1-4.救いの手

 ヨルの足はいつのまにか新宿についていた。

 思い返してなお、不思議な人だと思った。


「嘘つきな人だ」


 それは言外にもうユカとは会うことなどないという意味を含んでいる。

 東京という街に住むたくさんの人の中から偶然会った人と再会する奇跡など起こるはずがない。


 雨は止まない。ユカは今週はずっと晴れマークだから雨は降らないと言っていたのに。

 それに、あの日ユカは傘を持っていた。雨宿りする必要はないはずだ。


 だから、ユカは嘘吐きだ。


 誰でもいいから責めたかった。不遇な自分の境遇でさえ呪わしい。

 歩いていた足が、雨の中、止まった。

 ヨルの目から涙が降り、頬を垂れ、顎から落ちた。


 生きている意味がわからなかった。


 土砂降りの雨の中、皆が傘をさしている。ヨルはひとりぽつんと街から浮いている。

 ずぶ濡れの髪。濡れて重くなったスーツ。雨はリュックにまで浸水している。けれど必要なものなんて何もなかった。なんなら今ここで捨ててもよかった。

 数日分の着替え。財布にはなけなしの三千円。口座にはわずかな貯金があるだけ。次の給料は払われない。


 社会はとてつもなく理不尽だ。


 高卒でIT系の中小企業に入社したが、資金繰りが悪化して倒産。不況からの就職難で、大した学歴も経歴も持っていなかったから派遣やアルバイトで食いつなぎ生活し、どうにか見つけた就職先。そこも解雇された。

 努力はした。仕事で役立つ知識は片っ端から身につけた。それでもどうにもならなかった。


 普通というレールから落ちることは簡単なのに、一度でもドロップアウトしてしまうと、元の場所まで這い上がることは難しい。


 それが社会だ。


 華々しい新宿という繁華街で湯水の如くお金を使っていく人たちもいれば、ヨルのように苦しい思いを抱えながら生きているものもいて、そこには明らかな格差が存在している。


 ヨルはふらふらの足のまま歩き、もつれたことで地面に膝をついた。

 受け身を取ることすら億劫で、ヨルは地面に跳ねる雨に体を浸し、蹲った。

 憐れな見せ物を見るようにぞろぞろと群衆はヨルを囲む。


「泣くことの何が悪い! お前ら、人の気持ちも知らないでっ……!」


 ヨルが嗚咽混じりに激昂すると、いっそう見せ物らしさが増したと群衆は笑った。

 やば。SNSにアップしよ、と下卑た笑いをするドレス姿の女性。

 傘を差しながら濡れたヨルを嘲笑い見下すホスト風の男性。

 遠くの建物の影から様子を伺うだけの女性。

 無言のまま視線すら向けず去っていくその他大勢。


 やつあたりをしても惨めさが消えてくれるわけもない。憐れみの視線や嘲笑は爆笑に変わり、写真数枚撮ったら飽きに変わっていた。他人の苦渋など所詮、その程度の価値なのだ。


 ヨルの苦難など、誰にとっても他人事でしかない。


 ただただ、惨めだった。

 本降りになるにつれ、ヨルを面白がる人の興味は他のことへ向かっていて、気配は遠のいていく。とうとうヨルは路地でひとりぼっちだ。

 ほら見ろ、何も報われない。ヨルは心の中で悪態をついた。


 雨が降り頻る。

 そこへ、コツンとパンプスが地面を鳴らした。

 見覚えのある、みそらいろのパンプスだった。


「ずぶ濡れだね」


 声とともに、土砂降りの雨に打ち付けられるヨルに傘が差し出された。

 顔を上げなくとも、それが誰なのか分かった。


「……ユカさん」

「うん」


 ヨルが見上げると、あの日と服装は変わっているものの確かにユカがいた。

 静かな笑みを浮かべていて、何もかもを許すようで、けれど全てを諦めたような顔だった。


 ……似ている。

 ヨルはそう感じた。

 涙が、雨とともに落ちていった。


「雨、降られちゃったね」

「……どうせ知ってたくせに」


 ヨルが拗ねた子供のように咎めてもユカは何も返さなかった。

 雨がコンクリートを打つ。ユカの傘に当たる。打って跳ねる。サーっと音が鳴る。遠くから路面を滑る車の音が聞こえてくる。


 ふたり雨の下で、静かな相合い傘だ。


 おかしいよね、とユカは言った。

「いつのまにか私たちは自分のことだけで精一杯になっていて、誰かを気遣う余裕なんてなくしてしまって、さっきみたいに嗤うことがあたりまえになってしまってる」

 流れる雨のようにユカの言葉は続いた。


「誰でもいつでもどこにいても。どんなものでもインターネットに繋がっていて、お金さえあれば何でも手に入って、どんな人とでも関係を持つことができる完全なユビキタス社会が実現されて、ゴーグルひとつ被れば違う世界にだって行くことができて、同性婚が法的に認められてから性差なんて言葉が死語になりつつあって、現金を使う機会はうんと減って、空気が浄化されてるから病気になることも減ったのに。……どうして、生きるのはこんなに苦しいんだろうね」


「生活が便利になっても心まで潤うわけじゃないですから」


 それは裕福そうな身なりをしたユカへのヨルなりの皮肉だった。

 きっとこういう人はさっきまでの群衆と一緒で、自分の苦痛や苦悩など分かりはしないと決めつけた。

 それに対してユカは何も返さず、雨だけが静寂を埋めていた。


「……雨、早く止みませんかね」

「秋の長雨って言うし、どうだろうね……」

「それ、あと一週間は先じゃないですか?」

「さあ。お天道様も急いでるんだよ。きっと」

 ユカはお茶目に言った。

「……こんな時間に女性ひとりで夜道を歩くなんてどうかしてますよ。ここが治安悪いことくらい……」

「知ってるよ」

「どんな目に遭っても……」

「うん。分かってる」


 ユカはなんてことないように被せて返した。ヨルは発した言葉を止められ、口をつぐんだ。

 ユカはそんなヨルにそっと寄り添う。


「つかれたよね」


 ユカの優しい言葉がヨルの心に染み渡る。

 核心をつくその言葉に胸が軋み、鼻の奥が熱くなった。ヨルは無言のまま、じっと自らの感情を、歯を食いしばって耐えた。


「ねえ、ヨルくん。うち、来ない?」

「……」

「疲れた時くらい誰かに頼ってさ。休もうよ」

 ヨルは感情のない瞳のまま、ひとつ頷いた。もう何もかもどうでもよかった。


「歩ける?」

 ユカは片手を差し出す。


 ヨルはその手を取らず、返答せず立ち上がった。足取りははっきりしているし、目の焦点も合っている。ただ、瞳の奥は虚だった。


「それならよかった。男性一人抱えながら家まで帰るのは大変だからね」

 ユカはころころ笑い、空を見上げた。

 そして静かに口を開く。


「今日は中秋の名月」


 その独り言と同時に雨が止み、雲間からは満月が顔を覗かせた。

 ユカは傘を畳んだ。

 その横顔は、今にも消えてしまいそうな笑みをしていた。

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