今再び

「マリッジブルー?」


 大仰に首を傾げるクリストファーにウィリアムは苛立ちを抑えて母から教わった欺瞞の言葉を重ねる。


「結婚前の女にはよくあることらしい。新生活の不安とかから、落ち込んだりイライラすることだと聞いている」

「俺のトリシャが?」

「フン、雛菊館で花嫁修業の総仕上げというときに、肝心の結婚相手が暴動鎮圧に何ヶ月も出ていったら、不安にもなるだろうよ」

「あー……そうか、わかってくれていると思ったんだがな」

「頭で理解できても、心が受け入れない。…………兄さんが一番よくわかっていることじゃないか」

「言うなよ、リアム」


 暴動鎮圧の件は、どうしようもないことだった。


(どうしようもないなんて、言い訳にしかならない)


 もしも、あの時この兄が月虹城にいたら、あんなことは起きなかったかもしれない。

 不在の埋め合わせをどうするべきかなど、なんて呑気な。

 もういっそのこと、本当のことを全部話してしまおうか。そんなことできもしないのに。


(わたしに、クリスを責める資格はないというのに)


 人のいい兄が傷つく姿を見たくない。けれども、それは避けようのないことで、ただただ先延ばししている自分は、無力な臆病者で卑怯者だ。


「クリスは、わたしを疑ったりはしないのか?」

「お前を疑う? 何を? ああ、お前の横恋慕の噂のことか。馬鹿馬鹿しい」


 もちろん、クリストファーも許嫁と一つ年下の弟の噂くらい知っている。二人きりで庭園を散策しているのを実際に見たと、直接いらぬ報告をしてくる者は一人や二人ではなかった。噂の真偽など二の次で、真面目な第二王子との修羅場を期待していた彼らが、自分の考えの矮小さを恥じて改心してしまうほど、クリストファーのパトリシアとウィリアムへの信頼は微塵も揺るがなかった。

 噂を聞き流していると耳にしていたけれども、実際にこうして尋ねたのは初めてだった。

 本当は疑っているのではないか。自分はともかくパトリシアの気持ちは疑わないで欲しかったから、意を決してウィリアムは本音を聞き出そうとしたのだ。

 けれども、やはりと言うべきか、クリストファーは心の底から馬鹿馬鹿しいと言ってのけたのだ。あまりにもあっさりしすぎて、ウィリアムの眉間にシワが寄ってしまった。


「なんでそんな顔をするんだ。お前が言ったんだぞ、マリッジブルーとやらでトリシャの落ち込んでいたと。お前、放っておけないだろ」

「……下心があったかもしれない」

「そうだな。お前もトリシャが好きだからな。無理もない。トリシャほど美しくて気立てもよくて、詩才に恵まれた女はそうはいないからな。きっと、大勢の民が彼女を好きになる。王妃にふさわしいではないか。だが、下心があろうとなかろうと、トリシャの最愛の夫となるのは俺だけだ。彼女を幸せにできるのも、俺だけ。だいたい、お前、好いた相手の幸せの為なら、いつもあっさりと身を引いてるじゃないか」

「……フン。兄さんの言うとおりだよ」


 この兄は、誰もが愛すべき許嫁を卑劣な方法で辱める輩がいるなどとは、考えもしないのだ。


(わたしも、目の当たりにするまで考えもしなかったよな)


 責められない。

 見ていられなくてそっぽ向いた弟の胸の内など知る由もないクリストファーは、ヤキモチを焼いてくれなくて拗ねているのだと誤解して弟の肩をたたいた。


「感謝している。ありがとう、リアム。ふがいない俺の代わりに、トリシャの気を紛らわせてくれて」

「別に感謝されるようなことはしていない」

「謙遜しすぎると、嫌われるぞ。たまには、素直に『どういたしまして』と言ったらどうなんだ」


 運には見放されても、人には見放されない気のいい兄が、真実を知った時、どれほど傷つくか――考えたくもなかった。


「フン、ところでクーデターも辞さないと言ったのは、本気か?」


 話を変えたのは、後ろめたさに耐えられなくなったからだ。

 暴動鎮圧から帰還した兄は、一日でも早く父に譲位させると弟たちに宣言した。

 後に救国の六王子と讃えられることとなる始まりの宣言。

 ウィリアムには、そこまで急ぐ必要があるとは思えなかった。情緒不安定な父王をいたずらに刺激するような真似をする必要があるのだろうか。


「ああ、本気だ」

「……チャックとディックのことは、クリスに責任はない」


 わかっているだろうと訴える弟に、兄はゆるゆると頭を振った。


「ダニエルにも言われたよ。馬鹿馬鹿しいとね」

「…………」


 乳兄弟の名前に、ウィリアムは露骨に嫌そうな顔をする。彼は幼い頃からダニエル・ドーソンを毛嫌いしていた。無理もない。真面目なウィリアムからすれば、調子者のダニエルは第一王子と第二王子の乳兄弟というだけで、衛兵として月虹城に居座っているだけの努力を知らない不真面目な男だった。

 クリストファーは、悪いやつではないのだからそこまで嫌うこともないだろうと思う。けれども、やはり相性が悪いのかと嘆息した。


「なあ、リアム。俺に責任はなくても、兄として息子として、どうにかしてやりたいんだ。目をそらしてしまっては、俺は俺が許せなくなる」

「そのどうにかが、譲位しかないのか?」

「他にあるのか?」

「…………」


 逆に問われて、ウィリアムは言葉に詰まった。

 そもそも、問題児の双子のことなど放っておけばいいのだ。けれども、放っておけないのが、兄だ。

 そんな兄を、ウィリアムは放っておけない。


「わかったよ、クリス。父上には、一日でも早く玉座を降りてもらおう」

「頼りにしているぞ、リアム」


 兄の人好きのする笑顔が好きだった。

 本当に心の底から、兄の傷つく姿を見たくはなかった。けれどもそれは、すでに確定していることで――




 あの時、うまく笑えていただろうか。今でも時々考える。


「わたしの嘘に加えて、母もあれこれ理由をつけてパトリシアに容易に会わせないようにしてきた」


 隠しただけでなく騙してきたのだと、フィリップは告白した。


「あの頃は、嘘をつくしかないと自分に言い聞かせていた。正しいことではないが、他にいい方法がないとな。だが、嘘をつくべきではなかった」


 正直に全部打ち明けることもできたのに、臆病だったばかりに先延ばしにしてしまった。




「そんなに、俺が頼りなかったのか!!」


 国中が浮かれためでたい王太子の婚礼の翌朝、柊館で揉み合いになったウィリアムを七竈館の書斎に連れ帰ったクリストファーの怒りは少しも収まっていなかった。


「そういうわけでは……」

「ないと言うなら、なぜあんなッ、あんな嘘をついた」


 クリストファーは怒りに任せて椅子を蹴り倒す。

 真実を知って激怒した兄が怒鳴り込んで来ることは、容易に予想できた。激怒するのは当然のことだから、甘んじて受け入れようと覚悟を決めていたつもりだった。けれども、ついこの数ヶ月の間腹に収めてきた感情を勢いに任せてぶちまけてしまった。

 チャールズとリチャードが仲裁に入ってくれなかったら、あの場でパトリシアが辱められたことまで口にしてしまってたかもしれない。そう考えたら、冷水を浴びせられたように、ウィリアムの怒りは消えてしまった。そもそも、クリストファーに言い返す資格などなかったというのに。

 言い返せないでいる弟に、クリストファーは怒りを募らせる。


「ハッ、さぞかし、滑稽だっただろうな。何も知らず、お前の嘘を疑いもしなかった俺は」

「違う。わたしは、わたしはただ婚礼を無事に成功させたかっただけで……」


 言い訳は、とても薄っぺらく聞こえた。


「なるほど、やはり俺が頼りなかったわけだ」

「だから違う」

「違わないだろ!! 婚礼前に俺が知れば、婚約を破棄するとでも思ったのだろう」

「違う、そうじゃない。違うんだ」

「では、俺がトリシャを辱めた外道を罰するまで婚礼を延期すると考えたのか」

「……すまない」


 ウィリアムはうなだれた。

 ようやく間違えたのだと気がついた。

 母の言う通り、兄が黙っていられなかったとしても、自分が説得するくらいのことはできたはずだ。パトリシアと他の被害者たちのためにも、今は公にすべきではないと、きちんと――なんなら、彼女たちを交えて話し合うこともできたのだ。


「リアム、俺にも男の矜持がある。愛する人の純潔を奪われたと世間に知られて平然としていられるほど、俺は痴れ者ではないんだ」


 ため息をついてクリストファーは蹴り倒した椅子を起こして、ドサリと腰を下ろす。


「確かに、俺は愚直な男だ。王の器じゃないことくらい、俺が一番よく知っている」

「兄さん……」

「聞けよ、リアム。俺は運と才覚に恵まれなかった。いや、見放されたと言ってもいいだろう。俺が持っているのは、長男と同義語の王太子の資格だけだ。それで結構、それだけで俺を支えてくれる人たちが集まってくれる。リアム、お前もその一人だ。俺はな、そんな人々の期待に応えるのが精一杯の王にしかなれない。所詮、その程度の男だと誰よりも俺が一番よく知っている」


 自嘲の笑みを浮かべたクリストファーの瞳は、見たこともないほど暗く淀んでいた。

 王太子としての重圧は一体どれほどのものか、一つ違いの弟には想像もつかない。けれども、才覚に恵まれなくても一人でも多くの民の期待に応えられるようにと努力を重ねてきたことは、よく知っている。


「なぁ、リアム。俺はそんなに頼りないか」

「そんなことはない。わたしが兄さんを信じられなかった。わたしが間違えた」


 母に言われるがまま行動した自分が恥ずかしい。悔しい。許せない。


「わたしを憎みたければ憎めばいい。恨みたければ恨めばいい。トリシャだけは許してあげてほしい」


 罰してほしかった。

 兄の信頼を裏切ったこと、嘘をついて傷つけたこと、身勝手に何も知らない兄に理不尽な怒りを募られていたこと、憎まれて恨まれて当然ではないか。

 深々と息を吐き出したクリストファーは、乱れた髪をかきあげて弟を見据える。光を失っていた藍色の瞳は、再び怒りに燃え上がっていた。


「ウィリアム、何を言っているんだ。俺に父のようになれと言うのか。違うだろう――――」




 いたずらに傷つけただけだと、フィリップは息子のマクシミリアンに懺悔するように言った。

 押し黙ってフィリップの告白に耳を傾けていたマクシミリアンの瞳は、あのときのクリストファーそのものだ。


「憎むべきは犯人だと、大公は言ったな」

「ああ、言った」


 即答したマクシミリアンに、フィリップはふっと吐息をこぼすように微笑む。


「あの日、クリスに同じことを言われた。『憎むべきは外道だけだ。外道について知っていることを全部教えろ』と。そう言われて、わたしは犯人の手がかりをすべてクリスに明かした。その結果、クリスもトリシャも殺された」


 もしも、あの時兄に犯人の情報を教えなければ、愛するべき兄夫婦はあんな最期を遂げることはなかったかもしれない。


「クリスとトリシャが殺された原因は、わたしにもある。……その上で、大公に問おう。今再び同じことが言えるか?」


 誰の目にも答えは明らかだけれども、マクシミリアンは目を閉じて黙考した。

 おそらく、この叔父は憎んでほしいのだろう。恨んでほしいのだろう。デボラが隠蔽したことを糾弾したのは、正しいことだ。どんな事情があれ、卑劣な強姦魔を野放しにしたのは許されないことだ。罪と呼んでも差し支えないだろう。何十年も一人で罪を抱え込んできたこと、それ自体が罰だったのではないだろうか。

 恨み言一つで、フィリップは少しは救われるのかもしれない。けれども、それは何一つ解決に至らない。

 罰を受けることなく野放しになっている犯人を探し出すこと、そうして初めてフィリップは本当に救われるのだ。

 仮面の善人には、リセール公まで導いてくれた恩がある。返しきれないほどの恩が。

 頭脳明晰なコーネリアスでも解決できなかった事件を、自分が解決することはできるのだろうか。解決できるとは、正直彼は本気で考えていなかった。誇れる父親になるために、実の両親を知りたかっただけだ。事件を通して見えてくるものがあればと考えたのが、始まりだったではないか。

 けれども、今は違う。

 膝の上の拳に力を込めて目を開く。


「憎むべきは俺の両親を殺した犯人だ。あなたじゃない。だから、犯人について知っていることを、このマクシミリアンに全部教えろ」


 この不詳の息子が、必ず犯人を罰してみせよう。

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