きな臭い香水

 飾り気のない香水瓶の中身は四分の一程度。黄ばんだラベルには、泣いているようにも笑っているように見える少女の顔だけが描かれており、香水の名前は書かれていなかった。


 さて、大商人かつ篤志家のフィリップ・グッドマンの数少ない欠点の一つが、香水の趣味の悪さだ。


「フン、わたしが好き好んでこんな香水をつけるわけがないだろう」

「…………」


 マクシミリアンたちは、思わず居心地悪そうに目をそらさずにいられなかった。


 香水の趣味が悪いと陰口を叩かれていたことくらい、もちろんフィリップは知っていた。王子時代、王太子のクリストファーから助言を求められるほど、ファッションセンスが優れていたのは彼だ。マクシミリアンがリセールの伊達男と呼ばれるようになったのだって、彼が陰に陽に誘導したからだと、密かに感謝してほしいと思っているほどだ。

 そんな美意識高いフィリップにとって、香水の趣味が悪いと囁かれるのは屈辱でしかなかった。屈辱に耐えてでもつけ続けた理由はただ一つ。


「二度と忘れないためだ。生涯忘れられないと信じてたが、一度忘れたからな」


 記憶喪失がなければ、引き出しの奥に鍵をかけてしまっていたはずだと、フィリップは常々考えてきた。というのも、この香水は直接事件の手がかりになりえない代物だった。


「これはただの香水で、人を害する物ではない」

「それはつまり、暴行事件の際に焚かれていた香と同じ匂いということかしら?」

「その通りだ。だから、直接事件の手がかりというわけではないが……」


 フィリップがこの香水を手に入れたのは、十八年前、夜逃げした地方貴族の屋敷だった。財産管理がロクにできてないのは明らかだったので、彼の商会は金を貸さなかった。けれども、借金を踏み倒された懇意にしている金貸しだったので、残された家財道具ごと屋敷を買い取ることになった。


「屋敷は少し手を入れるだけでいい儲けになったが、家財道具はおまけ程度しか金にならんかった。フン、よくある話だがな。この香水はどら息子の寝室にあった。そのどら息子は、悪い噂しかないだったが、夜逃げしたあとの消息はわからずじまいだ」


 説明の一部に持たせた含みが誰に向けたものかは明白だったけれども、肝心の双子はまったく気にしない。


「あの日の朝のトリシャからも、かすかに残っていた匂いだと思ったが、確信はなかった。だから、暴行事件の被害者の一人に無理を言って確認してもらったから、間違いない。この香水と同じ匂いが、暴行事件の犯行現場に充満していた」

「そのどら息子の入れ墨は……」

「黒い太陽じゃない」


 マクシミリアンの疑念をはっきりと否定したフィリップに、チャールズは膝に肘を置いて頬杖をつき質問する。


「だが、一応調べたんだろ? その夜逃げした地方貴族とやらを」

「フン、当然、調べたに決まっている」

「アスターに縁があったか? あったなら、それこそ教会通りにも出入りしてた可能性もある」

「無能だったとはいえ、一応貴族だったからな。毎年というわけではないが、社交シーズンはアスターに滞在していた」

「ということは、社交の場で犯人と親しくなったかもな」

「……いや、その可能性は低いだろうな」


 月虹城に出入りする者なら、社交の場に顔を出していてもおかしくない。

 けれども、フィリップはチャールズが提示した可能性に首を横に振る。


「そのどら息子の両親――当主夫婦は無能貴族だったが、ろくでなしではなかった。善良とも言えないが、少なくともお前たちが言う悪い友達に関わることはなかったはずだ。どら息子というのも、遅くに出来た一人息子で甘やかしすぎて親でも手がつけられなくなった結果らしい。そのどら息子がアスターに行ったのは、調べた限り顔見せのための一度だけ。その一度でどうやら羽目を外して、親は二度とアスターに連れて行かなかった。それが二二年前。どら息子は当時十七だった」

「ということは、夜逃げした時は二一歳。暴行事件があった三五年前はまだ四歳の子どもになるわね」


 デボラは紙に時系列をメモしていく。


「確かに犯人と親しくなったという可能性は低そうね」

「ちなみに、そいつが入れ墨を入れたのは地元だ。アスターで羽目を外して問題を起こしたのも、教会通りじゃない。まぁ教会通りほどじゃないが治安の悪い界隈ではあったがな」

「なぁ、そいつはもう無関係なんじゃねぇか」


 チャールスのもっともな指摘に鼻を鳴らしたフィリップは、マクシミリアンに問う。


「リセールの伊達男は、社交界の花形だろう。これまで、わたし以外にこの香水をつけている者にあったことはあるか?」

「ないな」


 即答で断言した。もし仮にいたら、間違いなく記憶に残っているはずだ。そのくらい趣味の悪い香水なのだ、これは。


(わざわざ特注で作らせていると勝手に納得していたが違うとなると、変じゃないか)


 個性を強調するために、調香師に作らせるのは珍しいことではない。マクシミリアンが愛用している香水も、元はそうだった。いつものように、伊達男と同じ物を使いたい男たちのために広く売りに出されるのだった。もちろん彼が許可している。けれども、『リセールの伊達男愛用!!』の品と売りに出されるのは、正直複雑だ。そもそも流行の最先端ともてはやされたいわけではなかったのだから。

 それはさておき、社交界の花形でおしゃれにはそれなりに敏感な彼がフィリップ以外に香水を使っている者と出会ったことがないというのは、よくよく考えてみれば不可解ではないか。

 どら息子の特注品という可能性もなくはないけれども、限りなく低いのだろう。その可能性を、フィリップが考えなかったはずがないのだから。

 であるならば、


「つまり、流通していないのか、これは」

「ああ。このわたしがいくら探してもこれと同じ物は見つからなかった」

「見つからなかった?」


 信じられないと、マクシミリアンは呆気にとられる。

 『どんな家庭も御用達のグッドマン商会』の強みの一つは、国内はすべて網羅している流通網だ。国内の流通網を掌握していると言っても過言ではない彼が、見つけられない物があるとは考えられなかった。たとえ、すでに廃番になっていたとしても、一度でも出回っているなら探し出せるはずだ。

 不可解すぎる香水瓶をつまみ上げたチャールズには、マクシミリアンとデボラが考えつかない可能性を不快感もあらわに口にした。


「そいつはきな臭いな。そのどら息子が羽目を外したのは、具体的に何をやらかしたんだ?」

「魔女のクスリを所持していた」


 史上最悪のクスリの名前を聞いて、チャールズは口笛を吹いた。


「なにが教会通りじゃないだ。思いっきり教会界隈の悪い友達案件じゃねぇか。そりゃあ、二度とアスターに連れてけなかったろうよ。マックスが社交界の愛用者を知らない。ウィル兄が探しても見つけられない。教会界隈の悪い友達から魔女のクスリを買った。つまり、こういうことだ。こいつは教会界隈の犯罪組織が持つ闇ルートで流通してる」

「フン。やはり、お前もそう考えるか」

「というか、ウィル兄が把握してない販売ルートって時点でそう考えるだろ」


 自明だと言わんばかりのチャールズに、マクシミリアンはつくづく真っ当な社会で生きてきたのだと痛感させられた。

 チャールズがテーブルに戻した香水瓶を、今度はデボラが手に取る。


「でも、ただの香水でしょう?」


 そう言って蓋を外して匂いを嗅ぐ。案の定、彼女はすぐにひどく顔を歪めて蓋をする。その僅かな間でも、他の者も不愉快な気分になった。普段遣いしているはずのフィリップも顔をしかめている。大人たちですら不快感をあらわにするのだから、チェチェが黙っていられるはずがない。


「クサい!!」


 双子だけが理解できる言葉で喚き立てる。


(無理もないな)


 けれども、リチャードが険しい顔でチェチェにいくつか問いただしているのを見て、マクシミリアンの微笑ましさに温まりかけていた心がざわつく。それだけではない。チェチェがリチャードに訴える様子は、到底不快感だけではなかった。

 言葉は理解できずとも、途中から彼が養い子を宥めているのがわかった。彼女が落ち着くと、彼はしばらく考えてからフィリップに尋ねる。


「確認なんだが、ウィル兄さんが普段使っているのは、もしかして別物か?」

「別物だ。なにしろ、この一本しかないからな。普段使っているのは、これに似せて作らせている物だ。それがどうした?」

「チェチェは、邪悪な物だと言ってた」


 リチャードが言うには、チェチェは常人にはわからない感覚で善悪もとらえることができるらしい。同じ物でも、チェチェには持ち主の性質によってまったく違って見えるのだと。


「アウルの声が聞こえるからそうなのか、そうだからアウルの声が聞こえるのか。……根拠など考えるな。とにかく、チェチェの忠告は必ず当たる」


 そう言われても、マクシミリアンたちは困惑するしかない。


「でも、やっぱりただの香水でしょう?」


 デボラは現実的に考えて、犯人に手がかりになるとは到底思えなかった。


(まぁ、フィリップの執念考えたらすがりつきたくなるのもわかるけど……)


 確かにきな臭い代物ではあるけれども、香水についてああだこうだ言うよりも、フィリップの新情報をコーネリアスが遺した事件の資料を元に整理したほうがずっと有益ではないか。

 遠回しに臭い香水を片付けろと言っているのだけれども、男たちは気づいていない。これだから男はと舌打ちしたい。しないけれども。

 妻が密かに苛立ちを募らせているのをよそに、マクシミリアンは残念だと大きなため息をついた。


「媚薬に、香水。ヒューゴの専門だな」

「誰だ、それ?」


 チャールズに尋ねられ再び大きなため息をついた夫に代わって、デボラは答えた。


「ヒューゴ・ウィスティン。夫の元侍医よ」

「医者か?」

「ええ、とても腕の良い医者だったわ」

「だった?」


 死んだのかと眉間にしわをよせたチャールズに、マクシミリアンは無言で首を横に振って否定する。


「なら、ダメ元でそいつんとこに持ってって尋ねればいいだろ」

「それは不可能だ」

「なんでだ?」


 マクシミリアンは、三度目の大きなため息をついた。


「ヒューゴは、ドローアにいるんだ」

「ドローア?」


 馴染みがない地名に怪訝そうな顔をしたチャールズは、すぐに思い至り目をむいた。


「ドローア監獄か!!」


 マクシミリアンもデボラも否定しない。

 それはつまり、王族の侍医を務めたほどの名医が悪名高い監獄に収監されていることを意味していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る