【黒輪 萌は繰り返す 01】

「あー、もう!」

 定時を過ぎた女性用更衣室で、パートリーダーを務める中年女性、黒輪萌(クロワ モエ)は怒りに任せてロッカーを締めた。

 周囲にいた同僚たちが大きな音にびくりと肩をすくませたが、彼女を咎める者はいない。

 このパン工場で働く女性たちの中で一番年長者であり、立場の強い彼女を注意出来る者など、ここには誰もいないのだ。

 少なくとも、この更衣室の中には。

「じゃあね! お疲れ様!」

「お疲れ様でした~!」

 萌が更衣室を出て行くと、みな明らかにホッとした顔になる。そんなこと、萌も本当は分かっていた。


 萌の怒りはまだ収まらず、大きな足音を立てて廊下を歩く。

 就業時間内であればここにもパンの焼けるいい匂いが漂っているが、今は製造ラインも止まり、何の匂いもしなければ、足音以外に響く音もない。静かなものだ。

 五十代半ばにしてシングルマザーである彼女は、長年このパン工場をリーダーとして回して来たと自負している。

 萌が担当する包装ラインに新人が入れば教育係を務め、作業に慣れて気が弛んだ中堅を叱りつけ、ラインが止まらないよう、責任を持ってリーダーを務めてきた。

 それなのに、今日の工場長はなんだ。突然萌を一人呼び出したと思ったら、先月入ってすぐ辞めていった新人がうつ病だと診断されて、その原因が萌にあると言い出したのだ。

 確かにきつく指導はした。しかし、それは新人に早く職場に馴染んで欲しかったからだ。ライン作業はベルトコンベアの速度に合わせてやるしかないから、誰か一人がもたもたしていると、全体に迷惑がかかってしまう。

 だからこそ、お前のせいで皆が迷惑していると繰り返し注意した。

 お前がいつまで経っても作業を覚えないせいで。お前が手順を間違えたせいで。お前が、お前が、お前が!

 ある日新人は作業中に泣き出して、そのまま飛び出して行ったきり帰ってこなかった。翌日以降は無断欠勤だ。責任感の無さに、本当に呆れてしまう。

 あれくらい、私が新人の頃だって言われていたのに。

 萌は脳内で愚痴を続けた。私のときはもっと酷かったのに。私はそれを耐えてここまで来たのだから、耐えられなかったのなら、それはあの女が弱いからだ。うつ病なんて、甘えでしかない!


「黒輪さん」


 駐輪場に向かう廊下で、闇の中から声がした。

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