ドローア監獄潜入作戦、開始

ドローア監獄が脱獄不可能とされている所以は、その場所にあった。

 リセール領に隣接する直轄地は、大河に突き出した岬となっており北以外は断崖絶壁に囲まれている。監獄はまさにその最先端にあった。この岬の特殊なところは先端と線一本引いたように深い亀裂によって分断されているところだ。監獄の入り口は北側の跳ね橋一本のみで、他は断崖絶壁に囲まれている。内部の様子を少しもうかがうことのできない高い塀は、足を滑らせた事故はもちろん、喧嘩等で突き落とされることや、自殺といった、転落防止のためであり、逃亡防止の機能をしていない。

 監獄の手前は、舗装された一本道意外に何もない。草も木も刈り取られた不毛な土地が岬の中程にある検問所まで広がっている。囚人を奪還しようにも、身を隠して襲撃することも不可能だ。

 五百年前、当時の神ごとき聖王が大陸の東の果て黄金山脈に雷を落とし大河が誕生した頃から、このような不自然な地形だったという。王国内でもこれほど孤立した土地はない。ここに監獄が建てられたのは、しごく当然のことだった。

 この完全に孤立した監獄に必要な食糧や日用品などの物資は通常五のつく日に運ぶのも、グッドマン商会の仕事の一つだった。マクシミリアンたちは、末弟のコーネリアスに直接交渉したのではと勘ぐったものの、結局誰一人直接問いただせないままその日を迎えた。



 よく晴れた四月五日の昼前、検問所で改め終わった荷物が荷馬車に積み直し終わった。今回も、いつも通り問題なし。幌付きの荷馬車は三台。積み直し終わった荷馬車から順に、監獄に向かって進んでいく。一台、二台と。

 ようやく動き出したことに、マクシミリアンは思わず安堵の息をついた。けれども、すぐに気を引き締めなおすと、慎重に目の前の板を少しだけ押し上げる。スムーズに動いたことに再び零れそうになった息をぐっと飲み込む。暗闇に慣れた目には射し込む光に少々毒だった。しばし、荒っぽい馬車の揺れに耐えながら上の様子をうかがってから、板を横にずらすように退かした。

 急ぎつつも慎重に体を起こして二重底となっていた荷台の床に上がる。膝をついて出てきた穴に両手を差し入れ引っ張りだしたのは、チェチェだ。傍らに座らせてから、床を戻す。と、不意に大きな揺れが襲い、がたっと大きな音を立ててしまった。


(しまった)


 一瞬、心臓が止まった。


「今、音しなかったか?」


 御者台からした声に、心臓が息を吹き返したと思ったら、痛いくらいの早鐘を打つ。嫌な汗が全身に吹き出す。今、荷台を改められたら、見つかってしまう。


「ん? ああ、なんか落ちたんだろ」

「止めるか?」


 荷馬車の速度が落ちる。

 今すぐにアウルたちに助けを求めれば、ギリギリ間に合うかもしれない。けれども、隠形のまじないにはあらかじめ精神を落ち着かせておく必要があった。


「気にすることないだろ。たいしたモン積んじゃいねぇし」

「それもそうだな」


 落ちていた速度が戻る。

 どうやら大丈夫だと確信したマクシミリアンは、詰めていた息を静かに吐ききった。

 近くの樽に背中を預け胡座をかいた彼の手に、チェチェが手を重ねる。

 少女の吸いこまれそうなほど凪いでいる琥珀色の瞳に、思わず苦笑いを浮かべる。


(俺ばかりが焦ってどうするんだ、まったく)


 まだ監獄の外だというのに。

 子どものチェチェのほうが泰然と構えて、大人の自分がこの体たらく。


(しっかりしろ、俺)


 しっかりしなくてはどうする。

 少女は静かな瞳で大丈夫かと問いかけてくる。

 マクシミリアンは唇を引き結んで、深く頷き返した。

 ゆっくりと膝の上に腰を落ち着けた彼女を抱えこんで、心の中でアウルたちに呼びかける。


 一瞬で、空気が――いや世界が変わった。


(うまくいったな)


 いつもより世界が明瞭になったとしか言いようのない感覚は、隠形の術に成功したという証。ピュオルを発つ船で初めて経験したあの感覚は恐ろしいものだったけれども、自分を見失いそうになることはなくなる程度には慣れた。

 アウルは世界そのもの。その解釈は今でも変わらない。けれども、漠然と王国で見えざる隣人、妖精などと呼ばれている存在の正体でもあるような気がしている。

 妖精といえば、従弟のジャックが幼い頃に初めて許嫁のジャスミンを見たとき、妖精のようだと興奮して大泣きさせたことがあった。もちろん、それは別の物語だ。神なき国ヴァルト王国に神はいない。けれども、見えざる隣人の存在や説明のつかない不思議を信じる者は少なくない。

 マクシミリアンは、そういったものを信じていなかった。仮に存在しているにしても、自分のような者には関わりのないことだと思っていた。

 けれども、ピュオルに一度行っただけでそんな考えは吹き飛んだ。


(もしかしたら、俺の運の強さもアウルのおかげだったのかも知れないな)


 一人だったら、こんなどうでもいいことを考える余裕などなかったに違いない。緊張のあまり息もできなかったかもしれない。

 けれども、ピュオルのアウルム族最後の巫女チェチェがいる。こんないたいけな少女を巻き込んで本当に申し訳なく思う。

 跳ね橋を渡り終えたら、リチャードと合流しなければならない。リチャードならば、自分よりも他の荷馬車に上手く潜り込んでいるはずだ。




 あの日、フィリップの口から隠蔽された連続強姦事件が語られた日から五日後の四月一日。フィリップは、再び仮面を外して領主館にやってきた。

 場所は前回と同じくチャールズとリチャードが滞在している迎賓館の一室。


 ちなみに、チェチェは少女ということもあって、二日目からは本館で預かることになった。息子同然だとのたまう双子から、せめてリセールに滞在している間はちゃんと女のもとで世話をするべきとデボラの意見を、双子があっさりと了承した結果だ。双子が薄情というわけではなく、むしろ自分たちのような男が世話をするよりずっといいだろうと、どこかほっとした様子だった。ピュオル独特の事情があるとはいえ、ピュオルを離れてようやくツルリとしていた頭に和毛のような頼りない髪しかないチェチェを不憫に思った領主館の女たちがこぞって世話を焼いている。少女とかしましく世話を焼く女たち、マクシミリアンにとっては眼福でしかない光景をずっと眺めていたかった。もちろん、そんな暇はない。

 今日のチェチェは空色のボンネットを被り、厨房の使用人の娘のお下がりの服を着ている。それに対して、双子は相変わらずの白と黒の服。黙って並んで立っていると、本当に見分けがつかない。けれども、どういうわけかマクシミリアンだけは直感で見分けることができた。これも、アウルの寵児だからだろうか。


 さて、前回と同じ顔ぶれが待ち構える中、荷物を抱えてきたフィリップはマクシミリアンに尋ねた。


「潜入決行は、四日後の五日を予定している。お前たちに問題がなければだがな」

「俺なら問題ない」


 即答したマクシミリアンは、アウルの寵児だからか隠形の術はなんなくこなせるようになっていた。教えられたアウルに呼びかける呪文を唱えれば、必ずすぐに応えてくれるのだから、むしろそれが当然だとすら思いこんでいた。実際には呼びかけに応えてくれるようになるまで年単位の修行が必要だし、気まぐれなアウルが必ず応えてくれるわけではない。


「チャックとディック、お前たちはどうだ?」


 一応ついでと言わんばかりに尋ねるのは、その答えがわかっているからだ。案の定、彼らは次兄が予想した通りチャールズがつまらなそうに肩をすくめて答える。


「聞くまでもないことを、いちいち聞くな」

「フン」


 なんとなくではあるけれども、六王子として一つ屋根の下で暮らしていた頃からこのようなやり取りをしてきたのだろうとマクシミリアンは考えた。どちらもぶっきらぼうな口調だけれども、特段険悪というわけでもない。強いて言うなら、チャールズたち双子にとって次兄を口うるさく思っているといったところか。実際、そのようなことをチャールズはもちろん、普段は口数の少ないリチャードまでもが口にしていた。


(というか、これはあれじゃないか。なんかお互い素直になれないだけで、本当は仲よくしたいやつでは?)


 フィリップの正体を知ってまだ日は浅い。それでも彼が面倒見がいいのは間違いないけれども、なにかとこじらせそうな性格なのはなんとなくわかった。

 双子たちは双子たちで、非情ではないのに『非情の双子王子』だと言い張るくらいなので、やはりなにかこじらせがちな性格なのだろう。


(兄弟、なんだな)


 マクシミリアンも従弟のジャックとはひとつ屋根の下で兄弟同然に育った。幼い頃は、ジャックを弟のようにかわいがったし、明晰王が後継者育成のために従兄弟同士で競わせようとしたときも、こっそり手を結んで明晰王の鼻を明かしてやったりと、揺るがぬ信頼関係を周囲に知らしめた。今でもジャックからは「従兄上あにうえ」と親しみを込めて呼ばれるほどには、親しい間柄だ。けれども、やはり実の兄弟ではない。今も昔もこれからもきっと、実の両親の顔も覚えていないという引け目はなくならない。庶出の王であるジャックに妬み嫉みを抱かないのは、どうあがいても敵わない王の器の違いがあったからだ。どんなに努力しても到底敵わない高い視座の持ち主で、生まれながらの王というのはまさにジャックのことだ。

 だから、少しだけ叔父たちが羨ましい。六人揃っていた頃は、きっとにぎやかだったことだろう。


「では、五日で決まりだ。先に言っておくが、我が商会が手引したことだけはなにがあっても隠し通してもらう。いいな?」

「……え?」

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