チャツネで始まるレシピに合わせて 〜she's hotter than spice〜

K

チャツネで始まるレシピに合わせて 〜she's hotter than spice〜

 手料理を振る舞う事はあってもせいぜい身内止まり、ましてや他人の手料理を口にするなど生まれて初めてだと天野美咲あまのみさきは思った。

 体温並みの記録的猛暑だと告げるテレビが目の前にあるのに、牛のブロック肉が焼ける音と匂いの方がずっと近いように感じる。ワンルームの安アパートは玄関を入ってすぐがキッチンだからそんなものかもしれない──そんなわけない。

 美咲は背後のタコ足コンセントに手を伸ばし、スマホを充電するついでに、昭和みたいな数珠つなぎの暖簾で区切ったキッチンを見た。

 しなやかな褐色の美脚は、しかし玉に瑕とはこの事で時折、蚊に刺されたくるぶしを一方のつま先で掻きむしっている。夜になっても室温計が三〇度近い熱帯夜、調理人は切り揃えた前髪を額に貼りつかせ、シャツの胸元に染みが出来るのもいとわず、懸命にカレー鍋と格闘していた。

 緑川翠みどりかわみどりいんを踏んだ名前もそうだが、垢抜けた美貌はすれ違っただけでも印象に残る。これだけの顔で生まれてくるとノーブラにシャツ一枚、ローライズショーツ一丁でも様になってしまう。

「お待たせやぁ、どぉぞ」

 教科書通りのカレーだった。

 翠は自分の皿を持たず、そそくさと扇風機を抱き寄せるやポニーテールを持ち上げ、強風を浴びる。汗を吸ったシャツがたなびくと、翠の匂いが鼻をくすぐった。

「気にせんで。先に食べやって。うち、暑くてかなわんわ」 

 その声は扇風機の羽で刻まれて、玉ねぎみたいにみじん切りだった。

 美咲は小さく「いただきます」と言い、手を合わせてスプーン一杯、牛肉とルウを絡めたご飯を舌に乗せた。

 噛むほどに滲み出る肉汁とコクとキレのバランスが良いルウ、そこにご飯があればもう──

「んんぅ〜! 翠ちゃん、これ美味し──」

 曰く、辛味とは味覚でなく痛みである。

 美咲は特にスパイス系の辛味に敏感で、成人してからも変わらなかった。

 たまらず顔をしかめた。

 舌を刺すような激痛、吹き出す汗。不幸中の幸いは、食が細いからとごく少量を前もって伝えておいた事だが、

「どしたん? 毒は盛ってへんで。あれか、舌、ヤケドしたん?」

「ううん、そう。ヤケドした」

「ふふ、どっちやねん。見せてみ。舌、べってしてみ」

 本当の理由を文字通り飲み込み、美咲は言われるままに舌を出した。

 翠は小さな花瓶みたいに大きなグラスで氷水をあおっていて、おもむろにその冷え切った舌を美咲の舌に押し当てた。

 痛みで目をつぶっていた美咲は冷感と柔らかな感触に驚き、しかし目を開けられなかった。おそらくは片手にグラスを持ったまま、いわゆる顎クイの要領で舌を押し当ててくる翠が脳裏に浮かんでいたから。

「冷えたやろ。食べ。食べんと暑さで倒れてまう。美咲ちゃん細いねんからさ」

「うん……」

 なるだけ噛まないようにして飲み込むが、牛肉はそうはいかない。辛いとは言えなかった。ただただ顔をしかめるしかない。が、旨いのもまた事実だった。

「そんな熱い? えらい猫舌なんやね」

 翠はまたグラスをあおり、例によって美咲の舌を舐め上げる。どちらとなく白々しいと思いながら、美咲は話すにも味わうにも不満足な舌を出し、翠は黙って舐め冷やした。

 よほどの時は氷を口移しで含ませた。

 そうして奇妙な、あらゆる意味で刺激的な食事を終えた美咲は小さく「ごちそうさま」と言った。

 のちに子供向けのレトルトカレーを買いに行くのはまた別の話、それが女児向けアニメのパッケージを理由に翠が美咲を大いに冷やかすのはさらにまた別の話になる。

 美咲は氷水のグラスに手を伸ばした。

 自分では見えないのに体の火照りから、きっとうなじまで真っ赤だと分かった。背中をくすぐるように伝う汗も、涙で滲んだ見飽きたワンルームも、クーラーや扇風機の音も、何もかもが鮮明すぎる──そして、舌が燃えているかのように熱い。痛みを通り越しているのに、でも不思議と心地よいのだ。

「おっと。飲まんで?」

 背後から伸ばされた手にグラスは遠ざけられた。翠の吐息がうなじに当たる。冷たいのに熱かった。

「ふふ、少食やのに今日はよう食べよったね。でもスイーツもあるねんで」

「スイーツ……って?」

 スカートのホックを外された。下腹したばらの締めつけから解放される一瞬の快感と、ふくれた腹を確かめるかのような翠の指、汗ばんだ手のひらが蒸す、その熱気。

「なぁんね、まだお腹余裕あるんやん」

「うん。まだ、入るかも。スイーツって?」

 翠は美咲の編み込みの髪を掻き分けて、耳元でささやいた。そろいのピアスに口付けるように、

「……マンゴーラッシー」

 最後のシの音は歯の隙間から息を漏らしただけのようだった。それだけで美咲の理性が揺れた。言ってもないのに「翠の」と勝手に付けたマンゴーラッシーとはなんだろうと妄想が回りに回る。

「飲むやんな?」

 美咲は意を決してうなずいた。

 キッチンに向かう翠の足音と自身の鼓動とが重なって、本当に鼻血を噴くかと思った矢先、目の前に置かれたのは。

「はい、マンゴーラッシー!」

 なんの事はない、正真正銘、グラスに並々と注がれた淡いオレンジとイエローを混ぜた色味の、そう、みんな大好きマンゴーラッシー。

 美咲は思わずそれと、ルウだけを盛った皿を手に対面に座った翠とを見比べてしまった。

「なぁーんね、美咲ちゃん? マンゴーラッシーやろ? 思ってたんとちゃう?」

 頬杖をついて翠はくるくるとスプーンを振り回す。美咲とてまったく裏切られた感じはしないが、この関西弁の女が振り回すスプーンと自分とを重ねずにはいられなかった。

 一矢報いたい美咲は、

「……ちゃう。いや、違わないけど」

「だからどっちやねん!」

 女芸人顔負けの景気の良いツッコミをされてはもう仕方ない。おもむろにマンゴーラッシーのグラスをあおると、翠もカレールウをスプーンに一杯、口へ運んだ。

 それから二口、三口と運んだが、スプーンをくわえて皿を持ち、いそいそと美咲の隣にあぐらを掻いた──かと思えば、サッと美咲の手からグラスを奪い、マンゴーラッシーをあおった。

「あ、ちょ、わたしの!」

「ヨーグルト足りんでさ、これ一杯しかないんやもん」

 ようやくありつけたオアシスの水をすっかり奪われた挙句、これまた思わせぶりに「ごちそうさま」と言い放つ翠の唇を、美咲は奪った。

 ちょっとやそっとでこのヒリつきと火照りが冷めるわけないのだ。

 いつの間にか、翠は皿もスプーンも置き、美咲の膝の上に乗って口付けに応じていた。

 そして一言、

「ぜんぶあげるよ、うち」

 少し熱の引いたカレーとマンゴーラッシーの残り香は、美咲と翠の匂いに溶けていく。

 熱帯夜の安アパートの一室に二人、いまは南国のリゾート地のように思えるのだった。


(了)

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