三月二十日 8

 夜須は引き戸を開けて店内の様子を窺った。まだ座れる場所を確認して、店内に身を滑り込ませた。


 すでに酒を飲んで出来上がっている客もいる。店内には料理や魚の匂いが満ちている。釣り客は金を払って大物をさばいてもらい、刺身にして喰っているし、定食を頼んでボリュームのあるおかずと山盛りの飯をがっついている客もいる。


 もちろん夜須の目当ての見覚えのある漁師達もいた。自分たちが座る定位置があるのだろう。三、四人がそこを陣取ってビールを飲んでいるのが目に入った。


「らっさい!」


 店の親父の声が店内に響く。観光客が多いこの島はよそ者に慣れているせいか、見知らぬ顔が入ってきても誰も気にしない。夜須は迷わず、漁師達の陣取っている席に向かった。


「ちょっといいですか」


 ビールとおつまみを食べている漁師達のあいだに顔を突っ込んで、気後れもせず夜須は話しかけた。


「わたし、夜須と言います。ちょっとお聞きしたいことがありまして」


 漁師達は顔を見合わせながら、怪訝そうに夜須を一様に見た。


「なんや」


 年長の漁師が訝しげな顔つきで答えた。


「いや、怪しい話じゃないですよ。シジキチョウのことを聞きたいだけです」


 すると、残りの漁師達は気が抜けたような表情を浮かべて、ジッと夜須を見つめたあと、どっと笑った。


「なんだ、学者の先生か何かか。シジキチョウのことなら何でも聞いてくれ」


 他の漁師も気を許したのか、夜須に席を勧めた。


「じゃあ、遠慮なく。で、シジキチョウのことなんですが、このあいだ、蝶を見た人がいると聞いて」

「ああ、ヒロシが見た言いよったな。おい、ヒロシ!」


 五十代くらいの精悍な顔つきの漁師が手を振って、離れた席で若い漁師と話し込んでいるヒロシを呼んだ。


「はーい、どうしたんすか?」

「ここにいる先生が、おまえの見た蝶の話を聞きたいんだと」


 返事をする代わりにヒロシは人を避けながら、狭い店内を移動してきた。


「あ、ども」


 軽くヒロシが夜須に会釈する。


「君がシジキチョウを見た人?」

「あー、そうです。それがどうしたんですか?」


 席を詰めてヒロシを席に座らせ、夜須は店の親父に瓶ビールを三本頼んだ。


 冷えたビールが運ばれてきて、ヒロシのコップに夜須はビールを注いだ。


「シジキチョウを間近で見たんだよね? どのくらいの大きさの蝶だった?」


 すると、ヒロシの顔色が少し悪くなる。


「そうですね、三センチ? くらいかな。とにかく小さいですよ」

「色は? 赤いと聞いたけど」


 夜須は胸ポケットから手帳を取り出して、メモしていく。


「真っ赤でした。血みたいに。最初血だと思ったくらいだから」

「何か模様はあったかな?」


 ここまで来ると、本当に間近に蝶がいないと分からないだろうが、あえて夜須は訊ねた。


「模様……そこまでは見えませんでした。それにしても、なんでシジキチョウのことなんか調べてるんですか」


 その疑問を呈するヒロシに対して、夜須は一見優しそうな笑みを浮かべた。


「もちろん、研究のためですよ。他に類を見ない蝶だと聞いてこの島に来たんですし。死体を食べる蝶なんて世界中探してもいないですから」

「そがに珍しいんやか? あんな気味が悪い蝶をよう調べようって考えるなぁ」


 同席している漁師が誰ともなく言った。


 ヒロシが押し黙って浮かない顔をしている。


「どうしたんですか?」

「あのさ、先生……。蝶が人みたいになるって聞いたことはありますか?」

「人?」


 すると、今まで黙っていた一番年上そうな漁師が口を挟んだ。


「そりゃ、女神さんでも見たがじゃろ。シジキチョウは女神さんのお使いやき」

「人の姿になったんですか?」


 ヒロシは青ざめたまま、頷いた。


「ヒロシ、あんなもの、これからたくさん見ることになるき気にしなさんな。それ、ビールでも飲め」


 もうちょっと深掘りしたかったのに、老漁師に邪魔されてこれ以上は聞けそうになかった。


 心の中で舌打ちしながら、夜須は立ち上がり、「お邪魔しました」と言って、少し離れた空席に座り直した。


 ふと漁師達の方を振り返ると、先ほどまでにこやかと話していた彼らの顔つきがどんよりと変化していて、夜須と目が合うとそらされた。


「なんなんだ」


 夜須は小さく悪態をついた。彼らはシジキチョウのことを本当は教えたくないのだ。さっきも女神だのの話になった途端に態度が変わった。彼らにとってシジキチョウ自体が金銀財宝になることなどないのに、何故話すのを嫌がるのだろう。


「お客さん、何食べるの?」


 店の奥さんが注文を聞きに来た。気付けば、店に来てすでに一時間経っていた。さして収穫にもならない聞き取りにビール三本費やしたことが馬鹿らしくなった。


 とりあえず店のおすすめの献立を頼み、早めの夕飯にして、この日は惣領屋敷に戻ることにした。





 日が暮れて、外灯もなく、月明かりだけを頼りに石段の一番上に建つ惣領屋敷に戻る。


 空を見上げると、明かりがないだけに星が恐ろしく光り輝いているのが目に映る。圧倒的な星の量とその星達から発せられる精気に当てられて、気持ちが悪くなる。天の川にかかる一際ぎらぎらと光を発する星が、きれいと言うよりも不気味に感じられた。都会では見ない空だからか、名状しがたい恐怖に駆られる。


 夜須は慌てて空から目をそらし、足下を見て一心不乱に屋敷の門扉をくぐった。


 相変わらず門扉の電灯はチカチカと明滅している。踏み石を渡り玄関までたどり着く。ようやくか細くはあれど明かりの下に出られてほっとする。


 玄関の引き戸を開け、交野を呼んだ。


「おーい、今帰ったぞ。交野」


 すると、すーっとふすまが開く音がして俯いた揚羽の横顔が現れた。髪は黒々とうねる海藻のようで、白い頬が辛うじて見える光量だった。小さくぐずる赤ん坊を抱いている。


「揚羽ちゃん、今日はゴメンなぁ。取材があって夕飯は下の食堂で食べてきたんだ」


 一応、声をかけると、揚羽は何も言わず部屋に引っ込んでしまった。


「なんだ、ありゃ」


 返事くらいすればいいだろ、と夜須は気を悪くしながら、靴を脱ごうと屈んだ。


「おかえり」


 いきなり頭上から交野の声がして、夜須はぎょっとして頭を上げた。


「な、なんだ。驚かすな」

「何か収穫はあった?」


 あまりなかったとは言え、愚痴を吐いて弱みを見せるのは嫌だった。


「ぼちぼちだな」

「そう」


 交野が後ろを向き、自分の部屋に戻ろうとするのを、夜須は呼び止めた。


「交野」


 暗い廊下の先に行こうとした足を止める。


「交野、おまえ、本当はシジキチョウのことも島の言い伝えも何もかも分かってるんじゃないのか?」


 自分をシジキチョウに関連する場所に連れていきながら、交野の口からシジキチョウのことが語られることはほとんどなかった。


「出し惜しみするくらいなら、ここで話せよ」

「……お風呂沸いちゅーき好きなときに入りなよ」


 夜須は仕方なく、言われたとおり先に風呂をもらい、いつの間にか敷かれた布団の上にどかっと座り込んだ。


 コンビニもないので雑誌や酒も買ってこられない。テレビもラジオもないので時間をやり過ごすのも一苦労だ。せめて寝酒を飲みたいと思い、部屋から出ると台所へ行った。


 ちょうど喉も渇いていたので、棚からコップを探し出してシンクで軽く洗ってからと思い、水を注ごうとした。


 蛇口をひねった途端、ゴプッと言う音を立てて水が噴き出した。まるでしばらく水を出していなかったような、そんな音だ。そういえば、庭に井戸があった。別の井戸水を使っていて、普段は水道水を使っていないのかも知れない。


 コップに水を注いで飲もうとした。


 ふいに背後に気配が立った。夜須はすぐに気付いたが交野がまた驚かそうとしているのだと思った。黙って水を飲み干し、振り向こうとしたとき、左の耳元で微かに女の声が、「夜須ぅ……」と囁いた。


 ビクッとして左を振り向く。誰もいるはずがない。足音だって聞こえなかった。ただ気配がしただけだ。それに左には冷蔵庫があって、人が立つ隙間がない。


 冷蔵庫がブウウ……ンと音を立てているのを聞いて、きっとこの音を聞き間違えたのだろうと思い直した。


 冷蔵庫を空けると、いくつか缶ビールがあったので、それを取り、部屋に戻った。

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