2-3.ユカの過去

 ふたりは一週間という時間を共に過ごし、距離を縮めていった。

 ヨルは最初よりユカという人間を理解してきたし、ユカもまたそうだった。


 ユカはいつも通り朝帰り。

 帰宅して早々にため息をついて、シャワーに直行し、10分もたたずに出てきて、今はラフな格好でソファに座っていた。


 ヨルは、少しはユカの拠り所になれているのだろうか、と考えた。

 コーヒーを淹れてあげて、時々話を聞いてあげる、それだけの関係。


 答えは出なかった。答えが出なくてもできることをすればいいと思った。

 それがヨルにとっての最善であり、ユカのためにできる恩返しだから。


「ねえ、ヨルくん」

 ユカはヨルの名前を呼んだ。それはもう親しい人を呼ぶそれだった。

「なんですか。ユカさん」

 ヨルもまた同じように返事をした。

「お酒でも飲む?」

 と、ユカはボトルのウイスキーやワインを見せてきた。

「いえ、お酒あまり好きじゃないので」

「そっか」

「ユカさんは飲まないんですか?」

「酔っても楽しくないしね」と、ボトルをしまい、コーヒー豆の入った瓶を取り出した。

「コーヒーの方が好き」

 どうやら今日はユカがコーヒーを淹れるようだ。


 ヨルはソファに座ったまま待つことにした。手暇になったので小さな我儘を言ってみることにする。

「カプチーノでお願いします」

「贅沢言うようになってきたね」

 そのおかげかは分からないが、ユカは楽しそうに笑った。

「一度、飲んでみたかったんです」

 ヨルも自然と笑みをこぼしていた。


 豆を挽く音、エスプレッソマシーンのスチーム音、フォームドミルクを作る音。

 いろんな音が部屋を満たし、合わさり、カプチーノは出来上がった。


「はい」とカプチーノがヨルに渡された。ユカは小さなカップに入れられたエスプレッソだった。

 雨が降る。カプチーノに口をつける。泡が唇の周りにつく。それを指で拭う。


 ユカはヨルの後ろ、ソファの背もたれにもたれかかる形でヨルに寄り掛かっていた。

 ヨルの視界にユカの髪のカテーンができて、世界にはヨルとユカのふたりだけのような錯覚が生まれる。


 視線を向ければ上半身だけのユカが見える。鼓膜にユカのはあというため息が届いた。

「なにがあったんですか?」

「あ。わかっちゃった?」

「帰ってきた時も、今も。あからさまにため息吐いたじゃないですか」

「あはは。そうだね。ちょっと家族のこと聞かれてさ。ほら、珍しい苗字だから」

 家族。それはユカにとって、忘れられた存在であり、もうユカのことを思い出すことができない人たちのことだ。


「なんて答えたんですか?」

「いない。って言ったよ」

「随分と空気を読まない答えですね。場が冷えたでしょう」

「そこだけはなんか意地を張りたくて」

「ユカさんはどうして家族に忘れて欲しいと思ったんですか?」

「どうして……かぁ」

 ユカはその言葉を噛み締めるよう呟いた。

 頭のなかで家族とはどんな関係でどういった人たちなのか、思い返しているようだった。

「……ま。ヨルくんならいっか」とユカは口を開いた。

「私の家族はね、どうしようもないほど無関心だったんだ」

 そして、独白のように過去を語る。


「私は才果製菓の御令嬢だった。一人娘で箱入り娘。絵に描いたようなお金持ちの子供。それが私だった。毎日たくさんの習い事。勉強だったり運動だったり芸術だったり。小さなころから大金をお小遣いとして貰って、お金の使い方も学ばされた。同族経営の会社では私は次期女社長候補だった」


 そのことにヨルは驚かなかった。

 住んでいる場所もそうだし、丁寧な所作や綺麗な佇まい。女性らしさを自覚した立ち居振る舞いは、全てが上品で、洗礼されていて、節々に育ちの良さが伺えたからだ。


「大企業の子供として。お金持ちの御令嬢として。次期女社長として。そんなレッテルばかりが私だった。それが私という人間だった。そんな私のことを、みんな遠巻きで見ているだけ。同年代の子たちが泣き笑いした青春を私は知らない。甘酸っぱい恋愛も、心を許せる友人も、なにもなかったの」

 ユカは淡々と過去を話していく。

 感情もなく、懐かしむ様子もなく、言葉は平坦だ。


「家族は私のことなんか何も見てなかった。『才果製菓の子』それだけ揃っていれば誰でも良かったんだと思う」

 ユカはついには顔を隠すように俯いた。後ろからヨルに寄りかかっているせいで揺らいだ髪がヨルの頬をくすぐった。


「私は才果製菓の子じゃない私自身になりたかった。だから逃げ出したの」

 ユカは言った。

「けど、籠の外に自由なんてなかった」

 そして、またひとつ、ため息をついた。


「そりゃあ、そうだよね。今まで親の用意した籠の中で生きていた人間がいきなり社会に出ても何ができるわけじゃない。そんなに世の中は甘くはないよね」

 視線を上に向ければ見ることができるが、そうしようとは思わなかった。淡々と話す口調からヨルはユカの心を慮ろうとした。


「でも、私はそれなりに整った容姿だったし、心理学も学んだから人との会話ならできると思ったの。そんな素性の分からない私を拾ってくれたのが今のお店」

 そしてユカは名刺を取って渡してきた。


 店名は『yorube』新宿にあるガールズバーだった。

 まんまるのお月様の上に被さってyorubeと店名のロゴがあり、ユカと名前の記載がある。その隣にカトレアのマークがついていた。


「そんなこんなで、やる気もなく、生きる気力もないまま働いて。お酒を飲んで適当に話していたらお客さんは嬉しそうにしてくれて。それが生きる意味なのかなあと思ったこともあったんだ。……そんなもの。仕事が終われば泡沫になるんだけどね。泡がはじけたあとにあるのは現実。東京にいる薄汚れた自分と虚しさだけ」

 その空虚さはヨルには量り知ることが出来ない。

 ただ、それが救いになるのならと、黙って話を聞いて寄り添った。


「誰に求められても、素肌で抱かれても、お店のナンバーワンになって貢がれても、羨ましがられるタワーマンションに住んでも、いくらお金を得ても、なにも満たされなかった」

 だからね、とユカは続ける。

「ある日、分かっちゃったの。私って空っぽなんだな、って」

 それは、とても乾いた口調だった。


「レッテルばかり貼られたお人形の私に意思なんてなくて、退屈な毎日を淡々と過ごすだけ。家から逃げ出して、東京の街に隠れ住んだ私は私のはずなのに、何もしたいことなんてなかった。そんなことに今更気づいたら、何もかもが嫌になっちゃって、ため息が出た」

 思い出の奔流そのままにユカは過去の出来事を吐き出していく。

 ユカはようやく一口エスプレッソを飲んだ。


「よく騙されませんでしたね」

 運が良かったのかもしれない。と、ユカは言う。

「偶然『忘却のおまじない』を知って、そのおかげで才果製菓の私を知っている全ての人の記憶から、私は消えることができちゃうくらいだから」


 ヨルはそのことに何も言わなかった。消したい過去を持っている人は少なからずいるだろうし、それをユカは実行して、家族や親戚との縁を断ち切っただけ。

 それだけのことだ。


「そういえば、報道とか出なかったんですか?」

「大々的にされたよ。そのことをみんなが忘れちゃったの」

 ユカは言った。

「マスコミの人も、ネットの掲示板でも、もちろん過去私が関わってきたみんなも、親族からも。才果製菓の私を知っている人から『才果製菓の才果結果という人間』の記憶や情報の一切は消え去った」

 それが『忘却のおまじない』の効力だった。


「思い出すことができなければ、そんな情報はないのと一緒。だからもう話題にもされないの」

「ユカさんの持ち物は?」

「さあ。不気味に思って全部捨てたんじゃないかな。とは言っても私に関係するものなんてほとんどなかったけれど。写真でさえ撮られたことはなかったから」

「ネットニュースとかは残ってるんでしょう?」

「残ってるけど、みんな思い出せないんだもの。才果製菓には子供がいた『らしい』。それだけのつまらない都市伝説になってるよ」

「戸籍は?」

「そのままだよ。けどあの大企業の娘ってことは誰も覚えることはできないから何も問題はないよ」

 最後にユカはそう言って「私の話はこれでおしまい」と話を終えた。


「今更ですけど、すごいおまじないですね」

「そうだよね。でも、そのおかげで私はこうして生きていられる」

 カプチーノの泡は溶け、黒でも白でもない曖昧な色に変わっている。それは窓の外の曇った空模様のようだった。

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