三月二十二日 5

 蝶の翅がつまめるほど、翅の柄も見えるくらい目の前にシジキチョウがいた。夜須はまじまじと観察する。赤い翅には斑点模様があり、紋様だけならゴイシシジミに似ていると判断した。大きさもゴイシシジミと同じで、約二、三センチほどだ。翅が開いたときに見える面が赤いのは理解できる。しかし、ほとんどの蝶は裏の面は違う色柄になっている。シジキチョウは珍しいことに、翅の表裏が赤く、同じ模様なのだ。


 雌雄同じ模様なのか、前翅と後翅の形は……、とせわしく目玉を動かして、夜須は観察した。


 昆虫採集の道具を持ってくれば良かったと後悔したが、もう遅い。ここで引き返して道具を持って戻ってきたら、すでに蝶はどこにもおらず、いなくなってしまったと成りかねない。とにかくスマホで画像を撮って、翅を台無しにしてしまうかも知れないが指でつまんでみようと思った。


 片手をそっとシジキチョウへ伸ばす。簡単に翅がつまめたと思ったのもつかの間、指の中でもがいていた蝶がとろりと蕩けて形を失い、夜須の手に赤い血液のような液体が残った。慌てて手を払って液体を飛ばす。どう見ても血液にしか見えない雫が辺りに飛び散った。


 夜須は言葉を失い、後退あとずさる。驚きに心臓がぎゅっと縮み、思わず荒く息を吐く。


「嘘だろ……」


 そのときになって、ようやく夜須はこれが異常なことだと気付いた。


 締め殺しの木に密集していた人型の首が動き、夜須のほうに顔を向ける。目も鼻も口もない、顔の部分は消失して黒く吸い込まれそうな闇が存在している。それが自分を見ていると確信した。


 シジキチョウが寄り集まっていたが、一旦散り散りになったと思うと雲霞のごとくいくつかの塊に凝り、次々と傍らにある井戸の蓋の隙間へと吸い込まれていく。


 思わず、蝶とも呼べない存在の跡を追い、夜須は竹の覆いを剥ぎ取った。交野が塩害に侵された井戸だと言っていた。強烈な糞尿の腐った臭いが辺りに漂う。この悪臭を粗末な竹の蓋だけで防げたのかと驚いた。刺激臭に鼻を押さえて、竹の蓋を地面に放った。


 井戸の中を見て、夜須は言葉を失う。そこには無数の首があった。皆、ドロドロに腐った肉が剥がれ落ち頭蓋骨が剥き出しになっている。


 夜須はあまりの悪臭と衝撃で吐いた。何度も嘔吐えずきながら、なんとかカメラ機能からライトに切り替えた。


 鼻を押さえつつ井戸の中を照らすと、やはり首が浮いている。幻ではなかった。その中に長い黒髪の女らしき首があった。じっと見ていると、少しずつ首が仰向けに動き、端正な顔を露わにした。ごく最近の死体なのか、これだけ腐らず残っていた。それとも、屍蠟化して何年もここに浮いていたのか……。


 口元を左手で押さえながら、ライトで首を照らし出す。女の首がゆっくりと上を向いたと思った途端、カッと目を見開き、目玉だけ動かして夜須を見た。


 夜須は見覚えのある顔にどっと冷や汗が出た。夢に見た女だ。端々しか思い出せなかった夢の断片が鮮明に蘇る。ありえないことだと、夜須をたたきのめした。


 八百年以上昔だぞ! あるわけがない! 首なんかとっくに腐っちまってる! なんでだ!? 何でてふの首がある!?


「う、わ……、あ、あああ……!」


 夜須は何度も声を上げる。腰が抜けて尻餅をつき、そのまま井戸から離れようともがいた。もがきながら後退ったとき、背中に柔らかなものが当たった。とっさにチラリと背後を見ると、赤い打衣の裾が見えた。


 赤ん坊の声が聞こえ始める。やはりむずがる声で、か細く泣いている。


 不意に両肩を掴まれた。傾けた首を戻せないまま、肩を掴む手を見た。白い血の気のない、女の手が肩に乗っている。


 赤ん坊の声が近い。すぐ間近で聞こえてくる。息もかかるほど近い。とても近い。近い。近い。近い。


 もうすぐ耳たぶに唇が付く、と夜須は反射的に目をつぶった。すると赤ん坊の声が止み、すぐに女の低く唸るような声音が、「夜須……」と囁いたと思った途端、耳が潰れそうな程の大声で、赤ん坊が泣いた。


 とっさに振り返る。誰もいない。しかし、確かに声を聞いた。この数日、夜須の耳元で囁き続けた声だ。


 女の口が、赤ん坊の泣き声を発していたとしか思えないほど近かった。


 あれはてふだと確信する。揚羽だと言われた女はてふだ。てふは最初から夜須のことを見ていた。夜須がこの島に、シジキチョウに執着するのを知っていた。と言うことは交野は利用されていたのか? 交野は生きているはずだ。怨霊に騙されて自分をはめたのか、と夜須は震えながら考えた。


 交野は決して死んでない。存在している。存在していなかったら、夜須は自分の身に起こった全てを認めないといけなくなる。


 それだけではない。


 この志々岐島にとぐろを巻く悪意も認めることになる。和田津に巣くう怨念と因業も。


 わざわざ、島外から人を呼び込み、和田津の民から選ばれていた贄を、和田津の地を踏んだ観光客から選ばせる。御先様は行き逢った贄を海に牽き、シジキチョウが肉を食い、女神に捧げ、和田津の民は恩恵にあずかる。


 それが延々と繰り返される。


 交野がいないことを認めると、その因業が存在することになる。


 贄を差し出さなければ災厄が来ると言う言葉が本当だったと認めてしまうことになる。


 交野家最後の一人、雅洋を御先様が祟り殺して滅亡させた。その体はてふが女神に誓ったとおり、女神に捧げられた。それを受け入れてしまうことになる。


 交野は絶対に死んでいてはいけないのだ。


 でなければ……。


 夜須は体の向きを変えて、四つん這いになりながらも惣領屋敷の門扉へ、死に物狂いで駆けていった。背後から赤ん坊の声が追ってくる。けれど、門扉を潜り転がるように石段を下りると、やがて声は小さくなって聞こえなくなった。

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