第3話 いつもの友人とゲストと飲み会

 事情聴取が終わって大学に着いた時には、すでに正午を回っていた。


 トラブルで午前の講義には出られなかったが、午後の講義がなくなるわけではない。


 みっちりと18時過ぎまで講義を受けた。


 いつもならそのまま一人暮らしのワンルームに直帰するのだが、今日は友人たちと飲みに行く約束をしているので、講義を受けたついでに最寄り駅の居酒屋へと向かう。


 現地集合と聞いていたが、男友達が待ちきれなくなったらしく、一足先に店内で席を取っていた。


「よぉ、遅かったな晴樹」


ひろしと違って僕はサボらなかったからな」


 晴樹は気だるげに腰を下ろす。


 対面に座っているのは、大森浩おおもりひろし。サボり癖のある友人のひとりだ。


 周りの喧騒がある中、浩は大学にいる時と同じ音量で口を開く。


夏希なつき、もう着くって」


「なんて?」


 四人席の小さいテーブルとはいえ、居酒屋特有の騒がしさに浩の声は負け、再度こちらが訊きなおす羽目になった。


 どうやら浩によると、夏希はもう一人新顔を連れてくるそうだ。


 いつも浩と夏希と晴樹の男二人女一人のメンツで飲み会を開いていたので、新鮮な風が入るワクワク感が芽吹いていた。


 少しの間、晴樹と浩が他愛もない話で盛り上がっていると、「うぃー」と聞き慣れた声が耳に入ってきた。


「お疲れぇ」


 そう労いの言葉を交わし合ったのは、飲み友達の西宮夏希にしみやなつきだ。


 夏希は浩の隣に座るや否や、テンション高めにまくしたてた。


「今日はね、スペシャルゲストに来てもらってるの」


「西宮さん、それさっき浩から聞いた」


「朗報は何回聞いてもいいでしょ?」


 夏希が「ほらほらこっちこっち」と手招きすると、「本当に晴樹さんだ」というくすぐったい声が聞こえてきた。


 声のする方へ顔を向けるとそこには、晴樹へはにかみながら手を振る茉莉の姿があった。


「どうしてここに茉莉さんが?」


「夏希ちゃんに紹介されたの」


 そう言って、茉莉は何のためらいもなく晴樹の横を陣取る。


 座った反動でふわりと揺れた黒髪から、何だか形容しがたい、とにかくいい匂いが漂ってきた、気がしている。


 ともかく、晴樹のIQが著しく下がったのは確かだ。


 晴樹が言語体系を忘却しているうちに、夏希が事情を説明する。


「二人はあたしにルームメイトがいるって知ってるでしょ? 実はこの子がそうなの。佐倉茉莉さくらまつりちゃん。大学でお昼ご飯食べている時にさ、今朝トラブルに巻き込まれたけど、男の人が助けてくれたっていうからさ。名前とか容姿の特徴とか聞いてみたわけ。そしたら晴樹そのものだったからさ、これはもう連れてくるしかないなってなったわけなのよ」


 事情聴取の際、同じ大学であることを知ったのだが、まさか友人のルームメイトだったとは思わなかった。


 にしても茉莉の苗字を知ってしまったことで、勇者の剣として拾った木の棒を先生に取り上げられた時のような寂しさを抱いた。


 聞こえなかったふりをして、そのまま茉莉さんと呼ぶのは気味悪がられるだろうか。


 そんな心の中の葛藤なんてつゆ知らず、夏希はハキハキと仲間の紹介を始める。


「茉莉ちゃんには改めて紹介するね。隣にいるのが潮田晴樹しおたはるき。彼女いない歴=年齢の冴えない男子大学生でーす」


「お、おい。言わなくていい情報を追加するな。ワイドショーか」


「こういう捻くれたところもあるから、茉莉ちゃんも発言には気を付けてね」


 晴樹は、んぅ、と声にならない抵抗を示すだけで頭を悩ませるしかできなかった。


 ツッコミどころが二つある。


 一つは彼女いない歴=年齢というプロフィールをバラされたこと。


 恥ずかしいという感情は隠していたものが何者かによって暴かれた時に湧き出るものだと思っている。


 それゆえに自らがさらけ出せば、恥じらいも薄まるというのに、夏希はその機会を颯爽と奪っていったのだ。


 そしてもう一つのツッコミどころは、苗字を教えたところ。


 紹介するのだから、フルネームを提示するのは世の中的にはおかしくないのだが、晴樹には事情がある。


 せっかく、晴樹さんと呼んでもらえているんだ。


 今日をきっかけに潮田さんと呼ばれてしまったら、大学生としてのあらゆる意欲がそぎ落とされてしまうかもしれない。


 夏希にいつの間にか頼まれていたビールに口をつけ、未だ慣れない独特の苦みに顔をしかめていると、


「潮田さん」


 生まれてから最も多く言われて、現状最も恐れていた言葉が茉莉の口から発せられた。


「な、なに?」


 晴樹は苦虫を噛み潰したような表情で返事をしてしまったのではないかと後悔するが、噛み潰したのはビールの苦い泡でしかないと心中で自身に言い聞かせた。


 茉莉はミックスジュースの入ったグラスを大事そうに抱えながら言った。


「ビール飲めるんだね。大人だなぁ」


「二十歳になったばかりだし、まだ数は飲んでないけどね。でもけっこううまいよ」


「その割にはつらそうな顔してたよ?」


「いや、それは、その……」


 ばっちり見られていた。


 無理してビールを飲んだと看破されていて、顔が赤くなりそうだ。


 ただ、その紅潮を酒のせいにもできない。


 酒が弱いと思われてるのが何となくカッコ悪いと自己評価してしまう時期なのだ。


 だが、再三言うが恥じらいというのは他者から秘め事を暴かれるところに生まれるのだ。


 せめてもの気持ちで晴樹はフォローする。


「正直言ってビールの苦みにまだ慣れてなくってね」


 ははっ、と渇いた笑いに対して、茉莉は小悪魔のように首を傾げた。


「ビールが苦いから? 私はてっきり違う理由でつらいのかと思ってた」


 えっ、と晴樹は襟首から氷を入れられたかのように背筋がピンと張る。


 茉莉は面倒見の良い女上司のように頬杖をついて、晴樹の双眸そうぼうを見据えてくる。


 その切れ長の目で見られていると、何でも見通される気がして、固唾を呑むことすら躊躇してしまう。


 茉莉はふっ、と口角を上げた。


「潮田さん」


「はい」


「晴樹さん」


「あ、あの」


「ふふっ。潮田さん、晴樹さん、潮田さん、晴樹さん」


「僕のことからかってる?」


「からかってるよ」


 茉莉はあっけらかんとした口調で、「わかりやすいんだもん」と付け加えた。


 どうやら名前で呼ばれなくて焦っていたのが筒抜けだったらしい。


 遊ばれているこの状況にすら安心感を覚えてしまっている自分は、やはり茉莉に対してそういった感情を抱いているのだと自覚せざるを得なかった。


「何かしてほしかったらちゃんと言ってよね、晴樹さん」


 友達なんだから、と茉莉がはにかみながら言った。


 友達というワードに晴樹は心の中で糸が固結びになったような感覚を覚えつつも、それを茉莉に悟られるのを回避したくて、


「変な友達が増えたな」


 と茶化した。


 誰が変な友達だ、と夏希と浩が応戦する。


「一応、浩も飲み友達の中にいるんだから、蚊帳の外にしちゃ悪いでしょ」


 夏希の言い分に「一応は余計だ」と一言入れる浩。


 浩は茉莉に向き直って、自己紹介を始めた。


「俺、大森浩って名前だから。晴樹とは大学からの友達としてやらせてもらっててな。まあ、よろしく」


 ――茉莉、と浩が聞き捨てならないセリフを吐いた。


 いや、冷静に考え直したら、浩の名前呼びは他意がないことを思い出した。


 ピクリと震えた茉莉に、浩は余裕の笑みで補足する。


「俺、男も女もみんな下の名前で呼んでるんだ。それに実は俺の恋愛対象は男だし、茉莉を狙ってるとかじゃないから、そこらへんは安心して」


 チャラい奴じゃないんだ、と浩はにへらと笑った。


 浩は初対面でも臆することなくこういったカミングアウトができる性質を持ち合わせている。


 実際に男性と付き合っていた経験があるからこそなのか、浩の態度というか姿勢は常に堂々としているし、そういったところを晴樹は密かに尊敬していたりもする。


 茉莉はあぁそうなんだ、と納得の意を表すも、どこか不機嫌に見えなくもない。


 茉莉がミックスジュースを一気に飲み干す。


 飲むというか流し込むといった感じだった。


 浩が何か気に障るようなことを言ったのか。


 でも特にこれといって茉莉を傷つけるような言葉はなかった気がする。


 まさか、ことに対して、彼女自身が何か特別な意味を見出していたなんて、そんな僕に都合の良いことはないだろう。うん、絶対ないない。


 晴樹が疑問符を浮かべていると、夏希が「ははーん」と言って、何やらニマニマしだした。


 その様子を確認した浩も何やらニマニマしだして、茉莉にこう言った。


「ま、でも何か特殊な縁で今日は来てくれたみたいだし、特別に佐倉さんって呼ぼうかな」


 おいおい、浩。


 何勝手に特別扱いしているんだ。


 まあ、男の中でのは嬉しいんだが、モヤモヤはする。


 とはいえ浩からすれば、晴樹の嫉妬心なんてただの理不尽でしかないだろうから、晴樹は喉の奥から出そうになっていた恨み節をビールで流し込んだ。


 炭酸の鈍い刺激が、晴樹への自戒に思えた。


 お気になさらず、と言った茉莉の声音は明らかに先ほどよりもワントーン高くて、やはり不思議な心地だ。


 夏希が世話焼きのオカンのように晴樹へ言葉を投げかける。


「ほら、潮田。さっさと茉莉ちゃんに注文聞いてあげな」


「や、なんで僕が」


「いいから」


 何か邪な理由で急かされているのではないかと勘繰りはするが、皆目見当はつかないので、頭をポリポリ掻きながら言った。


は何か頼みたいものある?」


「……ミックスジュースおかわりで」


 茉莉は借りてきた猫のようにしおらしくおかわりを要求した。


 茉莉さんが美味しそうに飲んでいるところを見たら僕も飲みたくなってきたな、と晴樹は言って、店員に二つ分注文した。


 実際のところ、晴樹はただ共通項を増やしたいだけであった。


 夏希はよそよそしく焼き鳥をむ茉莉に言った。


「何かしてほしかったらちゃんと言わないとね、茉莉ちゃん」


 すると茉莉の耳がまばたきの間に夏から秋に移り変わったかのように紅くなった。


 晴樹は何となく、茉莉は酒に酔うともっと可愛いんだろうなと思った。


 ミックスジュースが運ばれてくると、茉莉はすかさず口をつけ、「うーん甘い」と唸っていた。


 茉莉の飲みっぷりを見本として、晴樹もミックスジュースを舌の上に転がした。


 うーん、と唸ってから、口の中の苦みが無くなっていることに気付いた。

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