1-3.理不尽な社会

「ふざけんじゃねえ!」


 朝から夕方まで仕事をこなした後、ヨルは予定していた時間の8分前に本来所属している会社に戻った。

 そして早々、ヨルは理不尽な罵声を浴びせられた。


「申し訳ありません」


 ヨルは直角に頭を下げる。そこにタバコの煙がふうと吹き付けられる。


「あのねえ、謝って済む話じゃないのよ。時間厳守は社会人の基本でしょ? わかる?」


 ねっとりと、湿気のように絡みつく不快な声がヨルにかかる。

 ヨルの勤める黒羽電算カンパニーは、主に大手企業のシステム開発を請け負う会社だった。実態はただの下請けの下請けのさらに下請けだ。


 でっぷりと太り脂ぎった中年男は、その社長だ。とはいえ零細企業。

 従業員もわけあってヨルひとり。

 他は派遣や個人事業主のプログラマでどうにか仕事を回している状態だった。


「それとな」


 突然ドスの効いた低い声と鋭い口調に変わった。社長はヨルに一枚の紙を乱雑につきだした。ヨルはそれを手にする。

 書かれていた文字は、もう二度と御社を利用することはない、という内容だ。


 どうやらこっちが本題らしい。

 貧乏ゆすりが不機嫌さを殊更に強調していた。


 ヨルとしてはITの知識がゼロの状態で入社し、独学で勉強をして、誠心誠意、一所懸命尽くし、失礼のないよう仕事を行ったつもりだった。


「私は、その……! 精一杯行わせていただいたのですが……」


 書かれている内容はどれも曖昧なもので、根拠もない。事実無根とまでは言えないが、かといってこちらに非があるとは認めがたいクレームだった。


 そもそもこれが本物の文書かどうかさえ怪しい。捏造の可能性は十分にあった。しかし真っ先に責任を問われ、追及されるのは唯一の社員であるヨルだ。


 実際、以前の現場で元請けの責任者からヨルに非がないことは説明された。

「コンプライアンスが厳しくなってきていて、社長は暴力団関係者と裏でつながりを持っているらしいから、解雇せざるを得ない。あなたには責任はないけれど、すまないね、こんな世の中だからさ」と申し訳なさそうに言われたのだ。最後には「仕事熱心だし、優秀な人材だから、手放すのは惜しいよ」と気休め程度の慰めの言葉がかけられた。


 だが、社長はそんなことなど関係ないと、全ての責任はヨルにあると押し付け、罵倒する。


「あのなあ」また小太りの中年男はねっとりと口を開いた。


「うちは零細企業なの。わかる?」

 煙を吐きながら、小馬鹿にしたような口調。

「はい」

「零細はねえ、信頼が命なんだよ、それをさあ、お前ごときが潰してくれちゃって。ここ、金融機関の元請け会社でなあ。良い仕事を振ってくれて羽振りもよかったんだよねえ」

「はい」

 はあとため息が聞こえた。

「はい、じゃねえんだよ!」


 社長は叫び。机を蹴り飛ばした。

 ついであった茶は飛び散り、書類が散乱した。灰皿に溜まっていた灰が空気を舞い、カーテンの隙間から指す西日が薄橙に染めた。


「なあ」

 より強い口調で、なおもでっぷりと座ったまま、小太りは話した。

「てめえ、何すりゃいいかわかる?」

「……」


 ヨルは答えられなかった。いくら逡巡しても答えが浮かばなかった。できることは誠心誠意謝ることだ。それ以上といっても菓子折を持っていくくらいのことだった。


「でけえ図体をした無能」

 ため息とともに罵声が聞こえた。


「おい」

 社長はヨルを呼んだ。

「はい」

「灰皿」

 小太りはそれだけ言い、顎で指した。床に飛んだ灰皿を拾えと言うことらしかった。

「はい」

 ヨルは従順に、まず机を直し、恭しく小太りの前に置いたあと、灰皿をそっと置いた。小太りは手にしていたタバコを適当に投げ捨てた。火は消えていた。

「おい」

「はい」

 もう言われることはわかっていた。

「拾え」

「はい」


 機械のようにヨルは小太りの唾液のついたタバコを拾った。一本二十四円だろうか。そんな無意味な思考がふっと浮かんだ。

 灰皿に捨て、またもとの立ち位置に戻った。


「言われることはもうわかってるよな?」

 ドスの効いた声だった。

「……」

 黙ったのはせめてもの抵抗だった。かなわないと知っていても、無意味だとわかっていても。

「お前、クビな」

「……」


 なおも黙ったままのヨルを見て、社長はちっ、と舌打ちをした。不快な音が妙に閑散としたオフィスに響いた。


 それもそのはず、社長が理由でみなやめていったからだった。

 理不尽な要求に耐えきれないとやめ、仕方がないと耐えたものは鬱になり辞職し、女性社員は軒並み初日で辞めていった。理由はセクハラだった。

 ヨルは最後のひとりだった。給料は二桁にようやく届く程度。なけなしの収入源も、もう零になるのだ。


 ヨルのはらわたが煮え繰り返った。なんでこんなやつに。その思考と同時に頭が暑くなり、ぼうっとし、次には、「うぉえ……」吐き出していた。


「汚ねえなてめえ!」

 危機と怒気入り混じった罵声が浴びせられ、遅れてゲロを吐いたのだとヨルは気づいた。

「さっさとそれ片して帰れ」

「……はい」


 ヨルは袖で口元を拭ったあと、モップとバケツを取り出してオフィスを掃除した。淡々と無表情のまま作業だけに集中した。入社してから何度もした作業だ。社員を恫喝しては散らかしお茶を浴びせ、気に食わないことがあれば灰皿を投げ捨て片付けさせる。そんな男であることは当に知っていた。

 少ない手荷物をまとめあげ、支給されているノートPCを置いた。


「失礼します」


 そしてオフィスを去った。社長からの返事はなく、ついには一瞥をくれることさえなかった。

 

 ・・・

 

 書類数枚書かされてヨルは解雇された。

 会社の借り上げアパートからも追い出され、路頭に迷ったヨルはなけなしのお金で生活をしていた。


 求人を探しても就職難の現代では中途採用など無いに等しい。あったとしても求められているのは目に見えて役立つ資格や経歴を持っている人か、一定以上の学歴を持つ人だった。


 ヨルのような経歴、資格ではスタートラインに立つことすらできない。あの社長が雇用保険に加入させるわけもなく、失業保険すら受けられない。


 朝の炊き出しを頼りに夜中は歩き通し、おにぎり二個をお腹に入れたあと、ハローワークで求人を探す。そのあとは駅や公園で寝て体力を温存した。


 生きて、生きて、生きて、生きて……。ただ、生きた。何故かと問われてもそこに意味も理由もなかった。


 夜が更け、また雨が降り始める。

 なけなしの貯金も一週間をせず底をつきかけていた。

 寝る場所を探していると、いつのまにかユカと出会った雑居ビルの前にたどり着いていた。


 立て壊しもされずにそのままだ。

 埃臭さと、交わした会話が想起された。それはユカが名乗った後のことだった。


 ・・・


 雑居ビルから出る前、ヨルの髪はまだ少し濡れていて、ユカの服は乾き始めていた。


「才能の才に果実の果でサイカ。結果って書いてユカ。変わった名前でしょう?」

 ユカはそう言った。そして。

「『十時のおやつは才果の製菓〜♪』って聞いたことない?」

 と、聞き馴染みのあるCMのメロディを口ずさんだ。先ほど歩いているときにも電子広告から流れたのをヨルは聞いた。


 十時という従来の三時とは違う新鮮さと、午前中、昼食前に軽く食べるのに最適なつまめるお菓子シリーズが大ヒットし、今ではお菓子といえば才果製菓さいかせいかと誰もが口を揃えて言うほどの大企業だった。


「……知らないですね」ヨルは嘘を吐く。

「あ。そう。ならいいんだけどね」

 ユカはまたしてもあっさりと言った。

「まあ、私はその才果とは無関係だけどね」

「そうでしょうね」


 きっとそれほどの大企業の令嬢ならこんな雑居ビルで濡れそぼった格好のまま雨宿りなどしないで、送迎の車のひとつくらい呼ぶだろう、とヨルは思った。

 ユカはヨルを見ながら話すも、初対面で必ず聞かれることを聞いてはこない。


「……身長のこと、言わないんですね」

「ん? 君の背が高いこと? だって。それがコンプレックスだったら嫌じゃない」

「別に気にしてないんでいいですけど。聞かれなかったの初めてで」


 ユカはヨルの背を見て驚くこともなければ、下から上まで見て、目で縮尺を測ることもなかった。ほとんどの人はそうするのに。すれ違う人たちでも、電車で隣り合った他人でもそうだった。


「君、何センチ、って?」

 ユカは知らない誰かの真似をしてみる。

「そうです」

「何センチなの?」

「192センチですよ」

「わあ、おっきい」


 ユカはころころと喉を鳴らして笑った。

 そんな会話を交えて、ユカは外を指した。


「雨、止んだね」

 コツンとユカは一段登った。つむじはちょうどヨルの視線の高さにあった。


「出なくちゃね」

「ええ。またいつか」

「はい。また機会があったらお会いしましょう」

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