女旅行家アンナ・カレイド

 領主館の玄関で、昼前には客人を迎えて、晩餐の支度は整っていると報告を受けた。

 さっさと着替えて食堂に急がなくては。

 いくら悩みを引きずったままでも、大事な客人は快くもてなさなくてはならない。

 手早く用意させておいた服に着替えて、姿見で顔を確認する。


(まぁ、忙しかったと言えば大丈夫だろう)


 ついでに、しばらく領主館でゆっくり過ごすと言えば、まず心配されることはないだろう。

 仮面の善人に指摘された目の下のクマは、危惧していたほど濃くなかった。なぜ気がついたのか、不思議なほどだ。

 苦笑を一つすると目の下の薄いクマを軽く撫でて、革紐を編んだだけの地味な細い髪紐をほどき、服に合わせた淡い青のリボンで低い位置でキツく結直す。次に前髪は手ぐしでサイドに流した。


「よし! デビーとアンナが待っている」


 ややお疲れ気味だけれども、笑顔も問題ない。悩みなど忘れて、今から晩餐を楽しまなくてはならないし、なにより彼も楽しみにしていたのだ。

 強引に気持ちを切り替えて、軽い足取りで食堂に向かう。


 聞いていたとおり、妻と客人は席について待っていた。


「おまたせ、レディたち」


 彼のよく通る朗らかな声と人好きのする笑顔は、もはや天性のものと言っていいだろう。


「おかえりなさい、マックス。待ちくたびれて、あなたの分まで先に食べてしまいましょうよって、アンナと話していたところよ」


 間に合ってよかったわねと、勝ち気な笑みを見せる金髪の若い女が、マクシミリアンの妻デボラ・ヴァルトン。大きな瞳が、魅力だ。

 先月リセールに戻ってきたあと、ほとんど行政庁舎に籠もっていたマクシミリアンは、デボラに会うのはひと月ぶりだろうか。そのひと月前も、必要な書類を取りに来たついでのごく短いものだった。


(少し会わないうちに……)


 また大きくなった。妻のお腹の中に我が子がいるのだという当たり前な事実に動揺してしまう自分に、嫌気がさす。顔に出なかっただろうか、おそらく大丈夫だ。仮面のように笑顔で胸の内を隠すのは、得意だ。意識しなくても、隠せる自信があるほどだ。


 身重の彼女に代わって席を立ったのは、白髪交じりの明るい茶色の短い髪の初老の女だった。目元にホクロがある深緑のタレ目をわざとらしく瞬かせる。


「まぁ、デボラったら! 嘘よ、リセール公。あなたの妻は、とっても心配してたのよ」


 余計なことを言わないでと、デボラは唇を尖らせたけれども、目は笑っている。

 デボラは本気で責めていないし、客人――アンナ・カレイドはちょっとからかっただけだ。

 まだ数えるほどしか会ったことのない二人がすっかり打ち解けているのが見て取れる。女たちの仲が良いのは、大変良いことだ。嬉しくなったマクシミリアンは、両手を広げたアンナを抱きしめる。


「ようこそ、アンナ。久しぶりだ。最後にあったのはたしか……」

「リセール公の結婚式よ」

「ああ、そうだった。ということは、旅を始めてもう四年が経ったのか」

「まだ四年よ、リセール公」

「リセール公はよしてくれ、アンナ。マックスと呼んでくれないか」

「無理よ、そんな恐れ多いこと」

「では、わたくしも国母様と呼ばなくては」

「ちょ、やめ……」

「マックス。そう呼んでくれたら、やめてやる」

「しかたないわね、マックス」

「ありがとう、アンナ」


 ようやく、マクシミリアンは抱擁を解く。


「さぁ、早く席についてちょうだい。冷めてしまうわよ」


 先に席についていたデボラは急かす。わざとらしく唇を尖らせているけれども、目は笑っている。

 アンナを席に座らせてから、それほど大きくない食卓を回り込んだマクシミリアンはデボラの頬に口づけしてから引き寄せて距離を詰めた椅子に座った。


「待たせてしまって、悪かった。さぁ、食べよう」


 晩餐といっても、食卓に並ぶのはリセール地方の家庭料理。給仕係は、一応は食堂の外で待機しているけれども、一般家庭の夕食くらいに砕けている。

 形式張ったことを嫌うアンナをもてなすために、リセール育ちのデボラがメニューを決めて用意した晩餐だった。


「ローグ地方の魚料理も美味しかったけど、リセール地方のも美味しいわね」

「そこは、リセール地方のほうが、の間違いでしょう?」

「どちらも、味付けに調理法が全然違うもの。比べられないわ。面白いわよね、この国はそんなに広くないのに、地方で全然違うなんて」


 デボラとアンナの楽しげな会話に耳を傾けているだけで、マクシミリアンは満足だった。彼女たちのおしゃべりが、今宵の最高のスパイスのように感じるのだ。


「朝霧のローグ湖は、一生に一度は見るべき絶景って、あれ嘘よ」

「あら、そうなの? とても幻想的って聞いていたけど」

「そうなの、とっても幻想的だったわ!! 他に、いい言葉が見つからないくらい。一度と言わず、何度見ても飽きない絶景よ。旅に飽きたらローグ湖の畔で暮らそうかしら」

「駄目よ、アンナ。余生を過ごすなら、リセールがいいに決まっているわ。あんな田舎と違って、不自由しないもの」


 アンナ・カレイドは、ひと言で紹介するなら女旅行家だ。けれども、彼女はひと言で収まるような経歴の持ち主ではない。

 現国王ジャックの産みの親。先王コーネリアスに長年寄り添い続け、寵愛を受けた侍女。コーネリアス王が崩御したあとは、彼が彼女が結婚するときの持参金に使ってほしいと遺された莫大な遺産を使って、今は悠々自適に一人旅を満喫している。


 彼女の『アンナ・カレイドの旅行記』は、こう始まっている。


 “わたしアンナ・カレイドとヴァルト王国第三六代国王コーネリアス・フォン=ヴァルトンが、どういう関係だったかは、もうすでに知っているでしょう。そうでなかったら、こんなオバさんの旅行記なんて手に取らないに決まっているわ。

 もしも、王室の暴露話を期待して手に取ったのなら、ごめんなさいね。その期待には応えられないわ。だって、これはわたしの旅行記なんですもの。

 とはいえ、なぜわたしが四九歳にもなってから、旅をすることになったのかその経緯はぜひ知ってもらいたい。それには、愛するコニー(偉大な王を愛称で呼ぶなんてと思う人もいるかもしれないけど、わたしはずっとコニーと呼んできたし、コニーもそう呼ばれるのが好きだった。だから、わたしはこの旅行記でも愛称で書き記す)の話は避けて通れない。だから、純粋に旅の記録を読みたい方は、少しページを読み飛ばすことをお勧めする。


 わたしはコニーを愛していたし、コニーもわたしを愛してくれていた。

 わたしは人生を彼に捧げられて、本当に幸せだった。誰よりも愛する人の側にいられたんですもの、これ以上の幸せはない。

 わたしたちは愛し合っていた。こればかりは、誰がなんと言おうと譲れない。

 辛く大変なことも多かったけど、本当に幸せだった。くどいようだけど、最愛の人の側にいられるのは、何にも代えがたい幸せなの。

 でも最愛のコニーでも、一つだけ、たった一つだけ許せないことがあった。

 それは、わたしに結婚するように勧めてくること。もちろん、コニーとではないわ。わたしが王妃なんて無理。絶対に務まらないってわかりきっていた。そんなことをすれば、コニーが発作を起こしたとき、誰がベッドまで運ぶというの。寝込んだとき、誰が身体を拭いてあげるというの。だから、わたしは夫と妻でなくて、国王と侍女でよかった。わたしたちにとって、それが最高の関係だったの。

 ああ、それなのに。コニーは誰かいい男と結婚するように、わたしに言ってくるの。

 たしかに、わたしが若かった頃は、女の幸せは結婚するのが常識だった。だから、コニーは自分のせいで最愛のわたしを不幸にしているとか、考えていたらしいの。

 こんなことってある? 最愛の人から、他の人と結婚するように言われるのよ。そのほうが幸せだからって。嫌だけど結婚してほしいって。嫌だけどなんて言ったその舌の根が乾かないうちに、結婚しろって。

 思い出すだけで腹が立つ。

 わたしは、結婚するように言われるたびに、他の人と結婚しなくても、充分すぎるほど幸せだって言い返してきた。

 一度や二度の話じゃないの。わたしが世間一般的に行き遅れと呼ばれる年頃を過ぎた頃から、何百回と繰り返してきたのよ。

 コニーは、よく言われているように信念を曲げない人よ、実際。でもわたしに言わせれば、ただの頑固者。

 わたしが結婚したほうが幸せだという馬鹿げた考えは、結局灰になるまで変わらなかった。

 コニーは、わたしに莫大な遺産を遺してくれた。

 『好きなように使ってくれて構わない。

 これだけあれば結婚するのにも困らないだろう。身の振り方につてゆっくり真剣に考えてほしい』という意味の短い手紙も一緒だった。

 それを読んだとき、わたしは心に決めた。


 わたしは絶対に結婚しない。

 結婚しなくても、わたしは幸せだと残りの生涯をかけて証明しなくては。


 なので、わたしは旅に出ることにしたの。

 これは、コニーへの――いいえ、『女の幸せは結婚すること』という馬鹿げた常識への挑戦なの”


 女ならではの目線での王国各地の情景を、飾らない文章で綴られた旅行記。一巻が発売された当時から大好評で、去年の秋に発売された二巻は未だに入手困難だと言われている。世代を問わず、多くの女性の憧れだけれども、実は男性ファンも少なくない。


 アンナはそれはもう楽しそうに、旅の話をしてくれた。


(アンナは、幸せなんだろうな)


 時おり相槌を打ちながら、マクシミリアンは二人のおしゃべりに耳を傾けている。

 アンナがずっとコーネリアスに寄り添っていたのを、マクシミリアンは実際にその目で見てきた。

 結婚をせずに幸せに生きる方法は、他にもある。それこそ、莫大な遺産があるのだ。なんだってとはいかないけれども、大抵のことはできるはず。

 けれども、アンナは旅行を選んだ。

 それは、最愛のコーネリアスが病弱のせいで花の都アスターのそれもごくごく狭い世界で生涯を終えたからだ。彼が見られなかった世界を、彼のぶんまで見て回りたいと思うのはそれほど意外なことではない。

 結局のところ、アンナの幸せにはコーネリアスが必要不可欠なのだ。彼女の心の中には、今でもコーネリアスが生きているのではと、マクシミリアンは考えるのだった。


 晩餐は、始終アンナから旅の話を聞かせてもらった。旅行記には書けないようなことまで、彼女は面白おかしく話してくれるものだから、とても楽しい晩餐となった。

 一度、給仕係を呼び食卓を片付けさせると、そのままここでまったりと歓談しようとデボラが言い出した。すぐにアンナは賛同し、もちろんマクシミリアンに異論はない。

 楽しい晩餐の続きだから、アンナの話を引き続き聞かせてもらえると思い込んでいた。だから、マクシミリアンは妻と客人が意味ありげに目配せしていたことに気が付かなかった。

 だから、アンナのひと言は意外でもなんでもないのに、ピクリとまぶたが痙攣した。


「それにしても、あの困った泣きんぼうが、もうすぐ人の親になるなんてね。わたしも年を取るはずよね」


 上手く笑えているだろうか。

 マクシミリアンは、自信がなかった。

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