ある村の男

 娘は戦場跡から、そう遠くはない村に住んでいた。

 そして、娘には夫婦めおとになる約束をした男がいた。あの念仏を教えてくれた男だ。男が和尚からその念仏を教えてもらった話を聞いても、男がいくら戦に刈り出される心配をしても、戦に刈り出される事のない娘にとって、戦は遠い世界の出来事であって、現実味がなかった。いずれ男と夫婦となり、この村で田畑を耕して、この村で死んでいく。そう思っていた。

 しかしある日、その男はとうとう戦に刈り出される事になった。その段になって、娘はようやく男の言っていた事を、現実として受け止められるようになった。

「戻ってくるよね⁉」

 唐突な不安と恐怖に、娘は男にすがった。

「もちろんだ!必ず生きて帰ってくる。そうしたら一緒になろう。」

 男はそれに未来を語る事で、娘を、そして自分自身を、その未来に繋ぎ止めようとした。

 そして男は戦場へと向かい、帰って来なかった。代わりに、戦で死んだという報せだけが届いた。遺体も形見もない。ただ死を知らされた。

 娘の、…二人の未来は、その瞬間に消えた。

 遺体も形見もないから、娘は現実として受け止められなかった。

 …現実も、未来も無いと、過去すらも無くなっていく気がした。

 男の死の実感もないまま、ただどこまでも闇の底へと沈んでいくようであった。

 ふわふわと、地に足の着いていない感覚のまま、しばらくの時が流れた。その時と共に、男の死の実感が徐々に表れてくる。

『死んだ者達が、せめて安らかに眠れるように、念仏でも唱えてやるがええ。』

 和尚が男に言ったという言葉を、ふいに思い出した。男が娘に念仏を教え込んでいたのは、この時のためであったのだろうか…

 娘は震える手を、ゆっくりと胸の前で合わせるように動かし始めた。同時にそれまで抑え込んでいた感情が首をもたげる。その感情の濃さが、動きと違った方向へと娘の心を突き動かした。

“…嫌……!…二人じゃない未来でいい…!受け止められない現実でいい!…二人で過ごした、…過去だけでいい‼“

 娘はすくっと立ち上がると、強い意志を目に宿し、そのまま男が死んだ戦場跡へと駆け出した。

 何でも良い。何か形見が欲しかった。過去を、…二人を繋ぎ止める何かを……


 しかし戦場跡に着いてみれば、死体は膨大な数があり、肉は腐り始め、判別も出来ない状態だった。

“……――”

 娘はただ茫然と、その場に膝をつき、尻をついた。娘の中で、娘を繋ぎ止めていた何かがぷつんと切れたようであった。

 気が付けば、娘は過去からも、未来からも、現実からすら切り離されたような、そんなふわふわとした感覚で森を彷徨っていた。そしてやがて池へと行き着いた。

 池の淵に座り込み、娘は何の気なしに池を覗き込んでいた。その池の水はとても透き通っており、底まではっきりと見て取る事が出来た。その底には多くの武具が沈んでおり、底である砂地はまばらに見える程度であった。

「……」

 ぼんやりと、娘はその池の水を眺めていた。

「…次郎……」

 男の名を呼んだ。自分の顔が水面に映っていた。その顔がくしゃくしゃと崩れていく。ぽろぽろと涙が流れ、波紋が向こう岸へと流れていく。

「…ああぁ……あああぁぁ……」

 娘は声を上げて泣いていた。


 どのくらい泣いていただろうか。

“女よ。何を泣いておる。”

「⁉」

 娘は突然響く声に驚き、背後の森を見回した。しかし、そこには誰の姿もない。

「!」

 娘は背後に視線を感じ、視線を池へと戻した。するとその池の中心の水面に、鎧武者が立っていた。

「……」

 娘は言葉もなかった。鎧武者は、ガシャン、ガシャンと、水面を歩いて近付いてくる。しかし水面には波紋すら立っていない。鎧武者は岸まで来ると、地の上に立った。

 娘は隣に立つその鎧武者を、身体を震わせながら凝視した。

「我は、甲冑の付喪だ。」

「つく、も…?」

「人の持ち物には、長年使われる事で、持ち主の魂が宿る。百年もすれば、我のように姿を持つ事が出来る。それが付喪だ。要は、あやかしよ。」

「!」

 妖と聞いて、娘はびくりと全身を震わせた。

「そう怖がるな。我が甲冑は、甲冑の持ち主と共に、とうの昔に池の底へと沈んだわ。こうやって姿を見せる事は出来ても、池以外では物に触れる事も出来ん。」

 そう言って付喪は娘にゆっくりと手を伸ばした。娘はまたびくりと全身を震わせたが、付喪は構わず手を伸ばしてくる。そして付喪の手が娘に触れるといったところで、しかし付喪の手は、スッと娘の身体をすり抜けた。

「⁉」

 驚きを隠せぬ娘に、付喪は話を続けた。

「とは言え、このままでは折角姿を持ったというのに消えていくだけだ。だから池へ迷い込んだ者を、池の底へと引きずり込み、その魂を頂いて生き延びておる。」

「!」

 娘は三度みたび、全身をびくりと震わせた。

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