踏みにじられた蕾

 その日の朝、フィリップ――第二王子ウィリアムは、いつもよりもずいぶん早く起きた。病弱な第六王子コーネリアスと事故で失った右腕の幻肢痛に苦しむ第五王子ギルバートほどではないけれども、彼もなにかと体調を崩しがちだった。一五を過ぎたあたりからは、寝込むことは滅多になかったものの、血は苦手だったし、軽い頭痛などはしょっちゅうだった。早起きは苦手で、いつもより早く起きたからと庭園を散策しようなどとは、普段の彼ならまず考えなかった。そんなウィリアムがその日の朝に限って庭園にいたのは、先日まで冬の到来を告げる嵐が猛威を振るっていた間に見舞われた不調――頭痛や倦怠感、胃痛等にすっかり気が滅入っていたので、なんとなく気分転換したかっただけだ。

 そう、ウィリアムにしてみれば、立派な楡の木の下で彼女を見つけたのは本当に偶然としかいいようがなかった。

 呆然と佇んでいた女がパトリシアだと、すぐには気がつかなかった。有り体に言えば、まるで別人のようだった。

 パトリシアはしとやかな美しい人だったし、多くの人が彼女の笑顔を『春の陽気』や『春の木漏れ日』に喩えるほどの人だった。ウィリアムにとっても、彼女は春がふさわしい人だった。つい彼女を目で追いかけてしまう程度には、彼は彼女に惹かれていた。

 そんな彼でも、ひと目でパトリシアだとわからなかった。

 そのくらい、ひどい有様だった。

 ウィリアムを擁護するならば、そのとき彼女がかろうじて身につけていた汚れた服がなぜか使用人の制服だった。だから、彼は下級使用人が暴行されたのだと考えた。それでも、彼は肝を冷やした。いくつもの混ざりあった不快な臭いの中には、当然血の臭いもあった。自分では対処する自信がない。ズキズキ痛みだした頭で、大事にせずに人を呼ぶにはどうすればいいのか考えなければならなかった。

 好色な先王に手籠めにされた哀れな母を持つ父王が、目と鼻の先でこのようなことが行われたと知られでもしたら――それだけはなんとしても避けなければ。

 口と鼻を手で覆った彼は、ひとまずに声をかけようとして、ようやく気がついた。


「…………トリシャ?」


 信じられない気持ちでつぶやいた声に、パトリシアは可哀想なほど体を震わせて我に返った。


「リアム、わたし、わた、し……」


 ごめんなさい――今にも消えいりそうな声の謝罪の相手は、はたして誰だったのか。

 頭が、痛い。

 吐き気が、する。

 なんだ、これは。夢か? 悪夢というやつか?

 頭が、ガンガンする。

 苦しい。呼吸のしかたを忘れてしまったのか。

 彼女の手に護身用に短剣が握られていた。ウィリアムは呆然としていた。


「駄目だ!!」


 震える手でその抜き身の短剣の切っ先が彼女自身に向けられてことに気がついた彼が、どうやって彼女を思いとどまらせたのか。ウィリアムは、ほとんど覚えていない。

 はっきりとわかるのは、ぐったりと意識を失ったパトリシアを背負って雛菊館までどうにか運びきったということだけ。

 情けないことに、それが限界だった。

 気がついたとき、彼は柊館の自室のベッドで天井を見上げていた。悪夢のような出来事が、本当に悪夢だったらどんなによかったか。わずかでも悪夢だったと信じることができたら、ウィリアムはこの件に関わることもなかったかもしれない。


 ――ごめんなさい。


 血のせいで意識が朦朧としていたくせに、夢ですませるには忌々しいほど生々しすぎた。特に、この世の醜悪なものをすべて煮詰めたようなあの臭いが、まだ鼻について消えそうにない。


 夕刻、彼は雛菊館の主で母であるキャサリン妃に使いを出した。その日のうちに、彼が願い出た面会が翌日に行われることが決まった。

 いつもなら黙殺されるはずの要望に、母が答えた。打ちひしがれた彼は、その日一切食事が喉が通らなかった。


 翌日、彼が訪れた雛菊館は重苦しく陰鬱な空気に包まれていた。第二王子といえど、まず雛菊館を訪れることのないウィリアムでも肌が粟立つほど、異様な空気だった。案内してくれた大柄な赤毛の若い女使用人の目は真っ赤で、さんざん泣きはらしたのだと様々と見せつけられた。


(この館の者たちはもう……)


 パトリシアに起きたことをすでに知っているのだろう。

 情けない。末弟に比べたらずいぶん恵まれた体だというのに、たかが血ごときでこのざまだ。重い体を引きずるように陰鬱な廊下を進みながら、もっとうまいことひと目を避けて秘密裏に雛菊館にパトリシアを運び込むことができたのではないのか。情けないことこの上ない。


 通された部屋には、すでに母キャサリンが待っていた。

 狂王の妃は、お世辞でしか「美しい」と言えない女だった。亜麻色の縮れた髪、目鼻立ちもぱっとせずふくよかな体つき。醜いわけではないけれども、美しくもない。家柄はというと、古いだけの田舎貴族。ではいったい何が王の心を射止めたのか。外見でも家柄でもないとなれば、残るは人となりくらいだけれども、彼女は決して人好きのする性格ではない。気性は激しく、苛烈。いったい彼女のどこに惹かれたというのか。反対を押し切ってまで彼女を妃に迎えたのだから、まったくもって父王の考えることは理解し難い。

 手持ちぶさただったのか扇をもてあそぶ母の顔はいつにもまして険しい。そんな彼女に怯えているのか、今にも泣き出しそうな若い女たちが立たされていた。まだ二十歳にもならないだろう彼女たちは、四人。みな雛菊館の使用人の制服を着ている。そう、昨日、なぜかパトリシアが着ていたのと同じものだ。

 母に目で促されるまま向かいに用意された椅子に腰を下ろす段になっても、ウィリアムはこの母になんと切り出せばいいのかわからなかった。実母とは言え、母と差し向かいで話をするような機会はこれまで一度としてなかったのだから無理もない。

 居心地悪そうに視線をさまよわせる彼に、キャサリンは扇で手を叩いた。パンッとやけに大きく響いた音に、彼だけでなく立たされている使用人たちまでもビクリと体を震わせ居住まいを正す。


「お前は、礼を言いに来たのだろう。昨日の朝早くにこの館の前で倒れていたお前を助けてやった礼を」

「……ええ、そうです。このウィリアムを柊館までお運びいただいたこと、まことに感謝の念に堪えません」


 昨日、侍医より聞かされたのと同じ経緯を口にした母に、ウィリアムは深々と頭を下げる。予想はしていたけれども、やはり彼女は大事にするつもりはないらしい。

 息子が頭を上げるのを待っていたかのように、キャサリンはため息をついた。それだけで、四人の少女たちは震え上がる。


「それで、お前はあの娘のこと、他言していないでしょうね?」

「いいえ、何が起こったのか知りもしないことを、このウィリアム話せるはずもありません」

「そう」


 慎重に言葉を選ぶウィリアムに、キャサリンは目を細める。


「母上、教えてください。パトリシアは無事なのですか?」


 自分は知る権利があるはずだと、遠回しなやり取りで母の口から語られるのを待っていられなかった。

 心から兄の婚約者を案じるウィリアムに、キャサリンは嘆息した。


「お前は、無事ですんだと本気で思っておるの」

「それは……」

「ええ、体のほうは無事よ。傷もアザも、数日で消えるでしょうし、医者の言葉を信じるなら孕んだ可能性は低いわ。心のほうは……」


 うんざりした顔で、キャサリンは首を横に振る。


「本当に手がかかる娘だこと」

「母上、それはあまりにも……パトリシアは被害者でしょう」

「はぁ……、そうね、お前も愚直なクリストファーも、この者たちの話を聞いてもあの娘は被害者だと言うでしょうね」


 扇で指し示されたのは、四人の使用人たちだった。

 こめかみに手を当てるキャサリンに、ウィリアムは初めて心労を見出した。


「わたくしとて、情けを知らないわけではないのよ。あの娘のことは気に入らないけど、陛下がロレンス家の娘を望んだんですもの。蝶よ花よと育てられた苦労知らずの箱入り娘に王妃が務まるとは思えなくても、わたくしにあの娘を拒むことはできないの。わたくしのことなど聞く耳を持たないなら、その身をもって学ぶしかないでしょう。いつか痛い目にあうだろうと、わたくしはわかっていたのよ。でも、だからといって、まったく……」


 いらだたしげにキャサリンは、扇を手に打ちつける。いくら気に入らなくても、痛い目にあえばいいと思っていても、強姦されればいいとまでは微塵にも思わなかった。


「今回のことは、あの娘の愚かさが招いたことでもあるのよ」

「母上っ……!!」


 あまりの言いようにいきり立つ息子を尻目に、キャサリンは使用人たちを睨みつけた。


「お前たち、いい加減泣くのはおよし! お前たちが泣いたところで、なかったことにはならないのよ。まったく、どいつもこいつも……さぁお前たちから、何があったのか話しなさい。痛い思いをしたくないなら、さっさと話しなさい! お前たちがどんなに愚かでも、そのくらいできるでしょう!!」


 その対象ではないウィリアムも身をすくませるほどの激しい叱責に、若い使用人たちが震え上がらないわけがなかった。

 それでも、泣きながらつっかえながら身を寄せ合いながら、彼女たちは何があったのか打ち明けた。


 彼女たちの話はこうだ。

 二ヶ月ほど前――ちょうどナハルの暴動鎮圧にクリストファーたちが出立した頃から、月虹城の若い女が次々と男に襲われるようになった。そう、彼女たちもまた、パトリシアと同じ性的暴行の被害者だった。ひと昔前と違い、訴えることもできた。けれども、彼女たちにそんな勇気はとてもとてもなかった。どこの誰かもわからない男に辱められたなどと、他人に知られることすら恐ろしかった。男のウィリアムには到底想像すらつかないほど、彼女たちは思い悩み苦しみ追い詰められていた。かつては明るくよく笑っていたのに突然別人のように暗く笑わなくなった使用人がいることに、パトリシアは気がついてしまった。パトリシアは、たとえ使用人でも放っておけなかった。気性が激しいキャサリンとは対称的なパトリシアに、優しく尋ねられればすがってしまうのはしかたのないことだったのだろう。同じ年頃だったというのも大きかったのかもしれない。

 キャサリンが厳しく評したように、パトリシアは世間知らずの箱入り娘であることは否定のしようがない。

 話を聞いて我がことのように胸を痛め憤った彼女が、ちょっと護身術に覚えがあるからと、使用人の服を借りて強姦魔をおびき出して成敗してやろうなどと安易な考えを実行してしまうほどなのだから。

 ウィリアムが昨日の朝遭遇したのは、その結果だったのだ。


「本当に忌々しい娘よ、まったく」


 母が忌々しげに吐き捨てるのも無理もないと、ウィリアムは膝の上で拳を握りしめるしかなかった。

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