディスタンス。

 街頭で、メディアで、コミュニティの中で、異口同音に毎日毎日繰り返される、三つの単語。

 三枚のお札みたい、と結は思う。

 山姥ならぬ病から逃れるための。

 けれどそのために人と人、国と国との間まで隔てられてしまうのだから、現代版三枚のお札には少し皮肉が効きすぎている。

「遠目からだと、去年の台風の名残はわからないね。荒川は」

 結は隣の運転席でハンドルを握る小河内おごうちあらたの横顔に視線を移した。

 新とは、付き合い始めて五年。

 今日は足立区に住む彼の父親に、結婚したい相手として紹介された帰りだ。

 結が仏壇に飾られた新の母の遺影に手を合わせると、新によく似た父親の目は、マスクの上でしきりに瞬いた。

「多摩川が増水したの、わたしテレビの画面で見ただけだったけど、怖かった。新と歩いたことある場所も泥水に浸かってて……」

 映像を思い出しすと喉が詰まる。結の言葉は途切れた。

 昨年の台風19号による河川の氾濫や崖崩れは、全国的に多数の死者、行方不明者を出している。住宅の全半壊、浸水被害も酷かった。

「あのときは荒川も支流が溢れてた。隅田川も氾濫危険水域に届きそうだったな」

 新は都内の河川を管理する事務所に勤めている。

「東京湾の引き潮が、水を海に戻してくれたのよね」

「そうそう」

 結も川や水の話には関心がある。吉祥寺で生まれ、井の頭池や玉川上水に親しみながら育ったためかもしれない。

「去年はおれ、この仕事に就いて初めて本当の川の恐ろしさを見たよ」

「府中に大國魂おおくにたま神社ってあるじゃない」

「ああ」

「あそこの本殿、神社には珍しく北向きなの。奥州平定を祈願するためってされてるけど、北に流れる多摩川を鎮める役割もあるかもしれない、って聞いたことがある」

「羽村の武蔵阿蘇神社なんて、まさにそういう由来のある神社だしな」

 武蔵阿蘇神社にはかつて多摩川が荒れたとき、人々を助けに現れた神が祀られているという。川沿いのサイクリングロードにあるやしろには珍しい自転車用のお守りがあると、自転車乗りだった結の昔のボーイフレンドが言っていた。

「日本には荒ぶる神さまみたいな川がたくさんあるけど」

 新がつぶやく。

「荒川放水路をつくった青山あおやまあきら、ああいう人が、きっとどんな時代にもいてさ。土地の人たちの願いや祈りと一緒に、水を鎮めてきたんだよ」

 先人たちへの尊敬の念がこもった口調だった。

「それはそうと、結、今日はありがとう。親父、すごく喜んでた。俺がトイレ行ってたとき、調子に乗ってなんか余計なこと言わなかった?」

 結は笑った。

「余計なことは言われなかったよ。わたしもお会いできて嬉しかった」

 新がトイレに立っている間、父親が話したところによると、新は昔学校にも行かず、家にも帰って来ない時期があったらしい。

 川にも人にも紆余曲折がある。いつか新が話したいと思ったとき、自分から当時のことを話してくれたらいい、と結は思う。

 新とは大学時代、彼の友人が主催した花見で知り合った。結は違う大学だったが、参加人数が足りないから、と知り合いに引っ張り出された。

 神田川周辺の桜の名所を歩いて回る、という企画で、確かにあまり一般的な花見ではない。集合時間より少し早く着いた結の目に、サークル名を書いた紙を掲げて立たされている、ひょろりと背の高い男子の姿が飛び込んできた。

 結が近づくと彼は赤くなり、高いところにある頭を深々と下げた。

 それが新だった。

「結の今度の彼氏、いい人そうだけど、すごく地味」

 友人の率直なコメントは気にならなかった。新と一緒にいると、結はこれまで誰といても感じたことのなかった居心地のよさを覚える。

 結が父を早くに亡くしたように、新も母を亡くしていた。

 二人とも水と緑の豊かな場所が好きだった。社会人になってからも、休みを合わせては神代じんだい植物公園で花を楽しみ、等々力とどろき渓谷で涼を取った。三宝寺さんぽうじ池、石神井しゃくじい池のまわりを巡り、独歩どっぽの森で落ち葉の音を聞いた。小金井のはけの道、国分寺の真姿ますがたの池、国立のママした湧水など、武蔵野台地に数多い湧水の地も訪れた。

 水の滴りが結ばれて、いつかひとつの流れになるように、二人の心は同じひとつの願いを持つようになった。

 家族になりたい。

 去年は豪雨続き、河川災害続きで新の職場が忙しさを極めた。

 加えて今年は新型コロナの流行。

 東京都の緊急事態宣言は五月に解除されたものの、いつまた発動され、外出自粛やステイホームを余儀なくされるかわからない。

 挙式のめどが立たないまま、まず結婚の意志を結の母に伝え、手放しの祝福を受けた。今日は新の父にも喜んでもらえ、結は心底ほっとしていた。

「もうすぐ首都高を出るよ、結」

 前方に高井戸のインターが見えている。新は結を吉祥寺の自宅近くで下ろしてから、事務所に近い自分のアパートに帰る。

「あした朝早くから研修じゃなかったら、最近開拓したうどん屋に連れてってあげたかったけど。次の機会にな」

 北は川越、南は川崎、あちこちに新の贔屓の武蔵野うどんの店がある。

 地粉で打ったコシの強い麺を豚肉、長葱、椎茸などの入った汁につけて食べる武蔵野うどんは腹持ちがよく、新の好物だ。

「楽しみにしてる。親同士の顔合わせは、東京の感染者数がもう少し落ち着いてからがいいよね」

「結婚したら住むところどうするか、ってことも詰めておかないとな」

 所沢で子育てしている新の親友は、うちのご近所になれよ、おまえらの好きそうなミュージアムもあるぜ、などとしきりに言ってくる。

 結は結婚しても仕事を続けるつもりだが、今は業務のほとんどがリモートワークなので、副業と趣味を兼ね、ネットショップで草木染めのスカーフや小物を売っている。天然の素材を集めるところからが趣味なので、できれば住む場所は自然に恵まれていてほしい。

 今も、雑木林でくぬぎのどんぐりを拾ってつるばみ染めに使い、なじみの農家から青柿をもらって柿渋をつくり、柿渋染めもしている。

 農家の門先には大きな欅が立っていて、垣根にはかつて養蚕をしていた名残の桑が混じる。庭先の農産物販売所で結の作品を売ってくれることもあった。

 父が結の誕生記念に植えた家の庭の桜は、枝や枯葉が染料になる。

 桜から桜色を引き出すには、煮出す水を複数回換え、重曹を入れるなど、染液づくりにこつがいる。花の色そのものを布に移して染められたとき、顔も覚えていない父に今でも守られている気がして、いつも少し泣けてしまう。

 「結。携帯鳴ったぞ。お母さんからかな?」

 新がにやりとする。地元の美大出身、いまだ自由なアーティスト気質の結の母だが、娘のことに関してはかなりの心配性と知っているからだ。結は画面を見た。

 「ううん。動画更新のお知らせだった。〈里山森さとやまもりの会〉ってとこの、よく観てるの。今度のは、横沢入よこさわいりの蛍だって。きれい」

 結は今、里山や雑木林の保存活動に興味津々だ。

 最近の水害の原因のひとつに、都市部での行き過ぎた舗装があるという。

 土に浸み込めなかった雨水が川や用水路に流れ込むと、水|嵩が一気に増してしまう。

 街に雑木林や里山が残っていれば、地面の保水力は高まると言われていた。

「この会、野外活動はしばらくお休みだけど、WEB勉強会の企画があるって」

「前向きでいいな」

「毎回、動画の最後に会員募集中って出てる。わたし、入っちゃおうかな」

「いいんじゃないか」

 会のほかの動画には、下草刈り用の鎌の研ぎ方を伝授するもの、狭山丘陵を紹介するもの、日本紫草にほんむらさきの復活を訴えるもの、いろいろ出てくる。

「日本紫草って栽培難度高いらしいけど、いつか育てて紫染めもしたいな。絶滅危惧種なんだって。和歌にも詠まれてるロマンチックな花なのに」

「もう、それと似たようなの育ててなかった?」

蓼藍たであいのこと?うーん。似てはいないかなー」

 藍染めに使う植物、蓼藍たであいはこぼれ種からよく増える。

 発酵させた葉で藍染の染料「すくも」をつくる職人技「藍建て」は有名だが、結は生の葉が取れる季節だけ、少量の絹を生葉染めで染めていた。

「あ。新にまだ言ってなかった。六月にノルウェーから藍染めのご注文入ったの」

「へえ。すごい。けど、この飛行機が飛ばないご時世で、国際郵便、送れたか?」

「郵便はだめだった。だから民間の宅配業者に頼んだの。送料は高かったけど、先方ができれば早くほしいって言うから」

「代金回収は?」

「商品到着後に電子決済」

 藍染のスカーフに”Stay safe and healthy.” のメッセージを添え、配送後に記録をチェックすると、中国、タイ、インド、ドイツ、デンマーク、経由したのは実に五か国。一週間後、先方の手に届いたスカーフは、新型コロナで老親を亡くした友人へのプレゼントになったという。

「五か国か。飛べた飛行機がリレー方式で運ぶ、って感じだったんだろうな」

「わたしの染めたものがわたしの代わりに海外旅行してくれたみたいで楽しかった」

「コロナ後にはきっと、いろいろなものが元に戻ったり、発想の転換でまったく別の形になったりするんだろうな」

 新がしみじみと言う。

「旅するスカーフもいいけどさ。新婚旅行は行こうな、結。何年後になっても」

 結は笑って頷いた。

 新しい場所を訪れて、縁を結んで、またこの武蔵野に戻ってくる。

 そんな旅を、二人でしたい。何年後であっても。

 二人を乗せた車は一般道に下りた。

 車列のテールライトが赤く光って繋がっている。

 暮れてゆく空に、梅雨に逆戻りしたような分厚い雲が湧く。

 しかし雲の帳の向こうには、まるい月が上り始めていた。

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結び新たに 円山なのめ @itono_ki

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