第4話 茉莉のからかいと心理学

 飲み会の翌日。


 アルコールの代償とも言うべき気だるさが頭の表面にまとわりつきつつも、何とかベッドから這い上がり、朝の身支度を済ませる。


 といっても起きたのは11時と遅め。


 今日はブランチだ、なんて高級感の漂う言葉を口にしてみたが、実際はいつもの朝食メニューだ。


 食パンに目玉焼き、そしてすでにカットされた状態で売られているミックスサラダ。


 寝起きの胃袋を叩き起こしてから歯を磨く。


 外出用の見た目に整えてから大学へと足を運ぶ。


 昼食は食べずに午後からの講義に備える。


 大学入試に使われていそうな広さの大講義室に足を踏み入れ、いつものように空いている席を探す。


 よかった、後ろの席が空いている。


 前の席だと先生に当てられるという恐怖感情を義務教育のうちにしっかりと習っていた晴樹は、ほっと息を撫で下ろしてからそそくさと陣取る。


 大講義室の隅の隅。


 もはや晴樹目当てでこの講義室に来ていない限りは、自身の存在を感知できないのではないかと謎の満足感を味わっていた矢先のことだった。


「晴樹さんもこの授業取ってたんだね」


 心臓をくすぐられるような声が晴樹の耳朶を打つ。


「茉莉さんこそ。今まで授業サボってた?」


「ふふっ。サボってないよ。ちゃんと皆勤賞だし。晴樹さんこそ今まで見たことないんだけど?」


「そりゃあこんな端っこの席にいるからな。もっと言うと互いに知り合いじゃなかったんだから気づかなくて当然だろ」


「それもそうだね」


 茉莉は前からそうしていたかのようにすんなりと晴樹の隣に座った。


 講義室の机は、いわば5人ほど座れる長机で、茉莉は座ろうと思えば晴樹と最も離れた席に拠点を置けるのにも関わらず、晴樹のすぐ隣を選んだのだ。


 その事実だけで、いつも講義中に定期便で訪れる睡魔が有休をとったことを悟った。


 晴樹は講義室のいちばん後ろの席から、全受講生を見下ろす形になっているのだが、所々で空いている席があるので中々揃わないビンゴカードみたいになっていた。


 中学や高校と違って、全員が知り合いではないので当然といえば当然だ。


 だからこそすぐ近くにいる茉莉の姿が晴樹自身を異質な存在として象徴づけているような気がして、より目立ちたくないと思った。


 少し時間が経ってから、講義が始まった。


 一般教養としての心理学にフォーカスした講義である。


 晴樹はどちらかというと心理学に興味がある方だ。


 高校生の時は、法律と心理学を極めれば、天才頭脳キャラみたいにありとあらゆる人間を支配できるのではないかと本気で考えていたほどだ。


 法律で人間を外部から統制し、心理学で内面を掌握すれば最強だと、当時のクラスメートの空気に支配されていた晴樹は企んでいた。


 なんか今、誰かに笑われた気がする。支配してやろうか。


 とまあこんな具合で内心独り言ちていないと、晴樹の精神状態は落ち着かないわけだ。


 気が気でない中、教授の口から『ピグマリオン効果』というワードが放たれた。


「えぇ、ピグマリオン効果というのは教育心理学の用語の一つで、簡単に言うと他者から期待されると、成績が向上するというものです――」


 説明を聞き終わり、茉莉が言った。


「へえ、そんな便利なものがあるなら世の中の先生みんなやればいいのに」


「そんなに簡単な話じゃないんだ。ピグマリオン効果っていうのは期待に応えようと努力の量を増やすから、必然的に能力が伸びるっていうちゃんとした論理があるんだよ。褒めたら魔法的な何かで急に成長するってわけじゃないんだ」


「物知りだね。教授もまだ解説していないのに」


「普段から本を読んだり調べものをするのが好きでね。知識が偏ってるんだよ」


「いいね。素敵だと思う」


 茉莉が端的に感想を述べた。


 褒められたことで、晴樹の読書量は増えるのだろうか。


 うん、何となく増える予感がする。


 教授の話は、より実践的なものへと変化していった。


 ピグマリオン効果は企業の人材育成やマネジメントにも利用されているという話を聞き、茉莉は言った。


「ピグマリオン効果ってなんだか色んなことに応用できそうだよね」


「確かに。本質にあるのは思い込みだから、何か詐欺まがいなものに組み込まれている可能性もあるかも」


「うわ。晴樹さんって現実的だな。私はもっと夢のあることを思い浮かべていたのに」


「茉莉さんは何に応用できると思ったの?」


 すると、茉莉はいたずらっ子のように微笑んだ。


 聞かなければよかったと晴樹は後悔した。


「……恋愛、とかかな」


「恋愛、ふーん恋愛な。まあそういうのもあるかもな、知らんが」


「例えばさ、私のことを好きなのがえらいって晴樹さんを褒めたら、いずれ好きになっちゃうってこと?」


 また、あれだ。


 茉莉が頬杖をつき、人をおちょくるような瞳で、晴樹の目を射抜く時間だ。


 茉莉の切れ長の瞳はまるでブラックホールのようで、目を背けたくても背けられない引力が発生している。


 晴樹のペン回しのスピードが速くなる。


 晴樹は捻りすぎた蛇口から出る水のようにまくしたてた。


「それはまた別なんじゃないか。なんかそういうのは恋愛心理学とかであるんだろ。うん。というか好きなのがえらいって褒めてるのにこれから好きになるってなんか筋が通ってないんじゃないか? それにあくまで成績とか能力の話だから、茉莉さんが言うのはピグマリオン効果の趣旨に反してると思うし」


 はっ、しゃべりすぎた! と思って慌てて蛇口を締め直したが、茉莉はしまりのないダラっとした顔になっていた。


「何をそんなに焦っているの?」


「焦ってない。茉莉さんがあまりにも間違えたことを言うから、どうしても訂正したくなっただけさ」


「そうだったんだ。ふーん。晴樹さんは私のことを好きでいてくれてえらいね」


「や、だから何を言って――」


「趣旨に反してるんでしょ? だったら関係ないよね? からかってるだけだし、本気にしないでいいよ」


「……言われなくても最初から本気になんてしてない」


「そっかぁ、残念だね」


 そういう茉莉の表情には、焦りの『あ』の字もなかった。


 余裕とか優越とか(笑)とかが国語辞典のようにぎっしり書かれていた。


 茉莉の言葉は心臓に悪いというか身体に悪い。


 けれど、またすぐに欲しいと感じてしまうのはジャンクフードやゲーム、人によってはドラッグを始めとした背徳感を伴う何かと同じ匂いがするからだろうか。


 自分が自分じゃなくなるのではないかと怖くなった晴樹は、ちっちゃい睡魔をわざわざ召喚して、机に伏した。


 でも、横の小悪魔がペンで肩の辺りをツンツン突いてきた。

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