三つのルール

 隠形の術に限らず、アイルたちの力を借りているときに重要なのは、心の平静を保つこと。ただし、心を無にしてはならない。それから、悪行のために力を借りてはならない。この三つのルールさえ守れば、アウルの寵児であるマクシミリアンなら大丈夫だろうと、始めにリチャードが言った。


 心の平静を保たなくてはならないのは、アウルたちは心の機微に敏感らしく、激しく動揺したりすると驚いて離れてしまうから。

 心を無にしてはならないのは、アウルたちに取り込まれるから。

 悪行のために力を借りてはならないのは、邪悪なアウルを引き寄せ災いを招くから。どうやら、アウルにも善良なアウルと邪悪なアウルがいるらしい。


 リチャードが隠形の術を使ってマクシミリアンを背後から絞め落とそうとしたときに、チェチェがあれほど怒ったのは、三つ目のルールに抵触するからだ。もっとも、善良でも邪悪でも人間に寄ってくるアウルは総じていたずら好きなので、リチャードは問題ないと踏んだらしい。そもそも、人間の善悪とアウルの善悪が一致するとは限らないだろうと言ったのは、チャールズだった。


 彼らの話を聞いてマクシミリアンは、双子が髪の毛を一本残らず剃り上げている理由を不意に思い出した。ピュオルの恐怖の一夜は、まだ記憶に新しい。

 髪の毛一房をケチるだけで化け物に食い散らかされるのだから、彼らの言う災いのが致命的に恐ろしいと察するに余りある。

 隠形の術を使えば盗みも暗殺もやりたい放題なことに、マクシミリアンはそのときようやく気がついた。その夜、妻にそのことを話したら人が良すぎると呆れられることになる。


 ピュオルでの経験、それから双子――特にチャールズの真剣な口ぶりに、マクシミリアンは三つのルールを決して破るまいとしっかり肝に銘じた。


 肝に銘じた三つのルールを守り、なおかつ巫女のチェチェがアウルたちに呼びかけ続けてくれたことで、順調に別棟までやってきた。けれども、ここにきてこんな試練が待ち構えていたとは。


「やっぱ『毒姫物語』最高ってのは、わかってんだ。わかってんだよ。でも、俺は『昼花、夜華』について熱く語りたいんだよ。クッソ、『昼花、夜華』派の同志はいないのかぁ」


 『毒姫物語』も『昼花、夜華』こと『昼に咲く花、夜に咲く華』も、百合小説作家リリー・ブレンディの代表作だ。

 囚人も看守も男しかいない監獄で自作の百合小説について熱く語る者がいるなんて、予想できるわけがない。想定外も想定外。


(心の平静を保つ。心の平静を保つ。心の平静を保つ…………)


 呪文のように、ルールその一を心のなかで繰り返す。それこそ、心の平静がなんなのかわからなくなるくらい繰り返した。

 どうやら看守たちは入り口近くの詰め所に向かうようで、こちらに近づく様子はない。とはいえ、静まり返った別棟に彼らの話し声はよく響く。


「あー、そうそう、二〇四七番……ほら、アイツ。アイツが、図書室の『昼花、夜華』を読んでるの見たって聞いたぜ」

「とうとうクマ男もこっちの人間に。百合、マジでヤバいな」


 いよいよ頭がどうかしてしまったのかと思った。

 看守だけでも驚きなのに、まるで囚人にも読まれてるような話が聞こえた気がする。


(俺は何も聞いてない聞いてない聞いてない)


 囚人が百合小説を読むなんてありえない。そう考えていたのは間違いだったようで、現実は彼の予想の上をいく。


「ホント、リリー大先生様様、俺たちの救世主!!」

「百合のおかげで、囚人たちは大人しくなったし。尊い!!」

「それな」


 意味がわからない。

 女が女とイチャイチャさせてるだけの趣味妄想全開の小説のどこに、囚人を大人しくさせる力があるというのか。意味がわからない。

 熱狂的な読者がいることは把握している。けれども、やはり万人受けしないこともわかっている。

 マクシミリアンにとって執筆活動は、あくまでもストレス発散を目的とした趣味だ。世間一般の売れっ子作家という認識はまるでなかった。売り上げた儲けはすべて妻が立ち上げた女性向けの出版社の資金に回しているので、そもそもどれだけ売れているのかもいまいち把握していない節があった。

 王妃ジャスミンやリチャードに新作を催促されても、気が向いたらとしか答えられないのは、売れっ子の自覚のなさも一因だった。

 一般の読者の声を直接聞くのは、実はこれが初めてだ。

 恥ずかしい。嬉しい。でも、やはり恥ずかしい。


(というか、なんで監獄に俺の小説があるんだよ)


 真っ先に浮かんだのは、フィリップだ。物資を供給している彼なら、監獄に送り込むことも可能だろう。二重底の荷馬車で普段何を運び入れているのか、わかったものではない。もしも、父のように正義感が強かったら、問い詰めずにはいられないだろう。残念ながら、そこまでの正義感は持ち合わせていない自覚はある。国の物流の大半を掌握している大商人を敵に回したら、リセール公であっても無事ではいられない。いまだに彼の助力なしでは、リセールを治められないのだから。

 とはいえ、疑念と同時に否定してしまう。なんの得にもないことはしないだろうと。篤志家、まごうことなき善人グッドマンであっても、罪人の娯楽まで面倒見るとは考えられない。商人として成り上がるのに、悪どいことをしなかったわけがないのだから。

 なにより、フィリップは百合に関心などないだろう。彼の著書をコレクションしたのだって、特別な甥が書いたから。それだけに決まっている。

 では、他に一体誰が。

 その疑問の答えは、どうから看守たちも持ち合わせていなかったようだ。わざわざ足を止めて、彼らの話は続いた。


「で、誰が図書室に百合小説だけの本棚を作ったんだよ?」

「それが誰に訊いても、答えは『少なくとも自分じゃない』って否定するんだよな」

「なんだそれ」

「誰かが嘘ついてるってことだろうな。そんな嘘つく意味がわからんが」

「けど、それなりに金持て余してる奴に限られるんじゃね。リリー先生のだけでも全作六冊ずつ揃えてんだし」

「それじゃ、うちのボスしか当てはまらないだろ。だが、ボスに限ってないだろ。俺は、いつボスが百合に気づいて燃やすんじゃないかって、気が気じゃないってのに」

「確かに、あのボスが『昼花、夜華』読んでるところとか、想像できんな。あ、もしかしたら一人とは限らないかもな。なんかこう、百合を広めたい同志が結託してとか」

「あーそうか、複数犯の可能性もあるか」

「てか、お前もそのメンバーの一人なんだろ?」

「ないない。絶対ない」


 笑いながら否定する声を追いかける声に続いて、入口近くの扉が閉まる音が廊下に響き渡った。


 ドローア監獄の図書室には、百合の本棚がある。


(なんでだよぉおおおおお!! 意味わかんねぇよ!!)


 マクシミリアンは頭を抱えたくなった。いや、実際にしゃがみこんで頭を抱えていた。


 ――――ィン


 混乱しパニック状態のマクシミリアンは、ハッと我に返った。いつの間にか、心の平穏云々はもちろん隠形の術のことも完全に失念していたのだ。

 恐る恐る顔を上げると、チェチェがなんとも言えない微妙な顔で見下ろしていた。焦って思わず声を上げそうになった彼に、彼女は口を『ダイジョブ』と動かして肩をすくめた。その仕草が、なんだか双子に似ている気がした。

 口中でアウルに呼びかける呪いを唱えると、視界の端でキラキラと何かが光る。どうやら、まだアウルに見放されてなかったようだ。これが、チェチェのおかげかアウルの寵児だからなのか、それともいたずら好きのアウルたちが楽しんでいたのからなのかは、わからない。けれども、隠形の術はまだ継続中なのは確かだ。


(こんなことに取り乱している場合じゃなかった)


 三つのルールの一つを破っても見放されなかったけれども、次がどうなるかわからない。

 誰が監獄の図書室に百合専用棚を作ったのか、気にならないといえば嘘になる。しかし、今すべきことはヒューゴに会って、話をすることだ。

 気を引き締めて立ち上がり、催促するつもりでリチャードを睨めつける。

 けれども、リチャードはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているではないか。彼も当然、看守たちの会話を聞いていたに違いない。思いがけず読者の生の声を耳にした甥の反応を眺めて面白がっていたのだと、はっきりと顔に書いてあった。しかも、いつの間にか解錠をすませて、道具もすっかり片づけてあるではないか。


(あとで、絶対に文句言ってやる)


 羞恥心と腹立たしさ、それから悔しさで、マクシミリアンはワナワナと震える。そんな彼の黒服の裾を、呆れた顔でチェチェがクイクイと引っ張る。チェチェになだめられるのが、何より悔しくて情けない。

 大きく息を吐き出した彼に、扉から数歩離れたリチャードはご丁寧に両手で『さぁどうぞ』と扉を開けるように促す。彼とは、ここで一度お別れた。今から、彼には脱出経路を確保してもらわなければならない。

 するべきことは、わかっている。

 もう一度大きく息を吐いて、マクシミリアンはドアノブに手をかけた。

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