気軽に読めない名作の読みどき

脳幹 まこと

気軽に読めない名作の読みどき


1.

こえの形」(作・大今良時おおいまよしとき)を読もう――そう思った。


 アニメや映画、小説と幅広く展開されているが、ここでは原作の漫画とした。

 Amazonで調べて全7冊をまとめ買いする。第一巻の表紙には教室、男の子と女の子。

 送られてくるのは明後日だ。私はふう、と一息つく。

 Amazonは数多く利用してきたが、この時ほど息詰まる注文はなかった。


 本が来るまでの間……どうしてこの決断に至ったかを可能な限り振り返ってみようと思う。



2.

 まず、そもそもの話、なぜ「聲の形」を読むのにそこまで勇気が必要であったのかという点から説明したい。


 共感していただけるかどうかは分からないが、媒体を問わず「エネルギーが高い」作品というものがある。どの作品を「エネルギーが高い」と見るかは人によりなのだが、ドラマだと「僕の生きる道」、小説(文章)だと「夜と霧」(著・フランクル)などが該当している。


 人にどういった影響を与えるかは様々であるが、人生観を変えてしまうような衝撃があったり、深い感動(あるいはトラウマ)を与えたりする。

 それらに触れられることは、素晴らしいことだろうと思う。なるべく多くのものに触れていきたいし、その経験をするために本を読んでいる節もある。

 ただ、欠点がないわけではない。エネルギーが高い作品は受け取る側にもある程度のエネルギーを求めるということだ。気軽に読めないし、見られないのである。


「聲の形」については、知名度と外聞、漫画の表紙くらいしか情報がないが、それでも相当にエネルギーが高いことは予想が出来る。

 トンカツとハンバーグとチキン南蛮とスパゲティがカレードリアの上に盛られているようなプレートを見て「カロリー高そう」と判断するのと同じことだ。


「聲の形」――読んでないにせよ、序盤のあらすじは把握している。(間違っていたら申し訳ない)


「クラスの人気者だった男の子と耳の聞こえない女の子がいる。男の子は女の子をからかっていたが、次第にエスカレート、いじめのようになる。ある日、その事実が周囲に露呈ろていし、今度は彼がいじめの標的にされる」


 実際、この内容と表紙の絵柄だけでお腹いっぱいである。

 人間の醜い部分を表現した作品は少なくないし、登場人物が悲惨な目に遭う作品も少なくないが、それらすべてに勇気が要るわけでもない。ならば、なぜ「聲の形」に関しては違うのか。

 

 端的に言えば「他人事に出来ないから」だ。他人事に出来るのなら、それはどんなに大きなモノであったとしても、実質的には自分に関わるものであったとしても、「それは私のせいではない」と割り切ることが出来る。

「聲の形」は取り上げている内容が、身近な人物に対する(からかい混じりの)いじめ、軽視であることから非常にイメージがつきやすい。

 残念なことだが私はキレイな人間ではない。誰かを軽蔑したことがあるし、誰かから軽蔑されたこともある。加害者にも被害者にもなっている。


 昔の教科書だったか、小説だったかで印象に残った小話があった。

「ある学校に留学生の男の子が来校してくる。クラスメートはつたないしゃべり方や、見た目を馬鹿にする。しかし、日本語の知識が足りなかった彼は、ただ微笑んでいるだけだった。言語の上達とともに、彼は自分の境遇を悟り深く悲しんだ」


 今だってきっと、ふとしたきっかけで、他人のことを考慮できない精神状態になれば、明白に「弱いものに降りかかる不幸」を嘲笑あざわらうだろう。「お前が悲しむのはお前が不十分だからだ、お前のせいだ、ざまあみろ」と。


 注文した今ですら読みたくはない。大きく揺り動かされるものは苦手だ。

 自分の持っていないものによって揺り動かされるならまだしも、自分が持っているもの、接点によって揺り動かされるのはどうにもショックが大きくなる。


 思考は気楽にこんな言葉を発する。

「読めば良いじゃん」と。「読んでみなきゃ分からないじゃん」と。


 理性はエネルギーの高い作品が有用であることを理解している。そういった作品が大きく揺り動かすことも知っている。手に取ってみて経験もしている。だから今回も読むことを薦めている。

 

 いや、分かっているのだ。

 一度手に取ってしまえば、没入することは容易い。

「聲の形」を手に取れる人がいるのもまた、事実だろう。そうでなければ、知名度は上がらず、評価もされなかっただろう。


 ただ実際にやったことは、地団駄を踏んでいるだけだった。



3.

 前段に随分と長くかけてしまった。


 そんなことで、今まで「聲の形」に関しては存在こそは知っていたが、触る気が起きないという状態になっていた。

 どうやって読む気に至ったかという点についてだが、一段と説明が難しくなる。


 一番最初のきっかけは無性愛(アセクシュアル)に関する本「見えない性的指向 アセクシュアルのすべて」(著・デッカー)だった。

 性的な行為への関心や欲求が乏しい(または、存在しない)という無性愛者に関して、種類であったり、偏見であったり、ネットコミュニティであったり、自分や周りの人が無性愛者と思われる場合の付き合い方などをまとめたガイドブックのような一冊だった。


 当時、私に関心があったことは「不幸との関わり方」だった。今までに何らかの不幸に遭ったことがない人はそうはいないだろう。

 性別や年齢や時代、境遇を問わず、不幸はやってくる。

 不幸は何故発生するのか。どうすれば回避できるのか。いや、回避は無理にしても、既に出てしまった不幸とどうやって付き合えば良いのか。

 そのために決定論や反出生主義の本を見てみたのだが、満足のいく回答にはならなかった。


「アセクシュアルのすべて」との出会いは偶然目につき、興味が出て買ったというだけだった。

 しかし、この一冊が「マイノリティ」に対する関心を高めたのは事実だった。


 本を読んでいくと、昼のバラエティ番組「笑っていいとも」の名物コーナー、テレフォンショッキングのような現象が起こる。知り合いが知り合いを呼ぶ、それをくり返すことで全く畑違いの分野に到達している。

 今回……マイノリティから差別・迫害といった流れに向かっていくことにそう時間はかからなかった。


 そして、NHK出版の100分de名著シリーズの中にある「黒い皮膚、白い仮面」と「戦争は女の顔をしていない」の回を読み、心のなかに留まり続けていた「聲の形」が再び引き出されたのだ。

(100分de名著は取り上げる作品の要点を分かりやすくまとめ、それに加え、著者の人生を周囲の環境とともに振り返ってくれる上、関係者やその著作まで取り上げてくれるので、非常に読み応えがある。次に購入する本を決めることすらある)



4.

 歳を取ると回りくどくなるものだ。何をするにも名目が、大義名分が欲しくなる。


「聲の形」のタイトルが頭に浮かんで、すぐに感じたのは「今更過ぎないか」というものだった。

 ただ同時にこうも思う……知名度でも影響度でもクオリティでもなんでもいいが、ある一線を越えたものに時間の概念は存在しなくなるのだ。時代や流行を越えて、当時の気恥ずかしさすらも携えて、そこにある。

 夏目漱石やジブリ作品に今更の概念がないのと同じように、自分にとって「聲の形」は一線を越えていた。


 手に取るか、手に取らないか。


 考えた。Amazonのページで目いっぱい考えた。(書店でやると長時間占拠することになりそうで嫌だったからAmazonにした)

 ネカフェで一気読みしてしまおうとは思わなかった。手に取るなら買う以外の選択肢が浮かばなかった。

 試し読みするつもりもなかった。するなら全か無しかなかった。 



 大義名分はいよいよ浮かばなかった。

 送られてくるのは明後日だ。私はふう、と一息つく。

 Amazonは数多く利用してきたが、この時ほど息詰まる注文はなかった。


 利害や損得がそうさせたわけではない。「向き合う時が来た」と思ったのだ。


 気軽に読めない名作を読むハードルは、独り身で久方ぶりに実家に帰省する時の気まずさ、つっかかりに似ている。

 よほど家庭環境に問題がなければ、良い結果になるのだろう。そんなことは分かっている。ただ、どういう顔をして帰ればいいのか、どういう会話をすればいいのかが分からないだけなのだ。

 今までの一連の流れは……旅の途中で偶然実家に立ち寄る機会があったというだけの話なのだ。

 別に今すぐ立ち寄らなくたって構わない。そういう意味では、贅沢な悩みですらある。


 今回は、実家に帰るべき時がやってきたのだと思った。



5.


 以前「あの星々に願いを」という文章を投稿した。

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054891045941


 何をするにも「評価ありき」であった自分が色々と思考を巡らせて、その果てに自分が「評価」にとって不要な存在であることを悟って話は終わった。

 この経験は、「評価ありき」に対する解決策のとっかかりになるかもしれない。評価が、損得がどうあれ、向き合うべき時が来れば、嫌でもぶつからなければならない壁の存在。

 その壁は大概は不意に眼前に現れ、人を大いに混乱させる。いくら予想し、準備しようとも避けられないもの。それは見えないものだからだ。ただ、壁が見える時がある。見えていなかったものが見えるようになる。なぜそんな現象が生まれるのか。単純だ。それは物理的に見えないのではなく、その人が見ようとしなかったものだからだ。

 だから、どこかで手に取らなければならなかった。

 私にとってはそれは「聲の形」という姿を借りて現れたに過ぎないのかもしれない。


 もちろん、そんな哲学的な問いかけはまったくなくて、苦手意識の底にあった本音を――「聲の形」を体感してみたいという率直な気持ちを受け入れるための準備を整えたに過ぎないのかもしれない。


 気軽に読めない名作の読みどきはいつか。

 得になるか、損になるか、必要か、必要でないかではない。向き合うべきだと思った時に読むのがいい。本なんていつ読んだって変わらない、そう思っていた時もあった。しかし、あなたが目をそらしている間に、本の側が去ってしまうこともある。


 仮に「聲の形」の内容、伝えたいことがこちらの好みに合わなかったとしても、それはそれでもいい。

 実際、表紙買いをしたものの、内容を読み通した結果、想像と違ったなと感じたものは幾らでも経験している。


 自分の向き合わなかったもの、向き合いたくなかったものに、自分の意志で向き合える人は結果がどうあれ、少なからず幸福だ。それだけの幸運を持っているから。

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