Episode Vierzehn.Aufwachen.ver.1.1

 ここ、は……──?


 。けれど視界は欠けていて──見知らぬ天井を視認できたのは、片側だけでした。亡くした左眼は、焼け付くような痛みを遺すばかり。もう実体はないのに、まだそこにと激しく主張してくる。その痛みにつられて、右眼の瞼も痙攣しているようだった。

 ……唇も喉も乾ききっていて、もう少しでへばりついてしまうような気さえする。意識も不明瞭で、ふわふわとした浮遊感が拭いきれない。左眼の激痛と全身の疼痛がなければ、空に浮く風船のように何処かへ流されてしまいそうな気さえするのです。

「──お、ようやく起きたか」

「……?」

 酸素マスクに煩わしさを覚えた矢先、声が聞こえました。少し枯れたような酒焼け声に、聞き覚えはありません。声の主を探そうと思いましたが、それは出来ません。今の私は頭を動かすことすら叶わないのです。

「もしかして、まだ動けないのか?」

「っ、う……!」

 ──だから、想像してしまった。この声とあの女の声は違う、そう頭では理解しているのに! あの毒婦ファム・ファタールの如き甘い声が、蝕むような笑顔が──脳裏に焼き付いたまま離れないのです。

 もしかするとこの声は、あの女が声を変えただけなのではないか? ありえない、そんな事はない。そう信じているけれど、そうでない可能性がジワジワと蝕んでくる。相手の姿が見えないだけで、これ程までに恐ろしいと感じてしまうなんて思いもよらなかった。

「ちょっと麻酔が強過ぎたか……まぁじきに抜けるから安心していい」

 恐怖に身を縮こませていると、突如として強烈な光が視界を奪いました。そして「フッ──」と光が消えた後、見知らぬ人と目が合ったのです。それと同時に感じたのは、濃いアルコールの匂い。ワインやウォッカ、スコッチ……ありとあらゆる酒が混ざっていました。次いで視認出来たのは──褪せた人参のような赤髪と、少し垂れ気味の目。あの毒婦とは似ても似つかない女性が、私の顔をしっかりと見据えていたのです。

「貴女、は……誰……?」

「私はお前さんのマスター、ルーザーの妹さ」

 なんとか出せた声は、自分でも驚く程に掠れていました。もう声として認識されるかすら怪しいものでしたが、彼女は笑顔で答えてくれたのです。

「いも……う、と……?」

「おう。名前はトート・リデプスってんだ。気軽にトートって呼んでくれていいぜシオちゃん」

 マスターに妹が居た、という話は聞いた覚えがありません。今にして思えば、マスターは自身の家族を含めた過去を話してくれなかった。写真立てにあったのも、殆どは風景だけなのです。記憶にある限り、人を写したモノを見た記憶はありませんでした。

「──なにボケっとしてるんだ? おーい?」

 カラッとした明るい声と共に女性らしい手が伸びてくる。その手はと頭に乗せられ、そのまま優しく撫でられました。

 その手から伝わる、柔らかな温もりに安心感を覚えたのも束の間──私の中でピン、と張り詰めていた緊張の糸が一気に解れたような気がしたのです。

「って、あれ? もしかして頭を撫でられるのは嫌いだった?」

「……?」

「いや、泣いてたから……な?」

 彼女は驚いたような声を漏らすと、私の頭から手を離してしまいました。それがほんの少し名残惜しかったけれど、その手を繋ぎ止めるものを私は喪失しています。二重の悲しみを覚える私に差し出されたのは折畳式手鏡コンパクトミラーで、そこに映る私は確かに泣いていました。

「撫でられるのは……嫌じゃ、ない……安心したら涙が、出た?」

「あぁ、そういうことね。けどなんで疑問形なんだ?」

「……どうして? わから、ない」

「聞いてるのはアタシだってのに……それよかどうだ、体の方は?」

 彼女は折畳式手鏡コンパクトミラーをしまうと、私の左手のあたりに触れてくる。柔らかな熱を感じるけれど、これも幻肢覚ファントム・センスなのでしょう。話には聞いていましたが、これほどの現実味リアリティがあるとは思ってもいませんでした。

「おーい、握り返して見ろって」

 握り返すもなにも私の腕は無いのに。彼女は一体なにを言っているのでしょうか? それからも暫し、彼女は私の左手を握っては離し、また握ってきます。その度、掌に感じる柔らかな熱はじわり、じわり、と広がり腕を這い上がっていく。

 ……彼女の温もりが浸透して、身体の強張りを溶かしていくような気さえしたのです。

「シオ、握られてる感覚すらないのか」

「感覚は、ある……けどこれは、幻肢覚ファントム・センスではないの?」

 心地良い温もりに微睡みかけた矢先、一際強く握られた感覚がありました。けれど、それも気の所為なのでしょう。だって私の腕は──四肢は無いのですから。


「……それは冗談ジョークか?」

 彼女は心底呆れ果てた様子を見せた後、深い溜め息を漏らしました。何処か芝居がかっているというか、わざとらしいというか……

「よーく見よろシオ、これが現実だ。お前の四肢は補填したんだよ」

 そう言って彼女は、私の左腕をのです。斬り落とされた筈の左腕が、しっかりと私の身体に繋がっていました。

「握られている感覚も、持ち上げられている感覚も全部あるだろう?」

「………………うん」

 信じられない。これが現実? 

 だって、だって──私の腕はあの時、確かに切り落とされていたはず。極細糸が肌に食い込む感覚も、妙な身体の軽さも、腕が地面に落ちる音も、なにもかも全部覚えている。だからあれは決して夢じゃない。現実での出来事だった。


 ──その筈なのに、これはどういう事だろう。


 失くした筈の腕が接がれていて、感覚もしっかりとある。

「ちゃんと認識出来たな? これが現実だ。、全力は尽くした。だから安心しろシオ」

 彼女は得意げな表情で笑うと、再び頭を撫でて来ます。その手付きは先程よりも荒っぽくて、遠慮というものがなくなっていました。けれど先程よりも暖かくて、なんだか安心できる気がします。

「……ありがとう、トート……叔母、さん?」

「んにゃろ、オバサンは余計だっての!」

「え、え? いた、いたた……!?」

 御礼を言ったら、なぜか頬を「むぎゅっ」と抓られてしまった。一体どうして彼女は怒ってるのだろう?

 ……ううん、本当に彼女は怒っているのだろうか? 口調は怒っているようだけど、それは表層だけ。声は嬉しそうだし、目も笑っている。一体どっちの感情イロが本当の感情イロなのでしょうか?


「……ま、悪意が無いのは解ってたけどな。次からは気をつけた方がいいぞ、シオ」

 彼女は暫し私の頬を玩んだ後、あっさりと手を引いたのです。

「……どういう、こと?」

「今お前さんが言った伯母さん、ってのは親族呼称の1つとしてだろ?」

「うん」

「だがおばさんという単語は他にも意味がある。それはわかるな?」

「うん……老けてるって、意味とかあるのは知ってる」

「そう、だからあんましオバサンって言わない方がいい。だからもし迷ったらお姉さんってつけろ。そうすりゃ大体は丸く収まるもんさ」

「わかった、トートお姉さん」

「……お、おう」

 なぜだろう。微妙な反応を返されてしまった。

 もしかして私はまだ間違えているのだろうか? 伯母さんでもダメ、お姉さんでもダメ。それならいっそさん付けのほうが丸く収まるのではないのか?

「ねぇ、トートお姉さん。もしかして、これも嫌味になるの?」

「場合によってはなるな……だからその、そこらへんのニュアンスは実践で覚えるしかないな」

「わかった。頑張る」

「おー、頑張れ頑張れ」

「わっ、ちょ……っ」

 そう言って笑いながら、彼女は私の頭を撫でてくる。それも遠慮がなくなってきたというか、粗雑になってきたと言うか……短髪坊やを撫でるような感じである。毛髪が絡まるような事はないにせよ、ここまで雑にされるのは好ましくない。


「──もう、やめ……て……!」

 何本かの髪毛が口や目に入った辺りで、自然と手がでていました。

 とはいえ、弾いたりするような力はありません。本当に、軽く「ぺちっ」と当たったような感覚です。それで漸く、彼女はその手を止めてくれました。

「悪い悪い。お前さんの髪の毛、サラサラでついやり過ぎちまった」

「撫でるのはいい……けど、もう少し優しく。お願い」

「わかった。で、それはそれとして……体は動かせるな? ちょっと握り返してみてくれ」

 そう言うや否や、今度は私の左手を握ってきた。マスターよりも細く柔らかな手は、するりと優しく絡みついてきます。

「……?」

「ほら、握り返してみろって」

 けど、そこにほんの少し違和感を覚えました。

 素肌を重ね合わせているのに、なんだか感覚が鈍いのです。彼女の体温も、肌の感触もわかる。なのにそれらがほんの少し遠く感じてしまう。例えるのなら、極薄のゴム手袋をはめた状態で触れ合っているような感覚でした。

「よしよし、握力もちょうど良さそうだな」

 それは彼女の手を握り返しても変わりません。試しにほんの少し力を込めても、見えない隔たりを感じてしまうのです。

「シオ? そんなに何度も握らなくていいんだが……おーい?」

「──…………」

 この感覚はなんなのでしょう?

 あの毒婦に切られた事が原因なのでしょうか。

 それに加えて、動きも以前よりぎこちない。意識するよりもワンテンポ遅い……とはまた違うのです。イメージ通りに動かそうとすると、身体がすっぽ抜けてしまう気がするのだ。


「──シオ? 何処か痛むのか?」

 目前の彼女は、とても心配そうな面持ちで私を見つめていました。どうやら私が思うより、深く考え込んでいたらしいのです。

「痛みはないよ。ただ……」

「……ただ?」

「えと……その……感覚が、変なの」

 迷った挙げ句に出たのは、なんとも曖昧で抽象的な表現でした。こんな言葉ではきっと伝わらないでしょう。

 しかし、どんな言葉を使えばこの感覚が伝わるのでしょうか? もどかしさを抱えたまま、彼女へと視線を向ける。すると暫くあってから、彼女は何かを思い出したように頷いた。


「あー……まぁ、そりゃ仕方ないよ。繋いだばかりってのもあるが──その手足はだからな」

「……………え?」


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