ピュオル島及び周辺諸島連邦

 三月一六日早朝。

 予定通りなら、今日、ピュオルに到着する。つまり、船を降りる日だ。

 薄暗い船室のベッドで、マクシミリアンはうめき声を上げてモゾモゾと寝返りを打った。


「あー、クソ。海なんかクソだ」


 初めて海は、最悪だった。

 河川とは、まったく違った。海水がもたらす独特な匂いや湿り気の不快感は、経験したことがないものだった。なにより、川と違って流れが一方向でないのが耐え難い。船酔いは酷いものだった。あらかじめ船酔いに効くという薬を飲んだけれども、すぐに胃の中のものを吐いてしまった。

 この船は、商船だ。個室は、船長のものを除けば、船主といった特別な乗客のための一室だけ。

 初日でもう耐えられなくなった彼は、金に物を言わせて船室を確保したのだった。


「クソ……風呂入りたい」


 ベッドを這い出た彼は、リセールの伊達男には見えないほど、やつれていた。

 顔色が悪いのはもちろん、髭は伸びっぱなしだったし、自慢の黒髪はベタつきフケが浮いている。体中がかゆい。

 船室に確保してあった桶の水で口を濯ぎ、頭から水を被る。不快感は少しも減らない。


(五日くらい我慢できると思ったんだがな)


 甘かった。

 ふらつく足で、戸口に仕掛けた簡単な罠を外していく。アンナから聞いていた一人旅で実を守るための罠が、これほど役に立つとは。


(昨夜は、さすがに来なかったか)


 初日に金に物を言わせたせいで、よからぬ輩に目をつけられた。

 初日と二日目の夜と、三日目の昼間、こりもせず金目の物を狙った者たちが罠にかかった。


 船室を出た彼は、ふらつきながら甲板に出る。

 眩しさに軽いめまいに襲われる。


「ああ、アンタかぁ。えらいひでぇ顔しとるなぁ」

「…………まぁな」


 愛想笑いをする余裕は、初日で喪失している。

 声をかけた小柄な船長は、そんな彼の様子に声を上げて笑った。すぐに笑いやまない船長を、ムスッと睨む。


「いや、すまんすまん。海が初めてってやつ乗せんのなんざ、めったにないから、ついなぁ」

「……」

「ほれ、あれがピュオルだ」

「あれが……」


 前を見るように肩を叩かれてようやくマクシミリアンは、目的地が目前だと気がついた。


 ピュオル。正式名称はピュオル島及び周辺諸島連邦。

 大陸の歴史に、初めてその島々が登場したのは、今からおよそ二百年前のこと。

 文化はもちろん、言語すら違う複数の民族の島々に大陸の船乗りが漂着したのが始まりだった。漂着者たちは、見たこともないお宝を持ち帰った。そのお宝は、残念なことに彼らが帰った国が滅んだときに失われてしまった。記録によれば、大陸には存在しない金属で作られた装飾品。その繊細な加工技術は、再現不可能なものだったという。

 その国が中心となって、島々を征服しようとした。対等な交易など考えもしなかったのだ。

 信仰が、征服を正当化するのに充分すぎる大義名分となった。

 大河の南に広がるフラン神聖帝国の皇帝を神と崇め、その加護にすがるヤスヴァリード教は黄金山脈より西側の大陸で深く根付いている。神なき国の民以外は、すべてヤスヴァリード教の信徒といっても過言ではないのだ。

 神なき国も帝国から独立を認められてからも、他の国が何度も侵略してきた。

 大陸西部において、ヤスヴァリード教の信徒でない者は許しがたいほどの異端だったのだ。

 結局、大陸側の将軍が島々の民に寝返ったこと、最終的にアテにしていた帝国の皇帝が島々に関与しないと宣言したこと、侵略に加担した国を襲ったあまたの災いなどによって、侵略は成功しなかった。

 寝返った将軍を初代総督として、ピュオル島及び周辺諸島連邦が地図に加わった。

 それが百五〇年ほど前のこと。

 海洋都市国家リマンを始めとした大陸側と交易が行われるようになったのは、ここ二十年ほど前からだ。失われたお宝ではなく、上質な塩が大陸に流れてくるようになったのは、神なき国の双子王子の多大な功績のおかげだった。


 そのピュオルが目の前にある。

 昨日までは、陸地がまったく見えず、揺れる船の上で寄る辺なさに精神を疲弊していた。

 それが、陸地を目にしただけで、自分でもおかしいくらい安心してしまった。

 目の前過ぎて、全景が見えないのは残念だった。せめて、絶えず噴煙を上げ続ける火山くらいは拝んでみたかった。


 流民の島。

 ふと、いつの年だったか、新年節の親書でピュオルをそう称していたのを思い出した。読み上げられたそれを耳にした玉座のコーネリアスは、面白くなさそうに鼻を鳴らしていた。

 故郷を離れてさまよう人々が流れ着く島と言うくらいなら、帰ってくればいいのだと、コーネリアスはとらえたのだ。

 儀礼的な親書に、そこまで深い意味はないだろうにと、あのときはコーネリアスが大人気なく見えた。


(どういうつもりだったのか、尋ねてみるかな)


 少なくとも、コーネリアスは帰ってきてほしかったのだ。

 どういう経緯で、双子王子が出ていったのか、詳しいことは何も知らない。六王子の誰かと仲違いしたのだと聞いているけれども、噂がどれほどあてにならないか、よく知っている。


「あと一時間ばかしで着くさ」

「あと一時間……」


 まだそんなにかかるのかとゲンナリした彼の背中を、船長はバシンバシン叩く。


「まぁ少し辛抱せい!」


 ガハハと笑う船長に、マクシミリアンは毒気を抜かれてしまう。


「しっかし、アンタはヴァルト人だろ」

「ええ、まぁ……」


 素性どころか名前すら尋ねなかったのにいきなり何をと訝しんでいると、船長は神妙な顔で続ける。


「いや、別に神なき国がどうこうとか、ご大層なことは考えとらんよ。ワシはただの船乗りだ。難しいことは考えたくもないし、大いなる神の教えこそが唯一絶対正しいとか考えるヤツは、そもそもピュオルに近づかん」

「そうは言っても、船長もヤスヴァリード教の教えを規範に生きているんでしょう」

「まぁな。ワシのような粗忽モンでも、毎日の祈りは欠かさんよ」


 船長が首から下げている聖石は、信徒の証だ。この船で、聖石を下げていないのは、マクシミリアンだけだった。それだけで、彼がヴァルト人だと主張しているようなものだった。


「ピュオルはな、まだワシら信徒を許しとらんのだろう。ワシの知り合いも何人喰われたことか……」

「喰われた? 人喰い蛮族の話はデマカセだと聞いてたが」

「ああそうだ、人が人を喰うわけがない。だが、人を喰うナニかはおる」

「ナニか? 熊のような猛獣の仕業では」


 船長は日に焼けた顔に浮かべた曖昧な笑みで、マクシミリアンの問いを無視した。


「ヴァルト人を乗せれば海が穏やかになるつぅ話があってな、ワシは信じとらんかったが、いつもよりえらい早うついた。あの話、案外間違っとらんかったかもなぁ」

「そうですか」

「塩を積み込んだら、すぐにリマンに戻る。早う着いたおかげで、夕暮れ前にはおさらばできそうだ。……アンタが間に合えば、帰りも乗せてやる」

「それは……」


 難しいだろう。

 まずは一番信頼できるらしい地図をたよりに総督府に行き、双子の叔父の居場所を調べなくてはならない。すんなり教えてくれるとは限らない。

 今日中に、居所がわかるとは到底思えなかった。


「間に合えばの話だ。難しい顔するな」


 再びガハハと笑って、船長は甲板から去っていく。

 マクシミリアンは、上陸に向けて慌ただしくなる中、邪魔にならないよう荷物を抱えて甲板に残った。

 とても、薄暗い船室に戻る気にならなかった。




 船長が言った一時間もかからないうちに、マクシミリアンはピュオルに降り立った。

 残りの代金だけでなく心付けとして金の腕輪を与えると、船長はもう再度間に合えば帰りもと言ってきたのには、苦笑するしかなかった。

 ともあれ、ようやく悪夢のような航海から解放されたのだ。

 まだ波に揺られているような気持ち悪い感覚も、じきに治るはずだ。

 リセールから持ってきた資料が詰まった鞄を抱え直して、一歩踏み出そうとした。


「えっ……」


 ぐらりとが揺れたと思ったときには、一面雲一つない綺麗な青空が視界に広がっていた。


(美しい、な)


 ──ィン


 背中が地面に叩きつけられるよりも先に、意識を失った。

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