彷徨える黒き羊に憐れみを

ヨシコ

第1話 ニヤけたクソメガネ

 他の人間には見えないそれらを、オレは「ユーレイ」と密かに呼んでいる。


 たいていのユーレイは、空気中にぼんやりと漂っている黒い靄みたいに見えるだけで、特に害はない。

 気付いたら見えてたから、そういうもんだと思ってたし、皆見えてるもんだと思ってた。

 けど、なんかの話のついでみたいにユーレイについてふと口にした時、それを聞いたジイさんはなんつーか、何とも言い難い微妙な顔をした。

 悲しいような、怒っているような、とりあえずあんま歓迎される類の話ではないんだと、どんなにオレがアホでも分かるような顔だった。

 そして、「それは二度と口にせず、見えてないよう振舞え」とオレに厳命した。


 そんな感じでユーレイとの付き合いは十年以上にもなるわけだ。

 見えてない振りをしながら十年ちょっと。

 まあ、そもそも漂ってるだけで特に害はない。大抵は「あ、ユーレイだ」ぐらいのことを心の中で呟く程度、ただの風景の一部。


 ただ、そううまくいかない時がまれにある。

 黒い靄が、人の形を取っている時だ。

 道の真ん中とか、家の中とか、人の形をしたものが急にいたら結構びびるだろ。


 急に現れたり、振り向いたり、錯覚かもしれないけど、まれに笑う奴とか。

 そう、問題は、人の形をしているだけじゃく、顔があるやつだ。

 顔って言っても、黒い靄の濃淡が、なんとなく顔に見える、って程度だけど。


 滅多にないけど、顔があるとちょっと、いや、わりとびびる。

 まあオレが急にびびった様子見せたり声を上げたりしても、変な目で見られることも気味悪がられることも殆どないんだけどな。


 そもそも、オレを見てる奴なんてあんまいないし。



 ◇



 ある晴れた日の正午過ぎ。

 腹を空かせたオレは、いい匂いを漂わせていたパン屋にそっと入り込んだ。


 居合わせた客は一人。そいつと店主の目を盗み、腕ぐらいの大きさがあるバゲットをつかみ取ると、素早くズボンと腰の隙間に突っ込んだ。


 そして、すぐ傍でこちらをじっと見ているユーレイがいることに気が付いた。

 顔があるパターンのやつ。煤が集まったみたいな黒い靄が人の形を作り、その上の方にはぼんやりとした顔がある。


「……っ」


 すんでのところで上げそうになった声を堪えたところまでは、うまくいってた。

 そいつが、ニヤリと、笑ったように見えるまでは。


「わあっ」


 ソレに悲鳴が漏れてしまったのは、何もオレが怖がりなせいじゃない。


「おっと」


 思わず後退りしたオレは、不覚にも居合わせた客が、近付いて来ていたことに気付いてなかった。

 支えるように背中に添えられたでかい手。背中越しに見上げたそこにいたのは、背が高く、メガネをかけた旅装の優男。

 整った顔は見覚えのないもので、その若い風貌には見合わない、年季の入った旅装姿をしている。


 余所者だ。

 辺鄙なド田舎である狭いこの村では、ほぼ全員が親戚か知り合いである。旅人なんてのもほぼいない、隣町まで行く者も来る者すら殆どいないような辺鄙な村だ。


 その珍しい旅装姿の男の、オレを見下ろすメガネの奥の目が、驚きに見開かれている。


「……君、あれ」


「ハオ! お前またか!!!!!!」


 メガネの男が言いかけた言葉を店主の怒鳴り声が遮った。

 店主のオヤジは、オレの姿を認めた瞬間盗人と断定したらしい。

 まあ事実オレの背中には拝借したバゲットが刺さっているので、まったくもって身に覚えのある罪ではあるんだけど。


「やっべ」


 パン屋のオヤジとユーレイから逃げるため、オレは全力で走り出そうとして、しかしあっさりと捕まった。


「ぐえっ」


 走り出そうとしたオレの首根っこを遠慮なく掴んで引き留めたのは、先ほどぶつかったメガネの旅装の男である。


 男は長身の身を屈め、捕まえたオレの顔を覗き込んだ。

 無言でじっくりと眺めているのは、オレの顔。正確には、左目辺りにある刺青だろう。

 不躾な視線だけど、不躾な視線にはまあ慣れてる。


 おでこから左目を貫く斜めの線と、垂直に交わる少しだけ短いもう一本の線。十字の黒い刺青は、教会が罪を犯した者に刻む罪科の証である。


「これ、本物だね」

「あ? 罪人ですって、ジョーダンで言って歩くバカがいるかよ」


 犯した罪の内容により、刻まれる刺青はその形状と場所を変える。

 顔に刻まれた十字は最も重い罪、人殺しに刻まれるものである。

 まだ十年ちょっとしか生きていないオレみたいなガキに刻まれることは、本来であればあり得ない印だ。


「ああ……ええと、にいちゃん、ありがとうな、その、捕まえてくれて」


 微妙に歯切れの悪い礼を言うオヤジの言葉に、男の目がオレから逸れた。


「いえ、お気になさらず」


 今のうちに、と藻掻くが、男の手は吸い付いているかのようにオレの首根っこを掴んで離れそうもない。見た目に寄らず力が強い。

 ただ、藻掻くうちにメガネ男の旅装、年季の入った灰色の外套が少しだけ開けた。


 その首にかかる光沢のある布地。その帯を目にしたオレは、目を見開いた。

 オヤジも驚いた声を上げる。


「にいちゃんあんた、教会の人か」


 メガネの男が首にかけたストラ。それは教会の聖職者の証である。

 光沢のある黒い生地。外套の隙間から覗く先端には、白銀の刺繍が神聖な十字を描いている。


 メガネ男はオレを掴んだ手はがっちりと離さないまま「にへら」としか形容できない、実に締まりのない緩い笑顔をつくった。急にイケメン感が薄れた。


「これはこれは、申し遅れました。私、教皇庁から派遣されてきました審問官のユエと申します。こちらの村に駐在している司祭さんからの連絡が途絶えているとのことで、確認に参った次第でして。あ、ちなみにこちらのお店には、お昼ごはんを買いに来ました」


 厳格さの欠片も感じられない後半はどうでもいい。


 『教皇庁』『審問官』『司祭』


 並べられた単語を頭の中で繰り返す。

 信じがたいことに、このにやけたメガネ男は教会の人間らしい。

 オレの知ってる教会の司祭は、不機嫌そうでいつもぶっさい顔したジイさんだった。

 教会なんて萎びてカビが生えたクソだとばかり思っていたけど、こういう若いイケメンもいるらしい。

 でも、クソはクソだ。


「ところでこの子は」


 オレはメガネ男に向き直って、渾身の力で右足を的に向かって蹴り上げた。


「ぐはっ」


 これ以上無理ってぐらい綺麗にキマった。メガネ男が悶絶して崩れ落ちるその隙に、オレはその手を振り解いて走り出す。


「あっ! ハオ!」


 パン屋のオヤジが、オレと股間を抑えて蹲るメガネ男とを見比べて叫ぶ声を聞いた。

 もちろんオレは足を止めることなくその場を走り去った。


 脇目も振らず駆け抜けて、一直線にねぐらに駆け込んだオレは、荒くなった息を吐いて床の上にへたり込んだ。

 煤けた壁に背中を預けたところで、背中に刺していたバゲットが無いことに気付く。藻掻いて暴れた時にでも落としてしまったのだろう。


 一日ぶりに木の実以外が食える筈だったのに、あのクソメガネのせいで台無しだ。


「あー、はらへったな……」


 オレのねぐらは、火事で焼けた教会である。

 放火によって殆どが焼け落ちた建物だが、礼拝堂だけは比較的まともに残っている。風は遠慮なく入って来るが、屋根があり、壁もある。

 元祭壇の下に潜り込めば、それなりに快適なオレの城だ。

 適当に集めた布に包まれば暖かいし、雨風も十分凌げる。ちょっと焦げた跡はあるが、三か月あまり住み続けた。最近、ちょっと愛着が出て来た気もする。

 何より、村の人間が近付こうとしないのがいい。


 教会には元々司祭が居たのだが、そいつは三か月前に病で死んだ。

 元々人望も何も無かった司祭の死を、積極的に悼もうという者はたいして居なかった。

 ただ、庭の裏手に適当に作った墓に、三日に一度ぐらい、適当に食べ物が、いつの間にか供えられてるだけだ。


 孤児が一人居付いているだけの、司祭も居ない、ただの廃墟。

 浮浪者のオレのねぐらに成り下がったこの教会には、殆ど誰も訪れない。


 てっきり、死んだ司祭に代わる次の司祭かなんかが来ると思っていたけど、今のところそういうものがやって来ることはない。

 このまま来なければいいのに、と思いながらも、そうはならないだろうというのは分かってた。


 審問官については、ちょっと聞いたことがある。

 確か国中を旅して回って、不正を正したり、何かを調べたりするってやつ。

 初めて知った時、単純に「いいな」って思ったことをおぼえてる。

 国中を旅して回るとか、いいな、って。


「おじゃましまーす」


 その時、礼拝堂に響いた間延びしたいかにも呑気な声に、オレは祭壇の下から思わず顔を出した。

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