『四日目』(前半)

   四日目


 この屋根裏での目覚めは何度目の事になるのだろうか? その記憶が僕自身にあろうが無かろうが、同一である筈の自己が過ごした時間は、僕の中に積み重なっていると言っても良いのだろうか?

 薄目を開けた顔の上を、小さな鳥の影が通り過ぎていった。一度影になった瞼の裏を光に刺激され、しかめた顔で立ち上がる。

「しまったな、昨日の夜更かしが祟った」

 “昨日”の記憶があるのを確かめながら、机の上の魔法瓶からコップに水を注いで、薄紅の花弁を垂れる“ロンドベル庭園の魔草”に水をやった。花は心地の良い鈴の音を鳴らし、心地良さそうに銀色の茎を揺らしていた。

「ん……?」

 ふと僕はそこで、言葉にも言い表せない妙な胸騒ぎと、何とも言えない居心地の悪さを覚える。

「スノウ?」

 相棒の姿を求めて視線を彷徨わせると、彼は浮かない顔付きをしながら部屋の隅で頭を抱え込んでいた。スノウは足を崩してラフに座り込みながら、僕が感じているのと同じ違和感を確信しているかの様に、尋常では無い様相で口元に手をやりながら、足下の一点を凝視し続けていた。

「……レイン、聞いてくれる?」

 彼はこの不穏な空気の正体にいち早く察しを付けているのか、影になった部屋の隅の暗黒から、解いた髪を後ろでハーフアップにしながら僕に言った。

「え――」

 確かにそうだ。僕が胸に感じていたこの違和感、何百、何千回と繰り返し続けたこの朝に漂い続けていた筈の、お母さんの作るあの温かな朝食の香りがして来ない。

 ただお母さんがいつもの時間に料理をしていない、それだけの事。そんな些細な事が、同じ一日を繰り返し続ける僕らにとっては重大極まる事件に等しく……胸に蠢くこの不安に居ても立っても居られなくなった僕は、屋根裏の梯子を飛び降りて行った――

 無我夢中になって、風のように駆け降りていく階段の景色。昨日まであった食卓の柔らかな空気は消え去って、この先の光景に何か……何かわからないけれど、荒涼とした枯れた大地が広がっている様な錯覚を覚えていた。

「大丈夫、ちょっとしたトラブルがあっただけさ」

 自らに言い聞かせているみたいに、背後のスノウへ必死の笑みを向ける

「大丈夫、大丈夫さ……! 僕らは同じ時間を繰り返し続けてる。お母さんだってそう。この村に囚われた者は、止まった刻の中を生き続けるしか無いんだから!」

 ――わかってる、そんな事言葉にしなくても。でも、だったら――どうしてこんなに心が騒めくんだ……っ!

 スノウと一緒に居間へと続く扉を押し開いた次の瞬間目撃した。そして同時に、僕の心の隅を突く正体不明の不安の渦が、そこに現実となって立ち現れた事をわからされた……

「ぉ……か……ぁさ――」

「ぁ……っ」

 横向きになった顔に、濁った目を剥き出し、うつ伏せになって倒れたままの――明らかに……そう、それは素人目にも一目で理解出来てしまう位に、白く、冷たく、雪の様になった――お母さんのだった。

 声にもならない僕らの悲鳴が、村に轟く。


   *


 本降りとなった雨の中で、僕とスノウは北の空き地に連れられていた。今宵の夜会も中止され、村人全員が参列してのお母さんの葬儀が執り行われる。

「…………なんで、なん……で?」

「ねぇ、しっかりしてレイン、ねぇってば」

 まるで僕らの代わりに泣いているかの様に号泣したリズが、涙と鼻汁に塗れた姿で僕の袖に縋り付いていた。僕は何が何だかわからなくて、未だに情報の整理が何一つ出来ないままの混乱した思考でレインコートを深く被り、棺桶を運ぶ村の女たちの後ろに付いていた。スノウも僕と同じ様にして、黙々と、何を語る事もなく顔を俯かせている。

「肉体の変化は……リセットで元通りになって、僕らは同じ時を繰り返していて、だから何もかもが同じのまま、変わらない筈で……」

 僕は戯言を繰り返す。冷たい雨に肌を射抜かれ、酷い現実に容赦も無く刺し貫かれて。そんな僕を不憫に思ったのか、セレナもグルタもティーダも、誰も。僕に語り掛けようとはしなかった。沈黙する空気の中には、リズの咽び泣く声と雨音だけがあった。

「僕らには、無限の時間がある筈で……ッッ」

 歯軋りしながら見上げた表情は濡れ、顔は火を吹くように熱く、四肢の感覚はぼんやりとしていた。呼吸の仕方がわからなくなって、不規則に肩を上下して口元を喘がせるしかなかった。水溜りに反射した僕の姿は、この悲痛の全てを表現している様で、見るに堪えなかった。

 ――霧の魔女よ。今も何処かで僕らを監視しているのなら、こんなに無様な姿が見れて、満足しているか。

 何処までだって哀れだろう、僕の仮説が根底からひっくり返されたんだ。ここまで積み上げ、盤石かと思われた固い地盤が。

 

 もう何がなんだかわからない……。頭がこんがらがって、最愛の家族を失ったこの感情と、思考の混乱とが入り混じって、もう、何も――

 茫然自失と歩いていくとやがて、灰色の雨空を背景に細木にもたれ掛かるイルベルトが、路傍の石の様に立ち尽くしているのにすれ違った。

……」

 そう囁き、黒く大きな傘に顔の半分を隠した仮面の男は、ハットに片手を添えながら参列に加わった。僕が何も言わずに目を伏せたからか。誰も見知らぬ商人の参列を咎めたりはしなかった。

「お母さん……」

 瞬きを忘れた僕の瞼を、頭上から垂れてくる雫が強制的に固く瞑らせる。

 すると深い闇が来る――――

「……お母さんっ」

 心に巨大な穴が空いたみたいな、痛々しい声が僕の耳に聞こえた。

 みんなは粛々と通例の儀式を執り行う。僕らは側の切り株に並んで腰掛けて足元を見つめ続ける。黒い棺桶に納められたお母さんに、村のみんなが別れの挨拶を済ませていく。

「……イルベル、ト……?」

「……」

 冷たい雨に打たれ続ける背中が、フッと軽くなったのに気付いて視線を上げた。そこには僕らを覆う位に大きな蝙蝠傘こうもりがさを広げたイルベルトが立っていた。しかし彼は何を語るでも無い。僕らへと傘を寄せ、雨粒に濡れていく彼の左肩。その手前で横を向いた白い仮面の視線に、僕は彼の口から語られたと言う、記憶に無い筈の声をフラッシュバックさせていた。

 ――同じ条件下でのループなどあり得ない……

 ――仮にそう体感しているのだとすれば、それは疑似的な模倣に過ぎない……

 ――必ず何処かにが生じてくる……

 ――不老不死は神の領域……

 ――史上最高峰の魔術師と呼ばれたあの霧の魔女であったとしても、万物の掟は破れない……

 ――キミたちの中で流れる筈であったは、一体どこにいってしまったのかな……

「キミの言った通り、完全なる繰り返しなんて無かったんだね」

 何も言わず、ただ前を見据えるイルベルトを、僕は下から見上げていた。返答の無い仮面に向かって独白は熱を帯び始める。

「僕らの刻は止まってなんか居なかったんだ、僕らの世界は止まっている様に見えて、ゆっくりと死に向かっていたんだ!」

「……」

「でなきゃ、お母さんが死ぬ筈が無い」

 お母さんの亡骸を天へと送り届ける儀式は、この体感に置いて少しの猶予も無く終了していった。何も言わないイルベルトを差し置いて、僕らは最後に黒い棺桶の中に眠るお母さんの顔を眺め、その頬に触れた。

「冷たいね、雪みたいに」

 スノウが言って、僕は頷いた。

 それからお母さんの遺体を埋葬する事になった。なんの前触れも無い突然死……その死因がわからないだけに――そんな風には当然思いたく無いけれど、未知の病気が村中に伝染してはいけないとみんなで話し合い、すぐに土中深くに埋葬しようという事になった。だけれど村の共同墓地は石の壁の外、村から出た先の小さな丘に並んでいて、死の霧の蔓延でしばらく外へ出られる見込みも無い事から、広い空き地になっているこの北の地を仮設墓地にしようという事になったんだ。だからフェリスが抱えた墓標も木で出来た簡易な物で、死の霧が収束した暁には遺体を移し替え、あの丘にしっかりとした石碑を立てて埋葬してやろうという話しになったんだけれど……その計画が達成されようも無いという事を、僕らだけが知っていた。

 ……それでも僕らは手渡されたスコップを手に取り、みんなで家族を天へと送り届ける。誰かが亡くなると、こうしてみんなで土を掘って埋葬するのがこの村のしきたりだ。

 ――離れた所に、傘を差したまま佇んだ魔導商人の黒いシルエットを認めた……その時だった。

「あっ? なんだいこれは?」

「何かが埋まっているのかな?」

 グルタがスコップを突き立てた地点……お母さんを埋葬する予定であった、その土中深くから――

「嘘だろう、なんだよこれは……っ!」

 ――

「なんでこんな所に、こんなにぞんざいに? どうして!? 誰か知ってる奴はいないのかい?!」

 それは…………

 ――だった。

 この不可解な現象を村の全員で目撃し、そして絶句する。恐怖で足元から竦み上がって、顔を歪めて悲鳴を上げる。人の死体がどうしてこんなに手荒に、何故こんなにも雑多に、墓標も棺桶さえも無く、白骨化するほどにずっと埋まっていたと言うのか……?

 だけど僕らはその疑念を一旦側に置き、心を落ち着かせてから、その隣にまた土を掘り始める。お母さんの遺体を早く埋葬しないといけないのだからと、誰しもがその思考を放棄したいと物語っているみたいに一心不乱に……

 だが惨劇は僕らの背を掴んで離さなかった……次の瞬間、僕らは禁忌の箱パンドラの箱を開ける事になる。この冷たい土の中に眠っていた、開くべきでは無かった、禁忌の扉を――

「ウワァア……っ!!」

「また!? まただ、何人の死体が眠ってるんだい、勘弁しとくれよ!」

「誰かが亡くなったなんて聞いてないわっ、何がどうなってるの、この村で一体ナニが!?」

 第二、第三と、並ぶ様に埋葬されていた死体が出現し続け、僕らは最終的に、を掘り起こした。それぞれ埋葬された時期が違うのだろうか、遺体に残された痕跡は全く違い、最後に掘り起こした――恐らく没後一番時間が経過していないと予想される者に関しては、肉や衣類が少し崩れた位で、その身の原型を留めているのだった。

 並び合った白骨遺体は左から新しい順に――背骨の曲がった体の大きな老人男性、金の刺繍の衣服を纏った額の短い女性、頭と顎の下に白い毛髪を残した者、エラの張った頬骨とオリーブ色の毛髪の者、腐敗の進んだ栗色の髪を残した子供と思われる者、そして最後に――毛髪や衣服の残骸さえ残っていない、完全に白骨化してしまった

 底知れぬ恐怖にすくみ上がりながら、横目に死を認めて土を掘り続けた僕らは、最後には誰も何も語り出そうともしなくなって、この逼迫ひっぱくした空気の中で、みんなが何を直感しているのかを悟る。

 ――セレナの祖父と、小麦屋の、白髭のと、僕らの二つ年下の少年、キノコ屋の……

 と、“

「爺さん、そうなんだろう? なんでこんな姿に、なんで、なんで! だって昨日まで――っ!」

 口に手をやり涙を流したセレナが一つの遺体の側に膝を着いていた。それだけじゃなく、行方不明者の家族やそれ以外の者たちも、遺体を凝視しながら故人の名を口にし始める。

 ――符号する、居なくなった者たちと死体の特徴。わからないのは、最後に掘り起こした、なんの特徴さえも残されていない白骨化した子どもの遺体のみ。

 バクンバクンと脈打つ心臓――。どうしようもなく湧き立つ最悪の気配――の匂い――ッ!

 お母さんの眠る黒い棺桶に手を着いて立ち上がった僕は、突風に乗って横から打ち付けてき始めた大粒の雨に坂巻かせるまま髪を踊らせて、額に張り付いたその毛髪の隙間に、悲痛と嗚咽に満たされだしたこの惨状を眺める。

 ――このループの中に置いても、〈死んだ命は還らない〉、そして〈遺体となったモノはそこに残り続ける〉。

 つまり綺麗に並んだこの遺体の真相は、村で誰かが死ぬ度に、僕ら自身で同じ地に埋葬しに来たという事だ。誰かが亡くなると僕らは、同じ様に発想して、同じ土地に遺体を埋葬に来て、その度に遺体を掘り起こしては驚愕し、止む無くその隣に新しい遺体を埋葬する。そうして次の日には全てを忘れて日々を繰り返し続けた。その人たちが死んだ事も忘れて、居なくなった事にされて……彼らはこの北の地に眠り続けていたんだ。故人を思い、立てた墓標も、使用した棺桶も、無慈悲なリセットによって全て消し去られ、巻き戻しの対象とはならない遺体となった彼らだけが、ただ冷たい土の中に残されて白骨化した……。

 ――この現象を理解出来るのは僕らだけだ。僕とスノウとリズ、この呪いの事を知っている三人だけ。村のみんなにとっては本当に訳のわからない現象にしか映っていない。昨日まで側で笑っていた者たちが、死後相当が経過した遺体となって腕の中に帰って来たのだから、意味がわからない。今この状況を俯瞰して冷静に解析できるのは、僕らだけ――

「だからこそ、一つだけわからないんだ……」

「レイン? 何処に行くんだよ、レイン!!」

 必死に呼び付けてくるスノウの声を無視して、僕は一人取り残された小さな遺体へと歩み寄る。身を挺して僕の進行を止めようとするスノウの反発も……今の僕には何の妨げにもならなかった。

「そんなっ、正気では無い目をして……っ! 亡霊の様な恐ろしい目をしてッ、レイン! キミは見るべきじゃない! 知るべきじゃない、解き明かすべきじゃないんだッこの呪いも、の真実も!」

「……」

「きっとその方がキミも……!!」

 まるで幽鬼の様に、弱々しい足取りで土砂降りの中を進んでいく僕を、リズが、イルベルトが、怪訝な顔付きをして眺めていた。僕は背に覆い被さった形のスノウを軽々と抱えるまま、その亡骸をジッと見下ろしていく。

「やめるんだ、レイン――ッッ」

「ぅ……ァ、ぁああ――」

 僕と同じ位の背丈の、子どもの亡骸、

「ナニ……こ……の、記憶――は?! ア、あァっ?!」

 強烈な記憶の欠片に触れて、

「ぁああッッアぁアアアアアア――――ッッ!!?」

 “蘇るフラッシュバックする”――


 石に名を刻み込んだ

 半身を奪い去られたあの痛み、あの慟哭どうこく

 ……発狂するかの如き長き叫び声を耳に蘇らせながら、思い出していく――

 引き裂かれる心。

 狂っていく思考。

 たわむ世界の情景。

 捻じ曲がっていく現実。

 分離したアイデンティティ。

 空虚。喪失。絶望。孤独。悲嘆。

 ……負の連鎖。

 …………渦……渦、渦――渦ッッ!!

 呑み込まれ、霧になっていく――

 ――ボクノ

「ボクノスベテ――!!」

 固く、異常な程固く瞑り、充血した赤い目を開く。見渡す世界が光と闇に明滅シテ―――

 僕は……

 「

 自らと同じ位の背丈の、子どもの白骨遺体の前に立ち尽くしながら、振り返って少し離れた所からこちらを見守っている、リズとイルベルトの真っ黒なシルエットへと問い掛けた。

「誰って……」

 僕の目前で俯いていったスノウが、その前髪で表情を覆い隠していくのを見下ろしたまま、僕は困惑するリズの口元を凝視していった。

 ……リズは絡ませた指をモジリとしながら答える。

「スノウだよ」

「……うん、そうだ……そうだよね!」

 ぎこちない声で僕が彼女に微笑み掛けると同時に、黒い傘を閉じて雨に濡れ始めたイルベルトは言った。

……

 顔を上げたスノウの瞳に反射する僕の黒目が、その瞬間に収縮していったのが見えた。

 ――次の瞬間に、僕の中に合ったナニカが、様な感覚を覚える。

 ……不思議だ。もう雨の音も何も聞こえなくなった。それ程集中していて、意識は冴え渡っている。モノクロに変わった世界の中で、白と黒の世界で、リズが悲しそうにまつ毛を伏せて、イルベルトの言葉を否定しないのを僕は見ていた。

『――――……』

「スノウ……?」

 僕を目と鼻の先から見つめる彼の全身が、僕の半身とも言える彼の姿が――霧になって雨に溶け始める。

「……ぇ……っあ……ぁ」

『……――――』

 この手に感じていた感覚は既に抜け落ちて、そこには空虚と雨の冷たさだけが残った。微かに口元を微笑ませながらも、困った様に、僕を案ずるようにしたスノウ表情が、透けて、消え始める。

『――――……』

「ま――まって……――」

 微かに動いている彼の口からは、もう音が声になって奏でられない。

 空を掴むかの様な曖昧な観測は、もうそこに表情の微細な動きを見せるのみ。

 ――温度が無い。――感触が無い。――鼓動が無い。

 当然だ、だって全部なんだから。

 僕はその場に立ち尽くしながら、無意識にこめかみを指で弾いていた。彼の癖など、もう再現する必要さえないと言うのに、無意識に――

 その人格は、全部僕が作り出した、僕だけに知覚される幻なんだから――


 “”。


「待ってッ、スノ――――」

 一迅の風にかき混ぜられて、僕を見つめていた彼の幻影は、跡形も無く消え失せた。

「ぁ……ぁぁ…………ぅぁ……ぁ」

 後に残されたのは、哀れみの目を僕に向けたリズの姿と、感情の無い白い仮面だけ。

 手繰り寄せた腕は空を切り、水溜りの中に落ちた両の膝がパチャリと音を立てる。……力無く落ちた掌。

 曇天仰ぎ、口の端から漏れた悲痛の声は、を、今受け止める衝撃が余りにも大き過ぎて……言葉にならなかった。

「スノウ、何処に行ったの……ねぇ」

 か細い糸の如く、啜り泣く声で繰り返しながら、僕は正体不明の子どもの白骨遺体を見下ろす。ずっと、ずっとずっと無意識に蓋をして来た記憶に手を掛けながら。

「スノウ…………なの?」

 唖然とする僕にリズが答えた。

「……わからないよレイン、でもまだそうと決まった訳じゃ」

「これが――スノウなの!?」

 酸欠による頭の激痛に苛まれて、僕は涎を垂らしながら目を剥いた。そうして足元の水溜りに反射する自らの姿を見下ろし、頭の中を閃光的に貫いていった記憶の稲妻へと没頭していく――


 ずっと受け入れられなかった。を受け入れられずに、存在する者として忘れ続ける事を選択した。そうしなければ、僕もお母さんも壊れてしまいそうだった。……僕は演じ続けた、村のみんなも事情を知って、スノウを生きているという事にし続けた。……いつしかそれは演技なんかじゃなく、僕の心の中に人格を形成し、スノウは僕の中に存在するもう一つの人格になっていた。嘘は本当になって、僕が蓋をした耐え難い真実は、そのまま記憶の彼方へ押し込められていった。

 誰もスノウに話し掛けない、会話が成立するのは僕が彼の言葉を代弁した時だけ。もしくは僕が彼を演じていた時だけ。

 屋根裏のメモに記されたサイン。山のように積み上げられたメッセージの中には一つだってスノウのサインは無かった。

 毎朝三人分用意されていた食事――あの後お母さんは、心を無にして一人分の食事をゴミ箱に捨てていた。

 夜会でのピアノ――僕は彼に成り代わり、スノウとしてピアノを弾き続けた。

 心の奥底では本当は、彼が死んでいる事を理解していた、この村がループを始めるよりも少し前の話しだった……だけど僕は、必死に気付かないフリをし続けた。それが僕の無意識の防衛本能だった。

「今まで、気を使わせてごめんね、リズ」

 大粒の涙に前が見えなくなって、この辛過ぎる現実に、心が一杯一杯に溢れ返って、僕は声を出して泣いた。

「大丈夫、大丈夫だからレインっ! 私が居るから、私がアナタの側に!」

 リズの胸に抱き止められながら、僕はポケットからスノウのしていた紙紐を取り出して強く握り続けた。

 ――『全てはキミが決める事だよ。この夢から醒めるのか、辛く険しい今を生きるのか』

 スノウの声がする。聞いた筈の無い、記憶の彼方の彼の声が。

 彼がピアノを弾く光景が、あの夜会での楽しそうな笑顔が側に見える――

「どうして……? こんな記憶、無いのに……ぅっ」

 綻び……この村の何処かに潜む霧の魔女の弱体化により、この呪いの束縛が弱くなっているのだろうか? 記憶に無い筈の光景が、僕の脳裏にありありと浮かび始める。――彼と過ごし続けた、ある筈の無い霧の記憶が……。

「も……むり、だ……っ」

 溺れ死にそうな涙と鼻水の中で、僕は霧の魔女に懇願する様にそう漏らしていた。

「もう、……もう…………っ」

 ずっと一人だったんだ。スノウなんていなかったんだ。そしてお母さんが死んだ今、僕は本当の意味で一人になった。

 この現実に堪えきれない。……いや、生きる意味を見出せない。

「僕にはもう……受け入れられない……っ」

 僕の頭を掴むリズの手の力が強くなるのを感じた。

 ――無限だと思われた刻はまやかしで、繰り返し続けるこの村はゆっくりと死へと向かっていた。

 ――この村から脱せた者は一人も居らず、居なくなった者は皆冷たい土の中に埋葬されていた。

 ――僕の半身はもう……ずっと前に喪失していた。

 完膚無きまでに叩きのめされた僕はもう、この呪いに対抗すべく何の手立ても思い浮かばずに、ただ荒い吐息で喘ぎ続けるだけの、まな板の鯉も同然だった。

「堪えきれないっ、こんな辛い、こんなに悲惨な現実にっ、僕はッ」

「ダメ……ダメだよ挫けたら、折角ここまで来たんだから! 私たちの夢を思い出して」

「僕に夢なんて無いよ、あったのは、スノウの夢だけだ!」

「スノウの……夢?」

 ……今ある記憶をそのままリセットしてしまえば、僕は毎日お母さんが居なくなった不安や恐怖に苛まれ続けるのだろう……耐え難い不安、苦悩、大好きなお母さんを喪失する深過ぎる絶望――だけどそこにはスノウが居る。彼が死んだという認識さえリセットしてしまえば、僕は何食わぬ顔でまた一人二役の生活に没頭出来る。今のまま現実を直視している位なら、その方がずっとマシだと思った。

 ――いま、ひしひしと思うのは、これが、これこそが魔女の思惑であったのではないか、という事。

 我を失い掛け、見開かれた瞳に思い起こす。そこに立ち尽くしている、イルベルトによる記憶の声を――

 ――『キミたちは、なぜその現象をだと思う』

 僕は今こそ思い直す――この呪いが……呪いでは無いというのならば……悲惨な現実に蓋をして、悲劇が巻き起こる前の幸せを繰り返し続けているこの日々は、まるでの様にさえ思えると。

 これまでとまるで正反対の解釈。だけどどうして霧の魔女が僕の為に? いや違う、これはきっと僕個人への施しなんかじゃなく、きっとそう……への施しだ。

 ――だとすれば僕らがループし続けている八年前の十二月二十四日、その日を越えた先で、どのような地獄が待ち受けているというのだろうか。

「いいじゃないかもう、そんな事……」

 没頭し掛けた思考の深みで、腰を折ったイルベルトの声にすくい上げられて、僕はもう考えるのを止めた。吸い込まれる様な緑の眼光が僕を貫いていく。

 リズから離れ、僕はお母さんの眠る黒い棺桶に前のめりにもたれ掛かった。そうして雨に打たれるまま、無為に時が過ぎ去るのを待っているかの様にしばし黙りこくってから……苦痛に塗れた顔で、天上を見上げて言った。

「僕の負けだ……霧の魔女」

 心に穴がポッカリと空いて、その絶大なる虚無感にもう、何も成し得ないと感じた。今の僕は欠陥品だった。心と体の半分を失った不完全な僕は。

「レイン……」悲しげな声でリズがすすり泣いていた。

 ――僕の心と魂の半分……スノウを失ったこの現実を受け入れる事なんて、到底出来る筈も無かった。たとえそれが、霧に見せられる幻影だとしても、僕はそれに気付かずに、またこの日々を過ごしていたかった。


   *


 夜半、明かりを灯す事さえ忘れた僕の自宅に、豪雨の中の来訪があった。それを迎え入れた僕は、愛想笑いの一つもしないままの落ち窪んだ瞳で、レインコートのフードを外していくリズを足下から見上げていった。

「こんなに夜遅くに、ごめんね」

「……」

 僕は何も言わなかった。何も言わず、亡霊の様に玄関に立ち尽くすだけ……。

「少し上がってもいいかな?」

 僕一人だけになってしまった薄暗い家にリズが上がり込む。彼女を居間に通した僕は、囁くような声で温かい飲み物でも出そうかと問い掛けたが、彼女は首を振って、膝の先にあるテーブルの上に視線を向かわせた。

「本当にリセットするつもりだったのね」

 リズの視線の先にあるのは“ロンドベル庭園の魔草”だ。もう必要が無いから、屋根裏から一階に下ろしていたんだ。それを見てリズは察したらしい。僕が全てを振り出しにしようと、リセットの時を待っているのだと言う事を。

 しばしの静寂が走る。時刻は二十三時を回った頃合いだった。家には僕ら意外に何の生活音も無く、ただひたすらに殺風景で、テーブルの上に灯された蝋燭の一本だけが、仄かな熱を発散していた。

 その美しい青の瞳に涙を溜めて、無言の抗議を続ける彼女に、僕はそっと鉢を差し出す。

「ここまで付き合わせてごめん、期待させてごめん」

「……」

「夢を見させて、ごめん……無責任だけど、僕はもう無理だ。この花は後はキミの好きにして」

 薄紅色の大輪を差し出されてリズは顔を上げた。その拍子に彼女の大きな瞳から涙が一粒溢れるのが見えた。僕は思わず感情的になって取り乱す。

「たとえ張りぼてだとしても、僕はもう、この世界を出たいとは思えないんだ。もうお母さんも居ない、スノウの消えたこの世界に未練なんて無い。スノウの居ない世界に意味なんて無い。僕らは二人で一人なんだ、どちらかが欠けたらただの欠陥品なんだ! だから……っ!」

 僕らの間に垂れた薄紅の花弁。いつか僕とリズの心を繋げた美しき大輪を前にして、彼女は予想外の返答をする。

「いらない――」

 かつての気弱な面影はもう見せずに、確かな意志を宿した瞳が、闇夜に二つ青の光を横に振るのを目撃する。

「本当に無責任だよ、レイン」

「リズ……?」

 詰問するような口調の彼女が、涙を振り払って歩み寄って来た。椅子を押し退け、頬を膨らませながら大股で詰め寄って来られて、僕は下唇を噛んで狼狽するばかりだった。

 気弱なリズからは想像も出来なかったその迫力に、僕は後退るばかりになる。吊り上がった眉には確かな意志が宿り、僕を壁に押し付けて尚、ズイと顔を寄せて来る。感情を爆発させる事に慣れていないからか、無理をして涙目になっている彼女。そうして僕は胸ぐらを掴まれ、すぐ耳元で気丈な女性の咆哮を聞かされる。

「勝手に期待させて、私のまで変えてしまって!」

「……っ?」

「私が望んだのはアナタとの未来なんだ。アナタが居ない未来なら私もいらない。もう全部諦めて、レインのこともみんなと仲良く慣れた事も、全部忘れるッ! なんにもいらないっ!」

 並ではない彼女の決意を前に、僕は舌を巻くしかなかった。瞬きを繰り返した僕は、こちらを上目遣いに見上げ、今にも湯気を吹き出しそうな有様で、視線を縦横無尽に走らせ始めた彼女を眼下に、唾を飲み下す。

「せめて最後に、私のわがままを聞いて……いいわよね、レイン」


   *


 時刻は既に二十三時二十分を経過した。リセットの時までもう一時間。忘却を目前にした雨の中を、僕はリズに連れられて駆けていた。いつかの記憶で僕がそうしたみたいに、今度はリズが僕の手を引いているのが不思議だった。

「どうして僕をここへ……?」

 彼女に連れられ飛び込んだのは、村の中心地にある酒場だった。ずぶ濡れになった衣服のまま、二人息を荒げて床に仰向けになる。次にその先のステージの上に、天窓からの月明かりに照らされたグランドピアノを見つけた。

 未だ鬱々とした気持ちを晴れさせず、前髪を顔に垂らしている僕にリズはつぶらな瞳を向ける。

「リセットされたら、私はもうアナタのピアノを聴けないもの……だから最後に聴かせてよ」

「……どうせ忘れてしまうんじゃないか、今ここでこうしている事だって全部」

「ううん、この胸に焼き付けて心の何処かできっと忘れないでいるから、レインのピアノが聴きたい。心の何処かで、アナタのピアノを覚えている気がするもの」

 彼女の視線に吸い込まれる感覚と同時に、心の奥底がチクチクと痛んだ……でも後一時間もしない間に、僕らの関係は振り出しに戻ってしまうんだ――

「無駄だよそんな事……」

 彼女からの最後の願いだとしても、僕はピアノなんか弾きたくなんか無かった。だってここにスノウはもう居なくて、ピアノを弾くのは彼の役目で、僕がそうするのは、おかしな事だってわかっていたから。

 リズは濡れたスカートの裾を絞り上げながら首を傾げていく。

 全てを失った僕は破滅的な思考のまま、長い嘆息をして手を払う仕草をする。指先を伝った雫が天窓からの薄明かりを反射しながら床に消えていった。僕は今こそ、この最後の夜にこそ、自らの感情を吐露し始める――どうせ全て忘れてしまうのだからと、半ば自暴自棄となりながら……

「ピアノを弾くのは僕じゃなくってスノウだ。それに僕はピアノを演奏する彼が好きじゃなかった。だって置いてけぼりにされていく様な感覚に陥るから。僕らはずっと二人で一人なのに、彼だけが素晴らしい才能を持っていて……正直に言うとね、僕はずっとを抱いていたんだよ。ずっと、ずっとずっと昔から、僕はスノウに……っ」

 ――劣等感? と繰り返したリズに僕は訴える。

「変だよね? 僕は彼に……居る筈の無い心の中の人格にまで、嫉妬し続けていたんだ」

 彼の死を受け入れられずに、壊れ果てていく母を見ていて思った事がある。仮に死んだのが僕だったなら、お母さんはこれ程までに嘆き悲しんだだろうかと。あの軽快な旋律を喪失していなければ、村全体の活気がここまで落ちぶれる事は無かったと。

 だから僕はスノウを演じ続けた。それがもう一つの人格となる程までに。そして僕自身もそれを願ったんだ。お母さんに……村のみんなに必要なのは、みんなの心を魔法の力メロディで支える事が出来る、スノウの方だと知っていたから。

 握り拳を膝に叩き付けながら、リズが頭を激しく振るった。

「変なんかじゃない、人は誰だって嫉妬する、誰かと比べたりもする。それにスノウは、アナタの心に確かに住んでいたもの!」

 余りにも強い目力に一瞬たじろぐ……だけど振り返っても、周囲を見渡してみても、やっぱりスノウはこの世界には居ないんだ。そんな慰めの言葉をかけて欲しいんじゃない。紛らわして欲しいんじゃない。僕が求めているのは、現実に彼が存在する世界――そうだ、僕が願っていたのは“”だった。彼という存在の死を受け入れて、未来へと歩み出さねばいけない位なら、僕はこの止まった世界に残留していたい。そう思っていたんだ。そうしている間は、この辛い現実を受け入れずにいられるから、変わらずに子どものままでいられるから。

 僕は彼女の眼力から逃れるように顔を背けて、情けの無い自分自身を語り始める。

「だから僕に弾きたい曲なんか無いんだ……ピアノを愛していたのは僕じゃない、スノウなんだ。キミが僕に求めている物は全部スノウの持っていた物で……僕自身には何も無い……空っぽなんだよ」

 何処からか雨漏りがして、ピチャンと床に跳ねる音を僕らは聞いた。僕が視線を伏せていこうとしたその時、リズの声が下を向こうとしていく僕を止めていた。

「ピアノが好きじゃないなんて嘘。アナタの内に何も無いだなんて、それも嘘」

「嘘……? 違うよリズ、キミは何もわかって……っ」

 自分の瞼の上がピクリと動いたのを知覚した。そして憤り、気付いた頃には強い語気で彼女を責めていた。けれどリズは続けた。僕の手を取り、目前の怒りからも逃げ出さずに、この手を優しく包む様にして、月光の元にその視線を輝かせながら――

「記憶の何処かに、楽しそうに体を揺らしながら、ここでピアノを演奏していたアナタを思い出す。あの時アナタがどんな曲を弾いていたか、私と何を話したか、どんな境遇に居たのか、どれも思い出す事が出来ないけれど……ただ心から音楽を楽しんでいたアナタの姿を思い出すの!」

「だからそれはっ、僕じゃなくてスノウの――」

「――違う!」

 初めて声を荒げた彼女。成長を始めた一人の女性が、煩わしく顔を歪めた僕に手を差し伸べる。

「アナタとスノウは二人で一人で、なんだよ!」

「一人で……二人?」

「まだわからないの!? スノウの感じていた事、アナタの感じていた事! どちらの思いも、どちらの願いも、どっちもアナタなんだよ!」

「……!」

「胸に手を当てて考えてみてよ! スノウはそんな事を望んでいた!? アナタに何時迄も忘れないで欲しいって、全てを忘れたまま生きていて欲しいって、そう願ってた!?」

 ――この心に宿り重なっていた、僕とスノウの二つの願い。

 ――僕の願いは、いつまでもスノウと隣り合ったまま明日へ進んでいく事だった。彼が死んだ事からいつまでも目を瞑り続けて、訪れる筈の無い未来に夢を馳せていた。

 ――スノウは変わる事を望んでいた。もっと大きくなって、鍵盤にも自由に手が届く位になって、いつかを奏でてみたいと僕に語った。

 スノウは変化を求めていた。自分自身にも、前を向けないでいる僕自身にも……けれど僕は不変を願い続けていた。スノウと共にある事が、僕が変化を求める未来を目指す前提条件だったから。

 それでも――

「居ないじゃないか」

 それでも僕は認められない。認める訳にはいかなかった。だからリズに大股で詰め寄りながら、大きな身振りで激情を見せ付けていた。

「どんな綺麗事を言ったって、スノウは何処からも居なくなっている! さっきまで居たのに、今は何処にも! それが全部じゃないか! 僕はスノウと一緒に居たいんだ、彼の死を受け入れる事なんて、どうしたって僕には出来やしないんだ! スノウは僕の全部なんだッ!」

「アナタたちは今も繋がってる、スノウの死を悟ってしまっても、目に見えなくなっても、アナタの心に彼は居るわ!」

「心って何処だよ、そんなの何処にあるんだよ! もう懲り懲りなんだよ、そんな精神論なんかは――ッ」

 捨て鉢になった僕の腕の中にリズが飛び込み、この胸に強く掌を押し付けながら、言った――

「アナタたちの心は、ピアノの旋律の中でしょうっ!」

「――――っ!」

 ……あの弱虫のリズが、僕の視線から一歩も逃げ出さずに今、向かい合っていた。記憶の中にあるひ弱な彼女と、今の彼女が合致しない。彼女をここまで変えてしまったのは僕だ。その筈だ。……なのに僕は、僕自身は、どうして変わることが出来ないでいるのだろうか。

 スノウが死んでしまった事は紛れも無い事実で、そこから永遠に目を逸らして生きていく事が不可能だって、本当はわかっているのに――それが認められない。この繰り返しが、霧の魔女から与えられた僕へのが、返って僕の成長を妨げているのかも知れないと思った。本来強制的に流れ去る筈の時間、否が応でも薄れ消えていく筈の辛い記憶、それを擬似的に淀ませた事で――僕はいつ迄も、この瞬間を生きていられるかのように錯覚してしまって……この瞬間を切り取った一枚の写真から、心を離せなくなってしまっていたんだ。

 よく見ると、大きく見開かれたリズの瞳は震えていた。握り込んだ拳も強張ったまま小刻みに揺れていて、様変わりした様に見えていた彼女の内情も、その実必死に虚勢を張っただけのハリボテに過ぎないかった……過ぎなかったけれど、僕よりも、彼女はずっと大人に近かった。

 強張っていた肩の力がその瞬間に抜けて、今は僕の為にここまで体を張ってくれた彼女に、感謝しか感じなかった。

「……もう、頭がこんがらがって……わからないよリズ」

 僕の微笑みに、彼女は困惑した様な表情を残した。そして緊張の糸が解れたか、目尻からほろほろと涙をこぼしてへたり込んでいく。

 彼女の頭を優しく撫でた僕は、踵を返して壇上のピアノを見つめた。今こそ記憶の奥へと押し込んでいたと相対するかのように。

「丁度良いや、いつも心を整理する時は、スノウの奏でる、ピアノの中にいたから」

「レイン……?」

 目を丸くしたリズへともう一度微笑み掛けて、顎を上げて前を見据えた。そこに見えるは、彼の奏でた魔法のピアノ。

「キミの言う通り、スノウは今もピアノの中に居るかも知れない。だから、話して来る」

 闇の中、月光というスポットライトに照らし出されたあのピアノの元へ、僕は歩み出す。

 正直言って、僕がピアノなんかを弾けるのかはわからない。この記憶の中でピアノを演奏していたのはいつだってスノウで、実際に演奏していたのが僕だったとしても、切り離した人格の方の技術や知識を僕の――レインの方で体現出来るのかは、まるでわからなかった。でも――

「失敗してもまたやり直せばいいや、だってそれが、この世界だろう?」

 どうしてか、憑き物でも落ちたかの様にこの足取りが軽くなっているのだけが不思議だった。指のストレッチをしながら首の骨を鳴らし、目一杯に鼻から空気を吸い込んだ。冷たい空気が気付けをするみたいに肺一杯に満ちて、自然とこの表情にも力がこもる。

 僕はスノウに成り代わる時に使っていた髪紐をポケットから取り出すと、薄白い月明かりの元へと放り投げた。リズが立ちあがって壇上に明かりを灯し、僕は掌を擦り合わせながらピアノの前に腰掛ける。

 演奏の前に……心落ち着ける……。自分と向き合う。

 ――キミの様に上手に弾けるかはわからないけれど、キミの蓄積した記憶も、経験も――

 ……瞳を瞑り、自分の中に流れる血流の音を自覚する位に静まり返った所で、僕は緩々と、細く鋭い瞳を上げていった。

「僕の中に、生きている」

 

 クロウド・ドビュッシー『ベルガマスク組曲』第三曲より――「月の光」


 それは静かな夜を思わせる夜想曲ノクターンだった。

 いつかドビュッシーが愛する者へと贈ったというこの楽曲は、あえてを掛け合わせた、幻想世界を独創している……


 頭の中に再生するスノウのメロディだけを頼りに、僕は辿々しく旋律を奏でていた。

 ――まだ……弾ける、なんとか、食らい付いて……っ

 月明かりのスポットライトにあてられた僕を、リズは瞬きも忘れて傍観していた。

 ――やはりそう都合良く楽譜は浮かんで来ない。なんとかメロディの断片が記憶の奥に微かに聞こえる程度。

 けれど僕はそれだけを道標にして、真っ白な楽譜の上でスノウを追い掛け始めた。

 かろうじてこの八分の九拍子のテンポに置いて行かれずに、僕は白紙の紙にインクを伸ばし始める。

 ――僕だってピアノの素人って訳じゃない。僕らは幼い頃に肩を並べて、このグランドピアノを弾いていたんだから。


 妖しき音色が、美しき夜へと僕を誘う。庭の水面に映し出された月光が波紋に歪み、憂いと歓びとを同時に連れて来る。

 揺らぐ。感情と印象。楽しくもあり、悲しくもある不可思議なる幻想が、僕らの幼き記憶の日々を回想させる。

 いま眼下に広がるモノトーンの世界が剥離して、幼少の頃の僕らの指先が重なっていく。四つの小さな手のひらが、鍵盤の上を縦横無人に駆け回っている……

 月明かりの一筋が、僕らの過去を照らし出す――

 ……だけど僕は、途中でピアノを投げ出した。

 段々とスノウの才能に置いて行かれた僕は、彼の才能に嫉妬して……逃げ出したんだ。

 あの時の、悲しそうにしたスノウの瞳を思い出す。僕らは二人で一人だと言ったのに、……先に裏切ったのは僕の方だった。


「なんだ、逃げてばかりじゃないか、僕は」


 ヨタヨタとして、危なげにも聴こえる調べを奏でながら、自棄になって口元に浮かべた嘲笑を、僕は自らへと向けていた。

 揺れて、揺れて、水に映る月が見えなくなる程に荒波立って……それからまた静寂が来ると――水面の上で、寸分変わらぬままの月が僕を覗いている事に気付く。

 朧げな記憶を頼りに、ピアニッシモからのクレッシェンドを繋げる。ここから楽曲のテンポが上がり、あやふやな僕の指先は置いて行かれるかも知れない。今見えている夜幻の世界が途切れてしまえば、僅かに見え始めたスノウの背中には至れないだろう。それならばいっそ、まだかろうじて奏でていられるこの旋律を繰り返していた方が良いのでは無いだろうか、悲惨な現実を目の当たりにする位なら、今この瞬間で足踏みをしていた方が懸命なのではないか――僕は……そう思った。

 

 優しさに満ち溢れたタッチで、そそぐ月光を思わせるゆったりとしたアルペジオが……四度、深い夜陰に溶けていく。

 ……深い闇に訪れたしじまは、この月光が一層と照り輝く前の静けさ――


「レイン……っ」

 リズの声が聞こえた頃には、もう僕は迷う事もなくその一歩を踏み出している頃だった。

 幻想曲は一層の華やかさを催し始める。頭の中はこの複雑過ぎる譜面に真っ白にすげ変わっていた。

 けれど――


 ――あれ、なんで……?


 この指先が、呆然とした意志とは無関係にメロディを奏で続けている。軽やかに、そして優雅に、夜の散歩の足取りを早め、ステップまで踏んで回り出す……


 ――どうして? もう何も、僕にはわからないでいるのに……スノウの中にしかない筈の知識が、彼の記憶と技術が、この優美なる夜空に満点の星を散りばめている。


 彼の姿は見えず、その声も聞こえないけれど、確かに心の奥底に――自分の中に、スノウの存在を感じた。


 華やかと寂しさ、憂いと歓び。妖しさと誠実。曖昧なモノの表現。高貴であり浅ましい、まるで子供から大人へ変わる僕らみたいだ。

 どちらともない“ニュアンス”。テーゼとアンチテーゼ、それが混じり合いジンテーゼになる。

 “月の光”を作成するにあたって、ドビュッシーに着想を与えたヴェルレーヌという詩人は、自らの詩にこんな一文を残したと言う事を思い出す――


『不明瞭なものと明瞭なものを繋ぎ合わせる、灰色の歌ほど価値のあるものはない』


 曖昧である事への賛美。現実と幻惑が入り乱れた世界、月の下弦と上弦が重なり合って出来た満月――霧の見せた儚い幻……。


 終わった筈の彼の生命を、今この心の奥に感じる――!


 激しく揺れ動いた指先に雫が垂れ落ちた。さらにと涙が溢れそうになって、思わず顔を天空へと背けると――


「――――……っ」


 そこに、色の月明かりがあった――――

 美しき夢に誘われたメロディはやがて、月の光に溶けていく……

 静かに、厳かに、光明は細い線になって消えていく。


 記憶を呼び起こしていった僕は、見えもしない、聞こえもしない彼と頭の中で話し始める。


『ねぇレイン。これから村が変わっていったら、僕たちも変わるのかな』


 ――変わらないさ、僕らはずっと一緒さ。


『キミも、もう変わらなくちゃいけないだろう……』


 ――キミはずっと、僕の背を押してくれていたんだ。


『大丈夫。レインにはきっと、僕にできない事が出来るから』


 ――キミに出来なくて、僕に出来る事ってなんだろう? 


 かつて逃げ出したピアノに向かい合いながら、僕は一人でスノウと話し続けた。声は彼の記憶を無機質に繰り返すだけで、記録した映像に一方的に囁き掛けているのと同じだった。


 美しき夜の幕切れに、灰色の月明かりが最後に魅せた旋律――

 この夜が終わりを告げて、白んだ空へと変わりゆく……そんな“明日”の空を思い描きながら、僕は眩しげに目を細める。


 楽想が終わりを迎え、無我の様相で振り上げた指先を見上げていると、微かに響く余韻の中で――


「――……っ!」


 首の後ろに吐息が掛かった気がした……。


 だけど、涙振り撒き振り返ったそこには……誰も居なかった。


 灰色の月光に照らし出されたまま、細めた視線でリズへと向き直ると、彼女が声を押し殺して泣いている事を知る。

「どうして泣いているんだい、リズ?」

 口元に手をやり、震えた唇に何も言い出せないでいたリズは、しばらくしてからこう言い残した。

「そこに居たね……スノウ」

 彼女の残した優しい嘘に、僕は微笑みを返した。

 ――どうして彼女は、僕の為にこんなにしてくれたのだろう?

 彼女はきっと僕がスノウを見付けられる様にと、最後の時にこの場所を選んでくれたんだ。例えもうすぐ発生するリセットによって全てが忘却の渦に飲まれてしまうとわかっていても、僕が俯いたまま終わらない様にと、ただそれだけの為に、自分を犠牲にして僕の手を引いてくれたんだ。

 僕の声をかき消す位に思いっきり鼻をすすった彼女を見つめていると、この胸の奥がむず痒くなって来る感覚を覚えた。名状し難いその感覚は、次にリズと視線を合わすと、火を焚べた様に熱くなった。

 ――僕の心をざわめかす、この苦しくて温かい気持ちの真相は……

 決意をした僕は彼女の肩に手を置いていた。

「僕はキミへのこの気持ちを忘れたくない。スノウから受け取ったこの気持ちも無駄にはしたくない……だから!」

 訳がわからなそうにしてへたり込んだリズを引き起こしながら、ポケットの中の懐中時計を取り出す。

 〇時二十一分に起こるリセットまで、あと僅かの猶予も残されていないけれど、今からならまだリセットを回避する事の出来るセーフティゾーンまで戻る事が出来るだろう。

 だけど、僕の選択はそうじゃない――

「リズ、この現象にカタをつけよう。みんなが死んだ事実を、死者と生者の曖昧な線引きを、みんなが胸に抱いている内に」

「で、でも……霧の魔女が誰かもわからないんじゃ……」

「いや、僕にはもう、

 ――時刻は丁度二十三時四十分を回った頃だった。

 タイムリミットまで残り四十一分。この間に僕は霧の魔女との決着を付けて見せる。今度は僕が彼女の手を引いて走り始めた――

「走ろう、リズ」

「レイン、何処に――」

「決まってるさ。全ての元凶――へ」

 リズの手を引いて、僕はピアノスノウの元を後にする。

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