三月二十日 7

「その若い漁師と今から話はできないですかね」


 シジキチョウを間近で見たのだ、是非話を聞かないでおられるかとばかりにしつこく訊ねたが、神主は首を振る。


「そりゃ無理ですよ。今は漁の最中で帰ってくるがはだいたい十六時くらいになるからねぇ。それでも聞きたいときは夕方頃、お食事処まきちゃんに行けば、たいがい漁師仲間と酒盛りをしていますから、そこで話を聞いたらいいですよ」


 夜須からしてみれば今すぐにでも話を聞きたいところだ。ダメ元で訊ねてみる。


「その人、携帯電話とか持ってないんですか」


 それを聞いた神主が吹き出して笑う。


「おまえさん、沖合の海で携帯電話は繋がらないですよ。それに第一、うちはその人の番号を知らないからねぇ。ただね、シジキチョウや島の言い伝えに詳しい人は他にもいるんですよ。かんべのおばあちゃんがよく覚えてます。志々岐島の生き字引ですよ」


 沖の海で電話が繋がらないことくらい知っている、と内心思いながら、夜須は下出に出た。


「じゃあ、そのかんべのお婆さんと連絡取りたいんですが……お願いできますか」


 もちろん漁師とも話をするが、生き字引とまで言わせるお婆さんのことも気になる。


「ちょっと電話番号書いてきますね」


 神主は足音を立てて廊下を小走りに奥へ行ってしまった。


 御先様やご落胤の首の話が聞けたことより、シジキチョウが血肉をすする珍しい蝶であることが分かっただけでも収穫だった。


 腕時計を見ると、十五時を過ぎていた。あと一時間くらい待てば、帰ってきた漁師達と話ができるだろう。親しくなくても、酒の一杯や二杯奢ってやれば、気分を良くして話してくれるかも知れない。


 夜須は交野に向き直る。


「おまえ、先に帰っていいぞ。夕飯はさっき言ったように外で喰うから」


 しばらく押し黙ってから、交野は頷いた。


「わかった」


 ずっと黙って夜須の後ろに座っていた交野がそっと立ち上がる衣擦れが聞こえる。神主が戻ってくる前に、交野はひたひたと静かに作務所から出て行った。


 交野が帰ったすぐあとに、神主がメモを持って戻ってきた。


「お待たせしました。これ、かんべの電話番号です。それにしても、おまえさん、お名前が夜須と言うんでしたっけ? 面白い符号ですよね。まさか源氏の夜須七郎と同じ名前の人に会うとは、わたしも思ってなかったですからねぇ」


 これに関しては夜須も驚いたし、先祖がこの島の歴史に関与していて、なんとなく優越感を覚えていた。だから、そう言われて笑みが浮かんだ。


「御先様のことで最後質問なんですが」


 話を聞いていて気になったのは、御先様は何故ご落胤が先頭でなく、娘が先頭なのかという点だった。神主はその問いに、苦笑交じりの顔つきになった。


「わたしにも分かりません。これだけは言えるんですけど、志々岐島で御先様を見た人はいないんですよ。もし見たとしても死にますから。死人に口なしです。おまえさんも気をつけとーせ、夜須七郎と同じ名前を持ってますからね、祟られたりしたら大事です」


 神主は冗談めかして言った。


 夜須はこれを最後に帰ろうと思い、訊ねる。


「神主さん、この島には碧の洞窟ツアーがあるんですよね? 碧の洞窟に入ってみたいんですが」

「ありますよ。と言うかあそこしか碧の洞窟まで案内してくれるお店を知らないですねぇ」

「その店に行けば申し込めるんですか」

「ええ、港前のアクアマリンっていうマリンスポーツショップで受け付けてますよ」

「ありがとうございます。お時間取らせてしまって……お話面白かったです」


 夜須は立ち上がると軽く会釈した。メモを受け取ると、神主に見送られて作務所を出た。





 境内の狛犬に寄りかかって、夜須はかんべに電話した。電話口に出たのはおかみさんらしき中年の女性だった。


「あの、志々岐神社の神主さんから、そちらのお婆さんが志々岐島の言い伝えなどに詳しいと聞いたんですが」

「おばあちゃんね。今日は病院に行っちょって夕方の定期船で帰ってくるがよ。そのあとはもうおばあちゃん寝てしまうき、明日でええならお話ししちょくわよ」


 何だ、寝ちまうのか、と心の中で悪態をついたが、考えてみれば夕方からはお食事処に行って漁師に話を聞かねばならなかった。ちょうどいいかと気を取り直した。


「じゃあ、あした伺います。何時がいいですか」

「おばあちゃん、朝早いき、八時くらいがええかしら」


 いくら何でも早すぎると思い、どうせずっと家にいるだろうと勝手に解釈して、相手の言った時間を無視して、「それでは九時に伺います」と答えて電話を切った。





 石段を下りていき港に入ると、発着場近くで明るい青を配色し今風にデザインされた木造の店を見つけた。店のドアは開け放たれていて、内部がよく見えた。ロッジ風の茶色い木板の壁と床、天井から浮き輪がぶら下がり、南国を思わせるハイビスカスの造花が壁に飾られて、カヌーが立てかけられている。


 夜須は今日の一番遅い時間のツアーに参加できたらいいと考えていた。椅子に座り、雑誌を読んでいる三十代くらいの店主が顔を上げて夜須に笑顔を向ける。


「いらっしゃい」


 夜須は店内を物色しつつ店主の前に立つと今日のツアーに申し込みたいと伝えた。


「すいませーん、今日のツアーはもう締め切ってるんですよ。明日の朝、来て下さい。碧の洞窟ツアーの締め切りは朝の十時になります」


 夜須は店を出ると、ブツブツと文句を言いながら港を見渡した。視界の先に何隻もの漁船が和田津港に着港しているのが見えた。あの船にシジキチョウを見たという若者もいると思うと、歩いていくのももどかしくて、小走りにお食事処まきちゃんへ向かった。


 ずいぶん前に港に着いていたのか、漁師達はまばらに集まって話をし、港前に店を営むお食事処まきちゃんに入っていく。


 店ののれんにはお食事処まきちゃんと染めてある。やや色あせて年季を感じさせる。アルミの引き戸は茶色で磨りガラスがはめ込まれているので、中の様子までは分からない。


 ガヤガヤという話し声だけはしっかりと聞こえてくる。ずいぶん客が多いようだ。漁師だけでなく、夜釣りをして帰ってきた釣り客も交じっているのだろう。

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