王太子の手記
フィリップがテーブルに置いたのは、手のひら大の木箱と古い手記だった。
それらが三五年もの間、隠蔽されてきた連続強姦事件の手がかりだ。
次兄が話し始める前に、リチャードが水をさす。
「だが、その強姦魔が犯人とは限らないのでは?」
もっともな指摘に答えたのは、デボラだった。
「殺された日に、クリストファー様が呼び出していたのが入れ墨の男――強姦魔である以上、犯人でなくても無関係のはずがないわ」
デボラの答えも、もっともだった。弟のリチャードが押し黙ると、今度はチャールズが兄に確認する。
「まぁ、そうなるよな。で、さっきの話、リトルコニーは知らなかったんだよな」
「フン、教えられるわけがない。当然だろう」
「だよな。教えられるわけがないよなぁ」
あっさり納得する彼に、マクシミリアンは片眉を跳ね上げた。
「なぜ、教えられるわけがないのですか」
もしも、コーネリアスがクリストファーが呼び出した相手について知っていたら、とうの昔に犯人を捕まえられたのではないか。そう顔にはっきり書いてある甥に、フィリップはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「リトルコニーはクリスを阿呆みたいに慕っていたからに決まっているだろ」
「だったらなおさら……」
「クリスもクリスで、あいつとギルの前ではカッコつけて『頼りになるいいお兄ちゃん』でいた。そうでありたがった。…………だから、パトリシアの件はクリスがもっともコニーに知られたくなかったことだ」
末弟には、『頼りになるいいお兄ちゃん』のままでいさせてやりたかった。
いくら実の兄弟とはいえ、兄夫婦の名誉を傷つけるようなことを言えるはずがなかった。
なにより彼は、これ以上兄夫婦を傷つけたくなかった。隠蔽したけれども、当時の雛菊館にいた者ならある程度知られてしまったことで、母が懸念した誹謗中傷を耳にしてしまう機会も一度や二度ではなかった。パトリシア本人も陰でどう言われているか、知っていたのだろう。だから、あれ以来、彼女は事あるごとに「わたしなんか」と口にするようになったのだ。
犯人を追求する過程で露見すれば、それこそ世間は面白おかしく辱めるだろう。
想像しただけで、頭がおかしくなりそうだった。
マクシミリアンは納得できなかったけれども、フィリップに葛藤や苦悩がなかったわけではないのだと悟ると何も言えなくなった。
他に先に言いたいことがあるやつはいないと確認して、フィリップは手記をめくる。
「先ほども少し話したが、雛菊館の被害者たちはみな同じ手口で襲われている」
手記は、クリストファーのものだと彼は言う。王太子夫妻暗殺事件の直後、例の秘密の日記とともに密かに持ち出していたのだ。
父の字をまともに見るのは、これが初めてだ。
(そんなに上手くなかったとは)
意外だった。
公のものではないとはいえ、手記の字は整っていなくて乱暴で読みにくい。もしかしたら、母と違って日記を書く習慣がなかったのは、字が下手だと自覚があったからかもしれない。
運にも才覚に恵まれなかったけれども、末弟を初めとした慕ってくれる人たちのためににいいところばかり見せようとしたりと、体面を保つことにいったいどれほど努力があったのだろうか。それままさに、今のリセール公そのものではないか。
マクシミリアンは初めて父に似たところがあったのだと知った。これまでどれほど聞かされてきても他人のようだった父に、ようやく親近感をいだけた。
(こんな形で知りたくなかったな)
けれども、こんな形でしか知ろうとしなかった。不肖の息子にできるのは、やはり卑劣な犯人を見つけ罰することだけだ。
込み上げてきた熱いものをぐっと飲み込んで、彼はフィリップの口から語られる三五年前の事件の詳細に集中する。
全員、彩陽庭園を一人で散策している最中に襲われていた。人気のないところで背後から気配を殺し近づいた犯人は、腕を首に巻きつけて絞め落としている。
「腕を巻きつけて絞め落とす?」
いまいちピンとこなかったデボラに、チャールズがニヤニヤといたずらっ子の笑みを浮かべる。どこに笑う要素があったというのか。不愉快だと睨めつけると、彼は肩をすくめてなぜか夫の背後に視線を向けた。つられるように彼の視線の先に辿り着く前に、隣の夫の背後から腕が伸びてきた。
「こういうことだろ」
「ぐぇ」
「え、ちょっと何をしてるんですか!?」
突如マクシミリアンの背後に現れたリチャードが、ご丁寧に実演してくれた。マクシミリアンの抵抗とデボラの抗議のおかげではないだろうけれども、あっさりと腕を解く。
(いつの間に? さっきまでそこにいたはずなのに)
そういえば、夫が言っていたではないか。ピュオルでリチャードの姿が認識できないことがあったと。
正直、デボラはピュオルで夫が体験した不思議な出来事を信じていなかった。夫の作り話とまではいかなくてもわざと誇張して話してくれたか、あるいは双子たちが夫をからかったいたずらを信じこませたのだろう。そう考えていた。
もちろん、リチャードが移動するのを見過ごしただけかもしれない。その可能性は充分あった。けれども、夫の背中をさすってくれた西海の少女が、その可能性を否定する。
「リチャード、ダメ、アウル、嫌イなル」
頬を膨らませて愛らしいけれども、真剣な抗議。リチャードは苦笑しながら大陸語でない言葉で短く言い返し、チェチェの頭を撫でて双子の兄の隣に戻っていった。
フィリップの苦虫を潰したような顔を見れば、目の当たりにしたのは初めてではないのだと察っせられる。混乱し戸惑うデボラに、フィリップは申し訳なさそうで同情する視線を送ってくるあたり、双子たちの突拍子もない行動も慣れているのだろう。
「ディック、いちいち実演して見せる必要がどこにあった」
「必要はなかったな」
少しも悪びれないリチャードに、被害者のマクシミリアンも抗議する気力を削がれた。
「それで、女を絞め落としてその場でヤッたのか?」
「いや、犯人は使われていない納屋かどこか屋内に運び込んでいる」
しれっとあけすけに先を促したチャールズに、フィリップは該当のページを開きながら答えた。
そこには、マクシミリアンたちが予想もしていなかったほど悪辣な犯行が記されていた。
被害者たちが意識を失っている間に無理やり薬を飲まされていたか、あるいは現場となった屋内で焚かれていた香の効果かは定かではないけれども、意識が戻ったあと酷い酩酊状態に陥っていた。記憶が曖昧になるほどの酩酊状態の彼女たちを襲った犯人は、黒い覆面をしていた。
「その薬には催淫効果もあったのか?」
チャールズの問いに、フィリップは無言で手記の該当箇所を指で叩いた。
そこには、処女だったにもかかわらず淫売だと口汚く犯人に罵られた等と胸糞悪くなる証言の数々が赤裸々に書かれていた。とてもとても、声に出して読める内容ではなかった。
「覆面は香の作用を抑える意味もあったのか」
「フン、おそらくは」
先ほどから的確な指摘に問いかけをしているチャールズに、マクシミリアンはほとんど忘れていた双子の悪評を思い出させた。
自分には考えつかないことばかりで事実を受け入れるのがやっとだというのに、人を絞め落とす術を知っていたり薬の効果を知っていたりと、とても同じ身分で育てられたとは思えなかった。彼らが歩んだ人生が、自分とはあまりにもかけ離れていると痛いほど思い知らされる。
自分の育ちのよさに辟易する彼の横から、デボラが手記の気になる一文を指さした。
「これは、どういうこと?」
「ああ、それは……」
デボラが指さしたのは、『犯人は、トリシャと面識がある?』と書かれた一文。やけに『?』が大きく、これを書いたクリストファーの自信のなさを表しているようだった。そう書きながらも、信じられないようなそんな迷いが伝わってきそうだった。
わかっている被害者の女たちは、強姦されたあと服を着せられた状態でもとの人気のないところで解放されていた。おそらく、犯人が楽しんだあと再びなんらかの方法で意識を奪った上で、服を着せたらしい。その場で誰かが被害者を見つけたとしても、呑気に昼寝していただけだと誤解したことだろう。
「だが、わたしが見つけたトリシャだけは違った」
パトリシアだけが、体液を拭き取ることもせずアザや傷を負わせたまま、解放されていた。
「おそらく、犯人は途中で彼女だと気づいたのだろう。わたしとクリスは、そう考えた」
「たしか、パトリシア様は使用人の変装をしていたのですよね」
「フン、さっきも言ったかもしれんが、トリシャは大事に育てられてきた。箱入り娘だ。彼女が月虹城に来たのは、雛菊館入りが初めてだった上に、それまで花の都に来たのは数えるほどしかなかった。ロレンス家は、彼女の絵姿が出回ることもよしとしなかったほどだ」
その年の社交シーズンの園遊会でお披露目される予定だったけれども、それも暴動のせいでなくなってしまう。
「クリスが不在だったからな、雛菊館を離れる機会は少なかったはずだ」
当時の月虹城で、見かけてもすぐに彼女がパトリシアだと気づく者は限られていた。
「そういや、俺らも暴動鎮圧から帰ってきたあとだったな、彼女の顔を知ったのは」
「そこまで徹底していたのですか」
チャールズの言葉に、マクシミリアンとデボラはにわかに信じられなかった。けれども、彼らの言う通りなのだろう。それほどまでに大事にされていた蕾だと気づいた犯人は焦ったのだろうか。それとも――。そもそも、手記に書かれた推測そのものが確かではない。
わかっていることは、パトリシアだけが暴行の跡を隠さずに解放されたという不可解な事実のみだ。
「結局、被害者たちはみな酷い酩酊状態のと、恐怖のせいで、犯人の特徴ついてわかったのは、黒い服面をしていたことと、若そうだったということ、鍛えられた体つきだったこと、それから入れ墨。それだけだ」
そう言って、フィリップは入れ墨に関するページを開いた。
「黒い太陽?」
自信なさげに言ったのはデボラだったけれども、誰が見てもそれは黒い太陽だ。胸の中央あたり位置する手のひら大の黒い太陽の入れ墨に、双子の顔が険しくなる。
「……こいつは珍しい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます