アウルに愛された男

 まだ明けきらない夜の静寂を切り裂くような凄まじい悲鳴が、丘の上に響き渡った。それも、時間をおいて二度も。


「アレは人の髪が好きなんだよ。美味いんだろな、知らんけど。ちなみに、髭とかすね毛とかアソコの毛とか、そういうのはなぜかセーフだ。アウトは髪だけ。わかってると思うが、アレが人を喰う。髪が生えてる頭から喰う。頭の天辺からつま先まで、骨の髄まで残さず綺麗に食べてくれたらいいんだが、これがめっちゃ喰い散らかす。野犬に喰われたほうがマシってくらいでな、掃除が大変なんだこれ。ああそうそう、前の料理人なんだが、さっさとツルッと髪を剃ればいいのに、毎晩ちみちみ一房ずつ捧げてたんだよ。で、ある晩とうとう吊るすの吊るすのを忘れて喰われた。それがお前が寝た部屋なんだが、気が付かなかったろ。俺たちが苦労して掃除したおかげだ、感謝しろ」

「で、結局、アレはいったい何なんですか?」


 そう尋ねたマクシミリアンの声は、弱々しい。


「さぁな。聞いた話じゃ、前に大陸の奴らが攻めてきた時に、当時あの港町あたりにいた一族が放った呪いだとか。その一族が滅んじまっているから、真偽の程はわからない。はっきりわかってるのは、アレは髪が大好物な人喰いのバケモノで、アレに名前を与えてはならないことくらいだ」

「名前を与えてはならない?」

「そうだ。名前ってのは、それだけで大きな力を持っているとかなんとかで、名前を与えたらもっとヤバいことになるらしい。知らんけど」

「…………」


 今でも充分ヤバいだろと言いたかったけれども、マクシミリアンは弱々しいうめき声しか上げられなかった。

 彼は今、チャールズたちとともに船に乗っている。一本だけのマストにもたれて座りこむ彼は、早くもぐったりとしていた。


(海は嫌いだが、ピュオルはもっと嫌いだ)


 昨夜のことは早く忘れたいのに、しっかりと脳裏にこびりついて離れない。

 影や闇を実体化したら、ああいうバケモノになるのだろう。姿形はわからなかった。子犬くらい小さかった気もするし、見上げるような大男よりも大きかった気もする。

 忘れるべきなのに、つい思い出そうとしてしまう。少しでも理解の範疇におさめられれば、恐れが薄まると信じたいがゆえに。

 恐怖におののき、指一本も動かせない情けない体の上にのしかかってきたはずの、真っ黒なナニか。人を喰らうというのに、口のようなものはなかった。それどころか、目や鼻、耳らしきものもなかった。息遣いも体温も感じられなかった。

 なにより――、


(殺意どころか、悪意も敵意もなかった)


 かと言って、捕食者の喜びや飢えもなく、人どころか獣じみた感情が一切伝わってこなかった。

 完全に理解の範疇を超えていた。


(ああ、そうか。だから名前を与えてはならないのか)


 おそらくは、理解の範疇に収めたら収めたで、アレへの恐怖は薄まるどころか逆効果になるということかもしれない。妙に納得してしまった。

 アレがのしかかってきたあとのことは、まったく記憶がない。それもそのはずで、彼は気絶してしまったのだ。

 まだ夜が明けきらないうちにチャールズの悪辣な手段で叩き起こされるなり、彼は悲鳴を上げてしまった。

 恐怖はすでに去っていたのに、いよいよ喰われるのかと思ったなどとは、口が裂けても言えない。もっとも、あれほどの悲鳴を上げてしまっては、彼が言おうが言わまいが関係ないのだが。

 悪夢だったと思いたかった。思いこもうとした。けれども、そうやってアレのことを考えれば、考えるほど、恐怖の記憶がより鮮烈になって、現実だと脳に刻み込まれてしまった。頭上に吊り下げていた自分の髪がどうなったのか、はっきりと確認する勇気はなかった。

 思わず恐怖を反芻し増幅させてしまって、しばらくまともに話せる状態ではなかった。

 そんな彼に、チャールズは嬉々として見覚えのある壺をベッド横のテーブルにドンと置いた。

 素焼きの壺、木の器に注がれる土気色の腐ったミルクの臭いがするドロドロ。

 次に何が起きるか――いや、何をされるのか察した途端、過ぎた恐怖は一時的にどこかいってしまった。


「こいつは、船酔いにもよく効く。朝飯代わりに、さ、飲め」

「い、嫌だ」

「拒否権があるわけないだろ。時間もないし、リチャード」

「ああ」


 リチャードに拘束されたマクシミリアンは、本日二度目の悲鳴を上げる羽目になった。


 夜も明けきらぬうちから散々な目にあった彼は、非常に不本意ながら早くもあのクソ不味いドロドロの効果を認めざる得なかった。

 ぐったりしているものの、行きの悲惨さに比べたら腹が立つほどマシだった。


「マクマク、ガマン、モー少し」

「ありがとう、チェチェ。大丈夫だ」


 心配そうに顔を除きこんでくれたチェチェに、マクシミリアンは弱々しくとも精一杯の笑顔を作った。

 確かに、商船まではもう少しだ。大陸の入り口リマンは、まだまだはるか先。

 チェチェにこれ以上心配かけたくなくて、つい張ってしまった虚勢がいったいいつまでもつかわかったものではない。

 そんな彼に寄り添うように腰を下ろし膝を抱えたチェチェ、金の鎖で飾られた青いターバンがよく似合っていた。


「チェチェ、ガンバるヨ。マクマク、アウルたちの声、聞コえる、なる、チェチェ、ガンバるヨ。チェチェ、ガンバるヨ」

「まずは、大陸語を頑張ってもらわないとだな」

「大陸語、ガンバってるヨ」


 言われなくともと頬を膨らましたチェチェを、チャールズは声に出して笑う。不思議なくらい嫌味のない笑い声だった。

 チャールズとリチャードも、銀の鎖で飾られた黒いターバンをしているせいか、


(まるで、親子みたいだな)


 そう言えば、チェチェの実の親はどうしているのだろうか。

 大陸についたあとにでも、リチャードに尋ねてみよう。今は、海を乗り越えることだけに集中しなければならない。


 商船に追いつくと、まずチャールズが一人で交渉しに行った。すぐに話をつけたらしく、一度引き上げられていた縄ばしごが再び降ろされる。


「必ず、帰ってきてくださいよ」


 チェチェに続いて縄ばしごに足をかけようとしたリチャードの背中に切実な声を投げかけたのは、現総督だった。


「当たり前だろう。いつになるかはわからんがな」

「信じてますからね!」


 いかつい外見に似合わず頼りないなというマクシミリアンの印象だった。チャールズに言わせれば、ピュオル生まれでピュオル育ちの彼のほうが、癖の強い部族たちを上手くまとめているらしい。

 そして、マクシミリアンはとてもとても縄ばしごを登る自信がなかったので、チャールズたちの荷物にしがみついて引き上げてもらった。情けないとかそんなことが気にならないくらい、すっかり海が苦手になっていた。


「また、お世話になります」

「いやいや、世話になるんはこっちのほうだ。アンタには、ほんまに感謝してもしきれんわい」

「は、はぁ」


 およそ丸一日ぶりの船長に、感激の涙をこぼしそうなほど歓迎された。


(羽振りのいい上客だった、といいわけではないよな)


 戸惑った彼は、答えを求めて黒いターバンを探す。いや、探すまでもなかった。

 チャールズたちは、甲板の真ん中あたりにいた。なぜか彼ら三人と距離をおいた船乗りたちが、ぐるりと囲む輪を作っているではないか。物珍しさに集まった野次馬と呼ぶには、船乗りたちの視線はあまりにも真剣すぎる。


「アンタのおかげで、帰りは安泰だ。ワシも長いこと船乗りやっとるが、ピュオルの踊りを拝むンは初めてさ」

「ピュオルの踊り?」

「なんだ、アンタ知らんのか。ま、ワシも詳しくは知らん。ワシらの神の代わりに、『奇跡』を起こしてくれるピュオルの踊りだとさ。ピュオルの娘が船の上で踊れば、まさに順風満帆。大船に乗ったように、安全な航海が約束される。そういう話だ。ま、どんだけ本当か知らんが、こうしてお目にかかれるだけ、ありがたいさ」


 行きは気がつかないままだったけれども、この船長もよく喋る男だった。

 よくわからないなりに感心してチェチェに目を向けたマクシミリアンは、一瞬呼吸を忘れた。

 キラキラとよく輝く琥珀色の瞳が、まるで本物の琥珀――いや、それよりも尊い宝玉のような硬質な煌きとなって、彼の魂を射抜いた。


「――――――――――――――――っ」


 ゆっくりとたおやかに手を上げたチェチェが発したのは、声というよりも音だった。

 チェチェが踊る。ゆっくり、素早く、しなやかに、美しく、そして尊く。

 それまでゆるやかに吹いていた風が、変わった。チェチェは、まるで風と戯れるように舞い踊っている。

 帆が膨らみ、船上に驚嘆の声が上がるなか、マクシミリアンは誘われるようにふらりふらりと歩みだす。

 踊りの邪魔になってはかなわんと、船長は彼を止めようとしたけれども、できなかった。何故と理由を問われても、彼は答えられないだろう。ただ、本当にただマクシミリアンを止めてはならない気がしたのだ。止めれば、なにかの怒りに触れるような気がしたと。


 誘われている。導かれている。考えろ。考えるな。感じろ。感じるな。疑うな。疑え。わたしたちはここにいる。どこにでもいる。見えるものが全てで、見えないものはない。見えるものでは不完全で、見えないものもある。すべて、わたしたちのもので、わたしたちのものではない。行け。行こう。止まるな。止めるな――――ィン


 はっと我に返ったマクシミリアンは、船首に近い船べりギリギリにいた。

 さっきまで不快でしかなかった揺れや潮風が、まるで気にならなくなっていた。むしろ、リセールの早朝の空気のように心地よかった。

 生まれてはじめて、これほど世界が美しく素晴らしいことを知った。


「ちが、そうじゃない……」


 知っていたはずなのだ。

 世界が、これほどまばゆくみずみずしいことくらい。

 知っていたのだ。

 とてもとても、一人の人間に受け止められるものではない。当たり前だ。

 受け止められなかったぶんは、涙となって溢れ出す。止められるはずがない。

 子どものように泣きじゃくるのは、みっともないとわかっている。なのに、どうしようもない。どうしようもないのだ。

 アウルは至るところに存在し、命そのものであり、世界そのものである。!!

 すべてを理解できたわけではない。そもそも、すべてを理解できるはずがない。

 それでも、はっきりとわかったことが一つだけ。


「世界がっ、世界が、俺を……俺なんかを、愛してくれてた」


 泣きんぼうと呼ばれていた頃は、ちゃんと知っていたはずなのに。


 ごめん。ごめんなさい。すっかり忘れてしまって、ごめんなさい。こんな情けない男を、見捨てずにいてくれて、ありがとう。ありがとう。


 船べりで泣きじゃくる彼の服の裾を引いたのは、チェチェだった。踊りが終わったことすら、気がつかなかった。

 鳥肌が立つほどの神秘性はすでになく、目を輝かせた無垢な少年がそこにいる。


「マクマク、ダイジョブ」

「ああ、大丈夫だ」


 泣きながら笑った顔は、酷いものだっただろう。

 それでも、それでも、しっかりと大丈夫だと言えた。

 これほど、高揚した気分は久しぶりだった。

 左右の肩に手をおいたのは、チャールズとリチャードだ。


「それはよかった。なにしろ、非情の双子王子が里帰りするってのに、伊達男が大丈夫じゃなかったら面白くない。だろ?」

「面白いか、面白くないかではないだろうが、泣きんぼうあってこその里帰りだからな。大丈夫でなければ、困る」


 世界アウルに愛された男だからこそ、祖国を捨てた非情の双子王子を連れ帰ることができるのだろう。

 世界に愛された男だからこそ――、




 女旅行家アンナ・カレイドの支援者がグッドマン商会の会長フィリップ・グッドマンであることは、割とよく知られている。

 一代で王国を代表するまでに成り上がった大商人の彼は、篤志家としても広く知られている。孤児院や救貧院に寄付や寄贈を惜しまず、働くのに難がある者を積極的に雇い入れたりと、まさに善人グッドマンそのものだった。

 そんな彼がアンナを支援するのは当然だと、当たり前のように世間は納得し功績の一つに加えた。

 けれども、フィリップはアンナの支援などしたくなかった。世間の評判とは裏腹に、非常に不本意で不愉快極まりない支援だった。彼女が旅行を辞めるなら、諸手を上げて喜び国内ならどこにでも使用人付きの快適な屋敷を用意してもいいと常々考えていた。

 女の一人旅など、危険極まりない。今でも、彼女の旅の安全のためにどれほどの労力が割かれているか。いくら旅行記の売上が伸びようとも割に合わない。

 なにより女旅行家アンナ・カレイドが世間でもてはやされればもてはやされるほど、彼女を真似しようとする者が老若男女問わず現れるのは非常に頭の痛い問題だった。予期はしていたことではあるけれども、非常に不愉快だ。

 つい先日も、どこぞの田舎貴族がウチの娘もと売り込んできたばかりだ。娘が可愛くて仕方ないのはわかる。けれども、その娘を危険な目に合わせようというのが理解できない。女でなくとも一人旅は危険で快適ではないと説いたところで、引き下がるような輩なら始めから話を持ちかけないだろう。非常に面倒くさい。時間の無駄だ。

 こういうときほど、アンナが話を持ちかけてきた際に譲らなかった条件が役に立つ。

 フィリップが譲らなかった条件とは、実母であることと長きにわたってコーネリアスに献身的に尽くしたことを、国王ジャックに公表させることだった。

 アンナは『特別』なのだと世間に知らしめることで、真似しようとする愚か者を断る口実を作ったのだ。

 とはいえ、やはりフィリップは今でもアンナを支援したくはないのだ。

 脅迫まがいの支援の話を持ちかけられたとはいえ、断れなかったわけではない。彼の支援がなくとも、アンナは本気で一人旅をする気満々だった。どこで野垂れ死のうと知ったことではないと、割り切れればどれほどよかったことか。

 こういうときほど、自分が嫌になることはない。

 はっきり言って、フィリップはアンナが嫌いだ。けれども、好き嫌いで見捨てられないから、善人グッドマンだった。

 アンナはアンナで、日頃からフィリップに我儘を叶えてもらっていることを正しく理解しているし、彼に嫌われていることも重々承知している。

 なので、こうして彼女から二人きりで食事をしたいと言われたときは、珍しいこともあるものだと驚いた。面倒見のいいフィリップは、もちろん断らなかった。

 アンナが初の国外旅行へとリセールを経つ前の晩、女旅行かとその支援者はリセールでも最上級のレストランの個室で宮廷料理を堪能することになった。

 美味しい美味しいと目を輝かせて、アンナはご満悦だ。

 対してフィリップの機嫌は最悪だった。青い会食用の仮面で顔の上半分を覆い隠していても、誰の目にも明らかなほどに。

 デザートまでしっかりたっぷり堪能したあとで、アンナはこう話を切り出した。


「あの泣きんぼうがもうすぐパパになるなんて、あなたも感慨深いもがあるんじゃない?」


 フィリップはちょうど食後の飲み物を運んできたウェイターに、アンナにブランデーを一瓶残して下がるように指示する。自身のお茶で唇を湿らせてから、ようやくフンと鼻を鳴らして答えた。


「さっさと要件を言え。お喋りをするためにわざわざ食事がしたいなどと言ったわけではあるまい」

「あらやだ、わたしったらすっかり嫌われちゃってるのね」

「何を今さら」


 白々しいにもほどがある。

 わざわざ人払いしてやったのに、彼女はすぐに要件を話そうとしない。


「悪いけど、今夜はそのおしゃべりをしたいのよ」

「フン、帰る」

「待って待って! そんな意地の悪い事言わないで。リセール公のことよ」


 腰を上げかけたフィリップは、リセール公と聞いて考え直す。

 今月の初めの会議以降、リセール公の姿を見た者はいない。もう十日以上経っている。丘の上の領主館でゆっくりするように促しはしたけれども、あのリセール馬鹿のマクシミリアンが言われたとおり籠もったのは、想定外だった。病気で寝込んでいるという噂もあるけれども、丘の上があまりにも静かすぎて疑わしいところだ。

 そしてあの日、突然旅行計画を変更したアンナがマクシミリアンのもとを訪れている。


(その翌日だったな。この女狐がフレイズ国に行きたいと言い出したのは)


 迂闊だった。

 またいつもの我儘に振り回されてうんざりしていただけだったけれども、領主館で何かあったかもしれない。


「リセール公に何かあったのか?」

「あなた、本当にあの子のことになると目の色を変えるわよね。コニーも大概だったけど、あなたもそうとうよね」

「何が言いたい」

「はぁ、言ったでしょう。おしゃべりがしたいって」


 予想はしていたけれども、こうも話が弾まないとは。アンナは大仰に嘆いて、二杯目のブランデーをコップに注いでいる。


「知ってた? あなたがそそのかしてリセール公にしたとき、コニーはなたに可愛い甥を奪われたって寝込むくらい悔しがったのよ」

「フン。そんなに可愛がっていたのなら、リセールに放り出さなければよかっただけのことだ」

「それは確かにそうね。でも、コニーはあなたに見せびらかしたのよ。あの泣きんぼうがこんなに立派に育ったって」

「立派だと? 顔役にちょっとからかわれただけで、顔を真っ赤にするような青二才だったぞ」

「あの子を一人前にしたのは、あなただと言うのね」

「フン」


 コーネリアスは重度の叔父馬鹿だったけれども、彼はそれ以上に重症かもしれない。


(罪滅ぼしとか、そういうのだと思ってたけど、とんでもなかったわね)


 後ろ暗い責任感からマクシミリアンの面倒を見ているとばかり思っていたのに、とんだ誤解だった。

 なんとも愉快な気分で、アンナの酒が進む。


「実は、ちょっと気がついちゃったのよ。二八年前の王太子夫妻暗殺事件は、案外、王太子夫妻殺人事件と呼ぶべきなんじゃないかしら」

「アンナ!」


 激しく動揺し腰を浮かせたフィリップをあざ笑うかのように、アンナは歌うように続ける。


「ルーシー・パーカー、ニコラ・ガンター、グレース・ブラウニング、クラーラ・エア、それからパトリシア・……これは完全に女の勘というやつだけど、あの事件と関係あるんじゃないかしら」


 仮面をしていてもはっきりわかるほど顔色を失い、渇いた唇が衝撃にわなないている。


「なぜ、なぜ……お前が……」

「彼女たちを知っているか、でしょう。そんなに驚くことじゃないと思うけど」

「アンナ!!」

「はいはい、うるさいわねぇ。どうして男ってこうすぐに大きな声を出すのかしら。そんなので、本当に黙らせられると思ったら大間違いだというのにね」


 あざ笑うアンナは、妖艶な魔女のようだった。


「人の口に戸は立てられぬって、よく言うでしょう。キャサリン王妃が箝口令をしいたところで、隠しきれるものではないわよ。なぜ知っているかなんて、この際、どうでもいいじゃない。わたしはただ、あの事件と関係あるかが気になっただけなの」

「…………っ」


 血が滲むほど強く唇を噛みしめる姿を見れば、答えは嫌でもわかってしまう。


「コニーはああいう話に興味ないの、昔っからね。わたしも、あの事件の真相なんて興味ないのよ。ただ、ちょっと気になっただけよ。気になったまま、フレイズ国に行ってもなんだか嫌じゃない。だから、答え合わせをしたかっただけ」

「なら、これ以上は口をつぐんでいろ」

「ええ、もちろん。言ったでしょう。わたしは、事件の真相なんて興味ないもの」

「……フン」


 彼女の言葉を信用するべきだろうか。疑わなかったわけではない。

 ただ、アンナ・カレイドが執着するのは、死んだ最愛の人のみ。その一点だけは、よく知っている。

 非常に腹立たしい。これほど憎たらしい女は他にいない。


「明日があるから、そろそろお暇するわ」

「そうしろ。君にはうんざりだ」

「わたしは、あなたと仲良くやっていきたいのに」

「ふざけたこと言ってないで、さっさと行ってしまえ」


 フレイズ国でくたばればいいと、心にもないことを口中で毒づく。そんな素直じゃない仮面の男に、アンナは困ったやつと肩をすくめる。

 彼と仲良くやっていきたいのは、まぎれもない本心だ。

 けれども、二人きりのときでさえ、仮面を外そうとしないようでは、それは難しいだろう。

 小さく息をついて、彼女は席を立つ。


「ごきげんよう、ウィリアム殿下」

「フン」


 アンナの足音が完全に聞こえなくなった途端、フィリップは拳を勢いよくテーブルに叩きつけた。

 フィリップ・グッドマン――かつてウィリアム・ヴァルトンだった男は、やはりアンナ・カレイドが大嫌いだ。


 世界に愛された男だからこそ、リウル河に名前を捨て、素顔を仮面で隠し続けてきた男が捨てきれなかった忌まわしい過去に向き合うことができるのだろう。

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