10月の蝉が見た羊雲

赤宮 里緒

10月の蝉が見た羊雲

 整備されたアスファルトを滑るように走る。電力を借りない自転車は重たく、普通に漕ぐだけで額にじわりと汗が滲んだ。加えて、季節外れに強い日射しのせいで気温は30度を超えている。何月だと思っているのかと天気予報に向かって毒づいたのは昨日のことだ。

 下駄箱や駐輪場ですれ違った友だちやクラスメイトにおはようと声をかけて、話の輪に加わる。皆でハンカチやタオルで首や顔を拭いながら教室へ向かいぴったりと締め切られた扉を引けば、ひんやりとした風が全身を包んだ。扉を開けた私たちを見たクラスの子が、元気な声でおはようと言った。私も負けないくらいの声で挨拶を返す。


「暑い-。いつまで夏なのー」


「ねー。もう暑いのはいいよ」


「紅葉狩り行く頃までには涼しくなるんかなあ」


「このまま暑いんじゃない?」


「やだー! 汗かきながら歩きたくないっ」


 鞄から取りだした下敷きで顔を仰ぎながら、騒がしい友人たちをからかう。ハロウィンまで暑かったらどうしよう、長袖の仮装なのにと頬を膨らませたのは親友の恵美だ。


「気合い入ってるじゃん」


「だって、数年ぶりに人数制限なしで遊べるんだもん。楽しまなきゃ勿体ないでしょう」


「そうね。恵美の仮装楽しみにしとこっと」


「舞もちゃんと来てよー? 仮装一緒に選ぶからさっ」


 屈託のない恵美の笑顔に心がぽかぽかと温かくなる。分かってるよ、と返事して、荷物を整理する。

 世界中で感染症が蔓延して早くも3年が経った。3年の間に楽しみにしていた行事が幾つか中止になり、憧れていた高校生活は大した思い出もないまま過ぎていった。気付けばセーラー服に袖を通すのもあと半年。何の楽しみもない日々は苦痛で、それでも無駄にはしたくないからと友だちと過ごす時間だけは大切にしてきた。10月末のハロウィンは、学校行事ではないが青春の1ページに刻むためにクラスメイト全員で参加する。門限や塾などで短い時間しか顔を出せない子もいるけど、それでも意志は変わらなかった。


 3年生の春を迎えいつの間にか夏休みも終わっていた。色づいていく街、涼しさを運ぶ柔らかな風、手が届きそうなほどに近づく空と羊雲。それらを見て時の流れを感じるのだろう。そう思っていた。だが、現実には長引く夏に苦しめられている。終わりに向かう感傷に浸ることも出来ないまま、日付だけが着々と進んでいく。もっと風情のある時間を楽しませてほしいのに、こうも暑いとスポーツや読書を楽しむ気にもなれない。


「早く涼しくならないかなあ」


 恵美が誰かに嘆いた言葉が耳に届く。全くだよ、と内心で賛同しながらため息をついた。


***


 お経のような淡々とした声音で解説する教師の声を遮るように、耳を劈く低音が窓の外で響く。換気をするために開けていた窓からは、既にいなくなったと思っていたあの声が聞こえた。


「蝉鳴いてる」


「もう9月末なのにね」


「まだ暑いもんねー。夏終わらないんじゃないの」


 授業そっちのけでこそこそと喋る声が教室の後ろから聞こえた。明後日には10月になるのに、元気な蝉だなあとぼんやり思った。窓に向けていた目を前に戻すと、先生は喋るのを辞めて開いている窓の方を見ていた。訝しんでいると先生は頭を私たちの方へ戻しいつになく優しい微笑みを浮かべた。


「この時期に蝉が鳴くとは珍しいなあ」


 教室内が困惑した雰囲気に包まれる。皆、何も言わず首を傾げている。私も皆と同じように、先生の言葉を待った。


「長ければ5年以上、土の中で生きて外に出るのは7日間。7日間でパートナーを見つけて次の世代へ命を繋ぐのが蝉の一生だと皆も知っているだろうが」


 先生は、再び窓へ目をやった。思わず私もそちらを見る。


「暑い時期に土から出てくるのが普通なのに、9月末に出てきてしまった。パートナーになるメスもいなければ、同じように鳴くライバルさえいないだろうな」


「どういうこと?」


 誰かが呟いた声に答えるように、先生は言った。


「世界で自分だけしかいないと分かった時、蝉は何を思うんだろうと気になってな」


 しん、と教室が静かになった。急に、夏が終わった後に覚える、胸をきゅっと締め付ける苦さを覚えた。


「よし、授業に戻るぞー」


 それまでとは一変して、いつものつまらない授業をする先生に戻りクラスの皆も気怠そうな様子になった。でも、私だけは、暑さを感じなくなった季節に覚えるざわざわした感覚を拭えなかった。

 元気な蝉の声が、まだ外から聞こえている。


***


 恵美をはじめ普段から一緒に過ごしているグループの友人たちが、休憩時間に先生から受けられる受験対策に行った。そのせいで、今日の昼休みは珍しくひとりになった。


「大事な対策なら授業中にやってくれればいいのに」


 残り短い学生生活を、たった数日の試験に向けた対策に費やすのは勿体ない。もっと、心に残るようなことを1秒でも多くすべきだ。ぶつぶつと独り言を吐き出しながらも、遅れを取り戻すために頑張る恵美たちを応援する気持ちはちゃんと持っている。

 校内にある、木々が植えられた庭に設置されたベンチへ座る。お母さんが毎日作ってくれているお弁当を広げて、ひとりでもそもそと食べる。まだ暑さを忘れたくない太陽のせいで相変わらず外は暑い。10月も2日目に入ったというのに、だ。

 卵焼きを頬張った時、どこからか蝉の声が聞こえた。数日前、授業中に鳴いた蝉だろうか。気温に騙されて今更目覚めてしまった彼は、今日も変わらず元気に鳴いている。


「あーあ。お天道様が涼しくしないから、蝉くんがひとりぼっちの世界で目覚めちゃった。ちゃんと責任取りなよー」


 じりじりと照りつける太陽に向かって文句を言ってみる。当然返事はない。私の気遣いを余所に、蝉は変わらず鳴き続ける。


「……誰もいないって、どんな気分?」


 蝉に聞いた訳ではない。ただの独り言だ。言ってみたくなっただけだ。


「鳴いても、鳴いても、自分と同じ鳴き声は聞こえない。女の子が気にして近づいてくることもない。ただひとりで生きている」


 じー、じーと蝉は鳴く。私は、その音から何も読み取れない。


「自分が憧れた現実はないと、使命を果たせないと気付いたら……あなたはこの10月に、何を見出すの?」


 文化祭も、合唱祭も体育祭もなくなった1年生の秋。マスクをして、お互いの顔を覚えるのも苦労して、クラスメイトと打ち解けるのに半年以上かかった。ようやく絆を結べたと思ったら次の学年にあがりクラスはばらばらになった。最初の1年を共に過ごした人たちと離れるのは堪えるものがあった。思い出を大して作れなかったことが悔しくて、進級してからもクラス全員で度々集まるぐらいには仲が良い。

 2年生からは、文系と理系に分かれることを理由にクラスのメンバーが変わることはない。それでも、1年目と同じことは繰り返したくないと、例えイベントが中止になっても後悔しないように自分たちで思い出を作ろうと結束した。今月末に参加するハロウィンもその一環だ。

 高校生活に夢を見ていた頃の私は、1年目で死んだ。数ヶ月間の休校後に上手く輪に入れず、お互いによそよそしい会話しか出来ない中で何のために学校へ来ているのかも分からなくなった。

 鳴いているあの蝉も、いつか同じことを感じるのだろうか。独りよがりの希望を抱いて頑張っていた自分を、滑稽だと嘲笑したくなるだろうか。蝉は答えない。意味があると信じているのかそうでないのか分からないが、必死に鳴いているだけだった。


「まーいー!」


 遠くから名前を呼ばれて、声がした方を見る。受験対策に行っていた恵美たちが、渡り廊下から私へ手を振っていた。


「終わったよー! 一緒にご飯食べさせてー」


「分かったー! すぐ行くー!」


 皆に届くよう大きな声で返事する。恵美たちの近くにいた生徒たちがこちらをちらりと見た気がしたけど無視した。途中まで食べたお弁当を片付けて、走って校舎へと戻る。

 背後から、蝉の声は聞こえなかった。


***


「あ、冬服だ」


「うん。急に冷えたから、もう着ちゃおうと思って」


 下駄箱で偶然会った恵美は、紺色のセーラー服に白のスカーフへと替わっていた。この学校の冬服だ。冬服を見ると夏も終わりだと感じるのは毎年のことだ。

 衣替えを案内するプリントを配られたのは、蝉の声を教室で聞いた日だ。あの日から一週間。数日前まで暑かったのが嘘のように涼しくなり、半袖では肌寒さを覚える気温になった。通学路に植えられている銀杏や桜の葉も、深緑から黄色や赤へと着替え始めている。街を歩く人も落ち着いた色合いの服や薄手のカーディガンを羽織る人が増え季節はすっかり移り変わっていた。

 自分の机と、まだ登校していない後ろの人の机を向かい合わせにする。私は自分の席に、恵美はその向かいに座った。朝、7時半頃に登校して恵美と2人で勉強会をするのが私たちの日課だ。


「3日前まで暑かったのにね」


「ほんとね。蝉も鳴いていたのに」


「外でお弁当食べていた日よね? あの日から聞かなくなったね」


「次の日から涼しくなったからねー」


 机に広げた教科書とノートに、問題集の回答と解説を書き込みながら相槌を打つ。クラスの子が心配していた、紅葉狩りに行く日までには木々も衣替えを終えているはずだ。さくさくと落ち葉を踏みしめながら、青空の下で黄色と紅を見上げるのは楽しいだろうなと口元が綻ぶ。

 気温の移り変わりと共に、胸をきゅっと締め付ける、ざわざわとするような、落ち着かない気持ちは例年通り私の心を覆っている。寒色ばかり身に纏っていた友人たちがカーキや芥子色を中心のファッションを楽しんでいるのを見ると、ちくちくと胸が痛む。一体、何を悲しんでいるのかも、辛いと感じているのかも分からないままに寂しさを覚えるのだ。


「何となく、さ。蝉のことをずっと気にしていたの」


「そうなの?」


 私の言葉に、恵美は目を丸くした。どうして、と首を傾げる彼女に気まずさを感じて頬をかきながら打ち明ける。


「先生が、ひとりぼっちのまま生きるーとか言うからさ。何か、可哀想っていうか……気になったんだよね」


「なるほどねぇ。舞はよく本読むし、想像力あるもんね。考えちゃったんだ」


「うーん。そうかも」


 恵美は、いつものようににこにこしながら私の話を聞いてくれた。彼女の隣が居心地良いのは、こういうところだ。


「どんな気持ちで1週間生きたのかな、あいつ」


「……私が同じ立場だったら、何で生まれたんだって思っちゃうかも」


「分かる。私も思うよ、多分」


 恵美に同意して、頭に入らない解説をのろのろと書き写す。どこかで息絶えた蝉を想像して、ちくりと胸が痛んだ。夏が終わると寂しいのは、蝉たちの声が聞こえなくなるからかもしれないと何となく思った。


「でもきっと……他の皆には出来ないことをやり遂げたって、誇りに思っているよ」


「え?」


 言葉の意味が理解できず私は眉を寄せる。恵美は目を細めて、ふふ、と小さく笑った。


「パートナーは見つけられなかったとしても、他の子たちは見ることが出来ない、夏の終わりとこの季節の始まりを見ることが出来た。そう考えると何だか得した気分にならない?」


 彼女の発想に舌を巻きながら、確かにそうかもと頷く。先週、先生の言葉を聞いた時から抱えていたもやもやしたものがぽろりと抜け落ちたように、心がすっと軽くなったのが分かった。


「生まれたこと、後悔せずに過ごせたのかな」


「きっとそうだよ。私はそう信じる」


 夏の出口に生まれた蝉は、10月に鳴いた。何を見て、何を感じ、何を抱えてその生涯を終えたのか知ることは出来ない。だが、彼はあの一週間を空の下で過ごしたことを憎んでいない。そう信じたいと思った。


 蝉のいなくなった街は、少しずつ冬へ歩んでいく。

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