三月二十日 5

「よう、いらっしゃった。さぁ、上がっとーせ」


 頬が日に焼けて赤く照っている、気さくそうな男性が作務所の中へ案内してくれた。


 日頃は作業をする部屋と思われる座敷に、座布団を敷いて座るように勧めてくれる。夜須は遠慮なく座って、お茶を持ってくるといって出て行った神主の後ろ姿を見つめた。


 すぐにでもシジキチョウが生息していそうな場所に行きたかったが、あまりに情報が少ないのと、皆が口を揃えて二十二日の翌日に出ると証言するので、夜須はかなりやきもきとしていた。二十三日まで待つなどありえない。


 しかも、島民が言うようにいきなり成体となって現れるとは考えられない。卵から幼体となり羽化して成体と化す過程を飛び越えることなどできないはずだ。必ずどこかに生息場所がある、と夜須は睨んでいた。


 交野に話しかけるわけでもなく、無言で待っていると、足音をさせながら神主が戻ってきて、ふたりの前に茶器と茶請けを置いた。


「さて、シジキチョウのことやったか」


 夜須が電話でシジキチョウのことを教えてほしいと言ったことを覚えていたのだろう。


「シジキチョウはね、碧の洞窟の祠に祀られている女神さんの神使ですよ。まぁ、いろいろあって、表向きは蛭子神が祭神になっちょります。あの祠はうちが管理しちょりまして、確か文献には元歴二年……だいたい千百八十五年に建立されたそうです。うちの祭神は綿津見毘女命わだつみひめのみことです。祠の女神さんのことやね」


 古事記や日本書紀で、綿津見毘女命など聞いたことも見たこともなかった。


「その名前に聞き覚えがないですね」

「そうやろうねぇ、神仏習合で寺社仏閣が統合された後、また神仏分離がおこなわれた結果、元々祀られちょった神が分からんなって……というのは、よう聞かれることです。うちは祠があったき由来が分かるのやけんど、綿津見毘女命はこの島にだけ御座おわす神様なんでしょうねぇ」


 夜須は「はぁ」と生返事をして、神主がシジキチョウのことを話すのを待った。


「元々ね、シジキチョウは綿津見毘女命の体から生じたシシキチョウというお使いでして、この神社もそれにちなんで、志々岐ししき神社と濁らん呼び方なんです。祠にもちゃんと由緒があるんですよ。島に流れ着いた鯨の腹の中から出てきた女人を祠に祀ったら、赤い蝶が出てきたき神使とした。この蝶が屍を喰うため、シクイチョウまたはシジキチョウと名付けた、と。ほとんどこの神社と似たような由緒ですねぇ」


 楽しそうに話す神主を見て、夜須はおしゃべりな男だなと思う。生返事を繰り返しながら、出された茶と茶請けを口にした。


「その鯨が流れ着いたのがちょうど元歴二年のことで、養和の飢饉ってご存じですか?」

「淨願寺の住職も同じことを言ってましたよ」


 神主は夜須の茶がなくなったのを見て、急須を持ってくるといい、中座した。


「ここの神主、住職と同じ話でもするのか? 時間の無駄だったな」


 交野にこそこそと話しかけたが、心ここにあらずといった表情を浮かべていて、夜須の言葉に返事をしなかった。


 しばらくすると、ポットと急須を持って神主が戻ってきた。やはり茶請けも今度は籠に盛ってきた。


 かなり長く話すつもりなんだろうか、と夜須は辟易したが、シジキチョウの情報を得るには神主に調子を合わせないといけないだろうと諦めた。


「どこまで話したかな……そうそう、養和の飢饉。他の島も飢饉で苦しんでいたんですが、志々岐島だけ鯨で飢饉を食いつないでしのいだ逸話から、屍食島と書いてしじきじまと呼ばれるようになって、今の志々岐島になったんやそうです」


 舌が滑らかになると、甘いものが欲しくなるのか、客のために出したはずの茶請けに神主は手を伸ばし、笑みを浮かべてながら、一口でまんじゅうを頬張った。


 いつまでも志々岐島の由来を聞かされるのかと思い、時間の無駄だと判じて、帰ると言おうとしたとき、やっと神主がシジキチョウのことを話し出した。


「ただねぇ、志々岐島の由来、シジキチョウと縁が深い気がするのですよ。島民が鯨の肉を食うとシジキチョウが屍を喰うのとだと、うちは蝶のほうが先や思うんですよね。シジキチョウは死体の肉を食うからね。この島に移住した昔の人は、さぞかし不気味に思うたろうねぇ」


 やっぱり死体の腐汁を吸うのではなく、喰うのか? 交野もそれとなく言っていたが、本当だったのかと夜須は興味を覚えた。獣の腐汁を吸う蝶なら他にもいる。あの細い口吻でどうやって水死体の肉を喰うのだろう。第一、何に期待して自分はこのしけた島に来たのか。それは、シジキチョウが動物の腐汁ではなく死体を食うと聞いたからだ。夜須に従順な交野が自分に嘘をつくわけがない、と思い込んでいたせいだ。


「水死体を喰うと言いましたが、どうしてそんなことが分かるんですか」

「普通そう思いますよね。だけどねぇ、水死体に細かな穴が開いてるんですよ。まるで蝶が花の蜜を吸うように、シジキチョウは蝉のように口吻を死体に突き立てて肉をすするんですなぁ。シジキチョウが群れた後の水死体は見るも耐えられん姿になると聞いていますし、実際に見もした。いやぁ、小さな穴が無数に開いてるのはぞっとしますね」


 腐汁ではなく死体を貪るのかと思うと、急に夜須は神主と話すのが苦痛ではなくなった。そんな蝶など類を見ない。本当に新種の蝶かも知れない。


「その蝶はどこに行けば見られますか。幼虫とか卵を見たことがありますか?」


 そうすると、神主は眉を下げて残念そうに答える。


「それは島の人はみんな知らんのやないかなぁ。わしも小さい頃は友人と一緒に幼虫やら探いたことがあるんですけど、見つかりませんでしたし、島に調査に来た先生方も結局諦めて帰ったし……」


 夜須は残念そうに肩を落としたが、諦めきれずに訊ねる。


「シジキチョウは水死体しか喰わないんですか。山で死んだ獣を喰うことはないんですか」

「今までの経験上、碧の洞窟付近で上がる水死体に群がっている話はよう聞くが、神部山で見たという話は聞かんですなぁ。それより、面白いものがあるんですよ。見ていきませんか」


 急に神主が浮ついた声音で座敷の端に置かれた掛け軸を取りに立ち上がった。夜須が訪ねてきたときにはすでにそこに置いてあったので、元からその掛け軸を見せるつもりだったのだろう。やたらと声が弾んでいるので、住職が言っていた生首の掛け軸なのは確かだ。

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