三月十九日 3

 引き戸のガラス越しに暗闇が見える。人気を感じない。

 妹がいるならば、うっすら灯っていてもおかしくないものだが、そんな様子もない。

 本当に妹がいるのか、くだらない冗談はよせよと言いかけたとき、玄関から赤ん坊の声が聞こえてきた。ぐずって引き気味の泣き声だ。

 か細く悲鳴を上げるように泣いているのを聞いて、交野の言うとおり留守を任された妹がいるのだろう。


「おまえの子か?」


 夜須の知らないうちに、交野が結婚していたのかと思うと、面白くなくて不機嫌になった。


「妹の子供ちや。ぼくの子供やない」


 交野が即答して引き戸を開けた。人感センサーなのか、ひとりでにライトが灯る。


 誰もいない。あれほど間近に聞こえていた赤ん坊の声が、いつの間にか廊下の奥から聞こえてくる。


 だんだんと明るさに目が慣れてくると、奥の部屋から横顔を覗かせている揚羽の姿をみとめた。


 俯き加減で、長い黒髪が頬にかかり表情までは分からないが、胸に赤ん坊を抱いていて、ゆっくりと上体を傾けてお辞儀をした。

 正座をして、やや渋い赤い色の服を着ているようだ。


 一言も発しないのと、顔すら見せないのとで、すぐに夜須は揚羽を陰気な娘だと断定した。


「夕飯の用意ができちゅーき」


 そう言いつつ、交野が夜須を客間に案内し、準備が整ったら呼びに来るからと、部屋から出て行った。


 夕闇が迫る座敷の電灯のプルスイッチを引っ張って、明かりを点す。蛍光灯のソケット部分が灰色がかって切れかけているようだ。

 今に門扉にあった外灯のようにカチカチと点滅を始めるのではないか。


 十分な明るさがないためか、部屋の隅は薄暗く、闇がわだかまっているように見えた。


 キャリーケースを開いて、中身を確認する。とりあえず二十三日迄の着替えは用意してきた。不足はないと思うが、予期せぬこともあるだろう。


 座敷は薄ら寒く、どことなく居心地が悪い。まんじりともせず、夜須はしばらくの間、あぐらを掻いて交野が呼びに来るのを待った。

 腕時計を見ると、もう十九時を過ぎていた。島に降り立ったときからどうも時間の感覚がおかしい。日が暮れるのが早いと思った。


 この部屋だけでなく、屋敷全体が薄暗くて気味が悪い。泊めてくれると言われたから宿の手配をしなかった。仕方なく辛気くさい屋敷に留まっている。


 酒の一つでも用意して、それを飲みながら待ってくれと言うほどの気遣いがない。相変わらず要領の悪いやつだと、舌打ちする。


 寒さに足先が痺れ始めたとき、やっと交野が呼びに来た。


「夕飯の準備ができたき。待たしてごめん」

「おい、遅いぞ。これだけ待たせたんだから、美味いものを用意してくれてるんだろう?」


 廊下の先を行く、交野が振り向きもせずに静かに答える。


「揚羽が作ってくれたんや。ご馳走ちや。夜須は客やき、特別に腕によりをかけて作ったらしいよ」


 薄暗い廊下を玄関の前で右に曲がり、客間より少し広い座敷に案内された。


「座って待っちょってくれ」


 交野に言われて、夜須は上座を陣取り、正面の縁側から見える庭を見つめた。


 広い庭が座敷に点された電気の明かりに照らされて、ぼんやりと暗闇から浮かび上がる。

 右側の奥にどうやら台所があるようで、交野が湯気の立ち上る汁物や茶碗と湯飲みを載せた盆を持って入ってきた。


 料理が座卓に並べられている。色とりどりの洋食から、郷土料理なのか煮物を盛った皿があった。地元の魚の刺身やキビナゴの天ぷらもある。


 食べきれないほどの量が用意されていたが、揚羽が台所から出てこない。


「おいおい、こんなに俺たちふたりで食べられるのか?」


 すでに栓を開けてあった瓶ビールを傾けて、交野が二つのコップに注いでいく。片方を夜須に手渡し、もう片方を手に取ってコップを軽く掲げた。


「乾杯」

「おまえとこんなふうに酒を飲むのは久しぶりだな」


 夜須は少し気を許して口角を上げた。


「明日は志々岐島を案内するよ」


 コップのビールを一気に喉に流し込む。冷えたビールが胃の腑に落ちていくのが分かる。

 夜須は箸を手に取り、小皿に料理を取り分けていく。少々塩辛く、ビールによく合う味付けだった。

 歯ごたえが少しジャリジャリする料理もあったが、どれも美味かった。


 ふすまの向こう、台所から赤ん坊の弱々しい泣き声が聞こえてきた。揚羽がいたことを思い出して、交野に訊ねる。


「揚羽ちゃんは一緒に食べなくていいのか?」

「ああ、揚羽はええよ。先に済ました思う」


 客と顔もあわせず、先に食事を済ませるなど常識がないと夜須は鼻白んだ。不機嫌な表情を浮かべていることを交野が悟ったのか、座卓に置いた空のコップにビールを注ぐ。


「赤ん坊がおるき」


 夜須は答えないまま庭に目をやった。障子が開け放たれ、掃き出し窓一枚で庭と縁側が隔たれている。

 何故か反射して見えないはずの暗い庭の様子が手に取るように分かる気がした。


 正面に井戸があり、苔むした井戸には竹か何かで作った蓋がしており、隣にはぐねぐねと曲がった太い幹を持つ青々とした葉の樹木が生えている。

 その左右の真ん中に自然石とは思えない整った形の石が置かれている。

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