三月二十一日 6

 交野は暗い男だった。陰キャでも顔がいいので、とりあえずそばに置いておいて女子を釣ると言う役どころでもあった。


 しかも合コンの数合わせで呼んでも、群がる肉食系の女子達を相手にしないので、客寄せパンダとしてうってつけだった。


 彼への扱いは誰もが雑だった。


 夜須が交野を知ったのは、院生になってすぐだった。たまたまみんなが回し書きしていたノートを貸してもらったときに、そのノートの持ち主が交野だと聞かされた。


「完璧だな、いやロボかな、このノート、教科書並みじゃねぇか」

「このノートがないとなぁ」


 夜須の言葉にケタケタと同じゼミの連中が笑う。


「それにしても明日試験だろ? 返さなくていいのかよ」

「大丈夫、大丈夫。交野はノート見なくても最高点たたき出すヤツだから。ノートくらい貸したって困らないさ」


 そんなふうに交野が友人だと思っている奴らが笑う。貸せと言われて貸したノートが、交野の元に戻るのは、いつも試験が終わったときだった。


 それを交野は少しも気にしておらず、困ってもいないようだった。試験の結果も悪くなく、ノートに書いたことを必要としていない。


 夜須は頭のいい馬鹿が好きだ。勉強ができるくせにそれが実生活に役立ってない。交野はまさにそれだった。頭はいいが、押しに弱いのか優柔不断なのか、物静かで口数も少なく、人の言うなりだ。何を言われてもうっすらと微笑んで成されるがままだから、それすらも馬鹿にされていた。


「交野、おまえ、いつもそんなんじゃ、連中に馬鹿にされるぞ」


 友達面して忠告もしてみた。


「いいよ、気にしちょらんき」

「そうなのか? おまえが馬鹿にされるのは、いい気分じゃないなぁ」


 交野に目をつけ人なつこく彼に近づき、行動を共にした。そんな夜須に交野も気を許したのか、次第に打ち解けていったように思う。


「友人が馬鹿にされると腹が立つよ」


 まるで中学生の親友ごっこのように言い続けた。周囲にいる連中と交野が同じ性格だったら、そんな子供だましを信じることなどなかっただろう。


 しかし、交野は夜須が思う以上に孤独だったのだ。夜須の言葉に交野はまんざらでもない表情を浮かべる。今思えば、それは少女のような恥じらいだったのかも知れない。


 なんでも受け身の交野を、夜須はかなり気に入っていた。交野を何でも言うことを聞く犬と同じ感覚でそばに置いた。交野がどんな気持ちでいたのか、夜須は考えたこともなかった。


 二人とも同じゼミだったので、似たような傾向の研究をしていたせいか、交野はよく自分の論文を夜須に試読してもらっていた。


「いいんじゃないか? 俺もこんなふうに考えていたしな。冴えてるな、おまえ」


 夜須の言葉で嬉しそうに照れているのを見て、気持ち悪いヤツだと思った。交野が喜びそうな言葉を吐いて、徐々に距離を縮めていくのが面白かった。


 まるで、蝶を蜜で誘い出して、夢中で蜜を吸っている蝶を網で捕らえたあと、ピンで標本箱に飾り付けるのと似ていた。


 交野は夜須のコレクションだ。美しくてもろそうで、蜜に弱い。


 だから、夜須が論文のテーマに困っている、たまたまおまえの研究論文と同じテーマになってしまった、とぼやいたのを聞いた交野から申し出られたとき、心の中で舌を出した。


「夜須、ぼくは他のテーマでも書けるき。これ使うていいよ。参考にしてくれよ」


 本当に頭が良かったなら、こんなセリフは決して言わない。夜須は交野が馬鹿で良かったと思った。それからは、なし崩しに何度も交野が書いた論文を奪ってきた。


 しかし、交野が何も言わず夜須の言いなりになるのには理由があった。まさか夜須を特別視していたことには気づけなかった。もし、夜須がそれに気づいていたなら、交野の思いを芽のうちにひねり潰したはずだ。


 夜須は自宅から通学していたが、交野は高知県西端の離島が故郷なので、大学近くにアパートを借りていた。それもあって、よくホテル代わりに使わせてもらっていた。


「すまないな。いつも助かるよ。終電逃したら、行くところがないもんな」

「いいよ、夜須は気にせいでも」

「そうか?」


 夜須はソファを陣取って、交野が借りてきたアクション映画のDVDを見ていた。テーブルに置いたビールが空になれば、夜須のためにストックしている冷えた缶ビールを持って来てくれる。


 ソファの肘掛けに座って、ビールを片手に「乾杯」と掲げる。夜須も同じようにした。


 交野はしたたか酔っているようだった。ぐいとビールを仰ぐ。テーブルにはすでに空き缶が数個あった。肘掛けに座っていた交野が、夜須が足を伸ばしているソファに

腰掛けてきた。手を夜須の脛に当てて、はにかみながら呟いた。


「ぼくは夜須がおってくれるだけでええ。側におるだけで満足ちや」


 夜須は目を見開いて、交野を見た。ぞっとした。犬がナメクジに変わったくらいの嫌悪感が肌を舐めていった。


「何言ってんだ」


 交野が俯いて青白い肌を上気させて、もう一度口にする。


「側におりたい……。ぼくの気持ち、知っちゅーやろう?」


 夜須は汚いものから離れるようにソファから急いで足を降ろし、交野とは反対側へ身を寄せた。


 交野の気持ちなど知るわけがない。男が男にそんな感情を持つなど、考えたくもない。


 すぐにでもこの家から出て行きたかったのに、終電はすでに行ってしまった後だった。


「冗談だろ。何で今言うんだよ。しらけただろうが!」

「それは……」


 夜須の態度に戸惑っているのだろうか、交野が不安そうな表情を浮かべた。一言も発せず、どこか気が抜けたようにジッとしている。夜須の言葉を聞いて一瞬で悟ってしまったのだろう。


 始発までまだ遠い時間だったが、夜須は逃げるようにアパートを出て行った。






 交野がゼミの教室に入ると、一斉に視線が彼に注がれた。


「……おはよう」


 交野に心ない言葉がかけられる。


「おまえさぁ、男が好きなんだって? 夜須ぅ、夜須ぅ、側におるだけで満足ちやぁ。夜須が迷惑してるんだよ。気色悪ぃだろ」


 交野の顔色がさぁっと青くなった。


 夜須はそれを取り巻きの後ろからニヤニヤしながら見物した。


 青ざめた顔を下に向けていたと思ったら、交野はそのままきびすを返して教室を出て行った。


 それ以来、誰も交野を構内で見ていない。夜須もしばらくしたら交野のことなど忘れてしまった。

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